大きな手の男(その2)
その後、彼は持ってきたパソコンを開いて本格的な調査、つまり、アンケートをした。あたしの左脳はまじめに答えつつも彼の最後のセリフ『もし、相手への興味があれば、当然、相手を思いやることができ、……』が右脳の中で何度も響き渡った。もしかしたら、あたしの人生に欠けていたものはこれかもしれない。
物心ついた頃から、人の視線が痛かった。相手の顔や眼を見て話すことは苦手だった。小学校のころは、友達とおしゃべりをするよりも一人でピアノの和音に聞き入っている方が楽しかった。中学、高校では、形だけはどこかの女子グループに入っていたけれど、黙って皆の話に耳を傾けていた。大学に入って、周りを気にしなくなってコンピューターとロボットにのめりこんだ。
彼(河津耕三)は、あたしの回答をカタカタとノートPCに大きな手、大きな指で入力していく。いわゆるA4サイズと呼ばれる大きめのノートなんだけど、彼の手に比べるとノートが随分小さく見える。大きな手に太い指、隣り合う2つのキーを同時に押すには便利かもしれないけど…… たくましく、それでいて肌にふくよかさの残る若者の手だ。顔は手入れと化粧で歳をごまかせるけど、手の年齢はごまかせないのよね。あたしより確実に3つは若いわ。
アンケートを終え、にこっと笑って彼はこう言った。
「さて、これで、本日の仕事は終わりです。では、ゆっくり楽しみましょう。何がいいでしょうか? どこでもいいですよ」
「どこでも?」
「予算と時間の許す限りという条件は付きますが、大抵OKです。特に、希望がなければ私の方から候補を3つ、4つ挙げますが」
「そうね。ここの所、足の怪我でおとなしくしていたから、体を動かすというほどではないんだけれど、何かスカっとするようなことをしたいわ…… 遊園地はどうかしら」
「東京ランド?」
「うーん、アトラクションがあるような所じゃなくて…… クラシカルな、メリーゴーランドがあるような遊園地って、ないかしら?」
「……」
彼は考え込んでいる。しかも眼が上方のあらぬ方向を見ている。なんだか、顔が少し青ざめているようにも見える。後になって、はたと思い当たったのだけど、この時、彼は遊園地でのあの事件を確かに予感していたのだ。
「では、あそこに行きましょう。地下鉄で何駅か行った所で、多分、ここから一番近い遊園地です」
あたしたちは、歩行者天国をもと来た方向へ歩き出した。先ほどよりも少し人が増えたようね。若いカップルもいれば、幼い子の手を引くパパやママ。お揃いのシャツを来た老夫婦。あたしもこんな風になれるのかしら。パートナーが現れ、子が生まれ、何十年と寄り添って趣味まで同じになる連れ合いができるのかしら。
いつの間にか、また、道路の真ん中を歩いた。彼があたしをエスコートしているはずなのに、知らず知らずに彼に誘導されているのだわ。道の真ん中からだと空がよく見える。あたしは天気が回復する兆しをみつけた。
「河津さん、空を見て。雲がすごい速さで動いているわ。それに、少し、空が明るくなった。じきに晴れるのは間違いないわね」
彼は空を見上げて少し頷くが、何も言わない。何か心配ごとでもあるのかしら。
都会の真ん中にある遊園地は、色々な乗り物が密集している。天気が悪いのに、結構、人がいる。若いカップルが大半で、家族連れが少々。カップルは例外なく手をつないでいる。あたしは、ちらちらと彼の大きな左手を見るが、全然、手をつないでくれる気配はない。あたしたちはカップルでもなければ、見合いをしているわけでもないので、当然と言えば当然だけれど。仕事仲間ですらないわ。彼は接待係で、あたしは接待される側。むむ! まてよ、接待ならば、手を握るもの接待だわ。頼めば手を握ってくれるかしら。あの大きく、たくましく、それでいてふくよかな手でがしっとあたしの手を握ってくれないかしら。右脳の中を、妄想が、彼の手が、駆け巡る。
彼の声があたしの妄想を止めた。
「さて、どこからにしましょう」
「…… えーと、やっぱり、最初は、クラッシクなものがいいわ」
「では、あそこのティーカップは?」
「え、あれって、ティーカップって言うの? コーヒーカップって言うんじゃないの? だって、形が円錐ではなくて円筒に近いし、それに、なにより、ぐるぐる回るところは、ミルクを入れていかき混ぜるコーヒーに似ているじゃない」
「お気持ちはよくわかりますが、この案内図にはティーカップと記載されています」
「もしかしたら、関東ではティーカップと呼んで、関西ではコーヒーカップと呼ぶとか」
と、あたしは食い下がる。
「さあ、どうでしょう。とりあえず、並びましょう」
ほぼ、一回分、あたしたちは並んだ。外から見ているだけで目が回りそう。おかげで、自分たちの番になって歩き出した時によろよろしてしまった。そうしたら、彼はすかさず、あたしの手を、正確には指を、かれの指先でかるく握ってくれた。丁度、王子様がお姫様をダンスに誘う時のように。かれの指は、思ったとおりだった。かさかさでもなく、つるつるでもなく、少し湿り気があり、少し温かみのある指だった。
コーヒーカップ(あたしは絶対『コーヒーカップ』だと思う。ティーカップなんて呼んだら上品すぎるわ)にたどり着くと、彼はさっと手を引いた。あたしの指先から彼の指の記憶が消えていく。あたしは、何が何でも、彼の大きな手をゲットしたくなった。どうすればよいか左脳が作戦を練る。そうだ、簡単だわ、さっきと同じ状況を作ればいいんだわ。これを作戦Aと名づける。
コーヒーカップは快調に回っていく。快調すぎて気分が悪いぐらい。止まって、立ち上がった時、演技でなく本当によろよろした。ここまでは作戦通り。想定外だったのは、彼もよろよろだったこと。とても相手をかまっている余裕はない。あたしたちは子供達が走って出て行くのを横目で見ながらのろのろと歩いて出て行った。
作戦Bの舞台はお化け屋敷。
常々思っているのだけど、世の男性はお化け屋敷を楽しむことを知らない。つまり、本当は怖いんだけれど『こんな作りもののお化けなんて、俺はちっとも怖くないぜ』という顔をする。中には、『この間、行ったお化け屋敷の方がリアルだった』とか『もう少し、血を流した方がいいんだけどなー』などと味気ないコメントをするやつがいる。男性とは逆に女性はお化け屋敷の楽しみ方を知っている。本当は怖くないのだけど怖いふりをする。『キャー』とか『やめてー』とか『もう怖くて先に進めない』とか、ここぞとばかりに演技をする。少々演技が下手でもお化け屋敷の雰囲気が補ってくれる。そうやって、男性の気を引く。男性はころっとだまされるのだそうだ。実は、あたし自身は試したことがないのよ。これは、みんなある女友達の話。彼女は新しいボーイフレンドができるたびに、必ずお化け屋敷に連れて行って、ボーイフレンドに仕掛けて反応を楽しむのだそうだ。ボーイフレンドは十中八九、偉くなったように気になってご飯をおごってくれるそうだ。あたしの作戦Bはご飯をゲットするのが目的ではなく、彼の大きな手であたしの手をしっかり握ってもらうのが目的。
この遊園地のお化け屋敷は純和風。火の玉や、墓石、卒塔婆、柳に、恨めしやという定型的な表情で出てくる幽霊のロボット。文脈のない中では『恨めしい』という表情は絵にはできないのだという気がするのだけど。とにかく、全然、怖くないわ。ライトアップも普通なら、出てくるタイミングも普通。凝っていると言えば、冷風と温風、弱風と強風を使い分けているところかしら。こんなところで、『キャー』とか言わなきゃいけないの…… と最初は思っていた。
幽霊ロボットも2次元の安直なものがあるかと思うと、立体的で、複雑な動作をするものもある。それでもゴーストさとる君の開発したペンちゃんに比べればレベルの差は歴然としている。その時まではそう思っていた。出てきたその幽霊ロボット(男性)は蝋人形のようにリアルに作られていた。でも動作は単調。あたしの顔のすぐそばまで、恨めしやというこれまでと同じ定型的な表情で出てきた。ここで、『キャー』と叫んで右側に立っている彼の左手を握ろうとしたその瞬間。なんと、その幽霊は、にやっと笑った。口をほんの少し開けたかと思うと、真っ赤な舌であたしのつま先から頭の先までを『ぞぞぞぞ』っと舐めたのだ。本当は舐めていなかったと思うわ。そんなに舌は長くなかったから。でも、何か見えない舌のようなものがあたしを舐めた。と同時に、足先から頭にかけて鳥肌が伝わっていった。あたしは思わず叫ぼうととしたが、言葉が組み立てられなくて、口をパクパクさせるだけだった。夢中で彼の手を握って押していく。一刻も早くその幽霊から遠ざかるために。ゆっくりゆっくり、じりじりと遠ざかるが、視線は、幽霊からはずすことができない。じっとこちらを見ていた幽霊は、こっちへこいと手招きをする。それからはもう、反対を向いて一目散に逃げた。彼の手をひっぱりながら。
実際には走っていなかったのかもしれない。出口にたどり着いたあたしは、ハアハア言っていたけど、彼は何ともないようだったわ。
「ねぇ見た? 河津さん見たわよね?」
「え、何を?」
「幽霊よ!」
「ええ、幽霊は沢山いましたね」
「そうじゃなくて、最後に見た幽霊。いや、最後じゃないわ。えーと。何て言えばいいのか。あの幽霊。あの超リアルな幽霊」
「ええ、皆リアルで迫力ありましたね」
「そうじゃなくって、一つだけ、一体だけ、違っていたじゃない。そう言えばわかる? そうだ。あたしがあなたの手を握って、引っ張っていく直前に見た幽霊。そう言えばわかるでしょ」
「いいえ、わかりません。だって、手は握っていませんよ。ほら」
そう言って彼は左手を見せた。その動作につれて、あたしの右手も動いていく。何と!あたしの右手が握っていたのは、かれのベージュのジャケットの左袖だった。慌てて手を離すと、あたしの右手は真っ赤。ジャケットの袖はくしゃくしゃ。よほど力を入れて握っていたのね。
こうして作戦Bは完全に失敗した。