大きな手の男(その1)
対面当日は、しとしと雨が降っていた。少し、肌寒いけど、夏の到来はすぐのはず。梅雨の終わりは天気が荒れることがあるから要注意ね。
実は、あたしは雨が好き。特に雨音が好き。雨音に包まれていると、他人の視線がシールドされるのよ。この世にあたし一人しか存在しないような錯覚の中で、じっと雨音を聞いていると、雨の息遣いが聞こえてくる。だんだんと激しくなる雨、そして、ゆっくりゆっくりと間遠になっていく雨音。最後の一滴が落ち、雨のやむ瞬間を見つけた時は、嬉しくなる。丁度、バッハのピアノ曲で、抑制された感情の起伏を見つけた時の嬉しさと似ている。
あたしは、お気に入りのブランドものの折り畳み傘を持っていくことにした。上品な赤紫とこれまた上品な水色のツートンカラーだ。服は、傘よりも少し彩度の高いブルーのワンピース。右足のマジックテープ留めのサンダルは、玉にきずだわ。もう松葉杖は使っていないのだけれど、サポーターを巻いた右足は、普通の靴やおしゃれなレインシューズをはける状態ではないわ。しかも、雨が降っているので、濡れることは確実。それでも雨の中を出掛けるのはウキウキする。その日あたしが会う候補者が『リサーチタイプ』だったというのもウキウキした理由かもしれないわ。
オンラインパートナー紹介システムは、『キープ』した候補者も含めて、最大3名の候補者と同時併行でつき合うことができる。候補者は、3つのタイプ、性格の似ている『シンクロタイプ』、似ていない『シーソータイプ』、どちらでもない『サプライズタイプ』となっているはずだが、今回、送られてきた候補者はどれでもない『リサーチタイプ』。一体どういうこと? と思って説明を読むと
「当システムでは、ランダムに選んだお客さまに、調査への協力をお願いしております。調査は、当社の派遣する異性との対面ステージの形式で行われ、実際に対面が行われた場合は、ボーナスポイントが付加され、ステージAにおける最大候補者数を1名増やさせていただきます。なお、対面ステージでは、お客様を最大限もてなし、不愉快な思いをさせないよう努力いたしますが、お客様の満足を保証するものではないことをあらかじめご了承ください」
と説明されている。つまり、お客様の満足度向上のための対面調査というわけね。送られてきた候補者に『イエス』と回答したり、『対面』したりするたびに課金されるから、ただでデートできるのは悪くないわね。特に、あまり結婚する気がないあたしみたいにフェイクの結婚願望を持っている場合には。もしかして、そのこともばれているのかしら。その時はその時、今回は、しかっり『おもてなし』してもらいましょう。
指定された待ち合わせの場所は銀座の宝石店の前。彼は、ベージュのスーツ上下に真っ白な無地のTシャツを着ていた。くすんだ空のもと、明るくさわやかな印象の服だが、何と言っても背が高い。あたしが161cmだから180cm以上に違いない。見上げるようにして、
「こんにちは、初めまして、塩原碧です」
とあたしは戸籍上の本名を名乗った。
「オンライン紹介所の河津耕三です」
と言って、彼は名刺を差し出した。あたしは、条件反射的に名刺を出そうとしたが、生憎、今日は想定してなかったので名刺はない。それを見て彼は
「あ、名刺は結構です。それより、足、大丈夫ですか、少しは歩けますか?」
とあたしを気遣ってくれる。細やかな気遣いは、『おもてなし』を予感させる。でも、左足にはかわいらしい白のローヒールサンダル、右足には、厚いゴム底の黒のサンダルならだれでも気がつくわね。
「ええ、骨に少しひびが入っていたのだけど、もう大分直りました。ゆっくり歩いていただけるとありがたいわ」
あたしたちは、歩行者天国をゆっくり歩く。雨は上がっているけど、いつ、また降り出してもおかしくない。
「歩いているだけでは、何ですから、お茶でも飲みながらお話ししましょうか?」
「そうね。そうしましょう」
「コーヒーがいいですか? それとも紅茶がいいですか?」
「いつもはコーヒーしか飲まないけれど、たまには紅茶がいいわ」
「では、おいしい紅茶を出してくれる所に行きましょう。丁度、この道のちょっと先にそのお店があります。ハーブティーもありますし、タルトも色々あります」
「河津さんは随分詳しいのですね」
「ええ、この界隈はよく歩きますので。ここから上野までは、ずっと歩行者天国ですから、はしからはしまで歩くと結構運動になります。僕は歩行者天国が好きなんですよ。普段は車が威張っていますが、歩行者天国のときは、丁度、今みたいに道の真ん中の歩くこともできますし」
言われてみれば、あたしたちは道の真ん中を歩いている。きっと、この人は理系ね。でも、あたしのペースに合わせて歩いてくれるところは、理系にありがちな自分勝手ではないわ。
喫茶店に入り、彼はローズヒップティーにジャムを入れる。あたしはシナモンとミルクをたっぷり入れたチャイを飲む。彼は、話しだした。
「実は、私はオンライン紹介所のシステムを担当しています。つまり、あなたと同じSEで、マッチング部分を担当しています」
「え、ということは3人の候補者のうち2名にはイエスをしなければならないというルールを設定したのは、あなたですか?」
「そうです。今は3対2にしていますが、当初は3対1という割合を採用していました。そうすると、自分の好みを反映しやすい反面、対面ステージが成立する確率も下がります。それで、その後、3対2という割合に変更しました。つまり、量より質だったのが、質より量に変わりました。他にもタイプ別分類や、性格診断結果の反映の仕方など、試行錯誤して決めたのも私です」
「ということは、サプライズタイプやボーナスを導入したのもあなたですか?」
「それらは何人かのSEで議論した結果ですが、私の意見はだいぶ入っています」
つまり、眼の前の河津耕三が『こんなプログラムを作ったSEの顔が見たいわ!』と思った相手その人なんだわ。もしかしたら今日は一波乱あるかもしれないわね。
あたしは尋ねた。
「この対面調査では何を調査するのかしら? 何のために調査するのかしら? 自分の手掛けたシステムがどう評価されているか知りたいの?」
「もちろんそれもあります。同じSEならわかると思いますが」
あたしは、ウンウンと頷く。
「それ以上に、お客様と顔を合わせて、システムが対象としているのは生身の人間であることを再認識するが大きな目的です」
「生身の人間?」
「ええ、オンライン紹介所は、直接対面しなくて済むという意味で、会社としては楽な反面、心配もあります。つまり、実際の対面がどのように行われているのか、どのようなトラブルがあるのか、これが、わかりにくいのが問題です。もちろん、会員の皆様は紳士淑女であって、ルールと常識をわきまえた付き合い、行動をすると信じていますが、それを保証することは難しいのです。確かに、戸籍謄本を使って本人を確認し、また、会員自身にもきちんと会の目的を認識していただいておりますが、それで完璧というわけではありません。中には興味本位で入会している方もいないとは言えません」
あたしはぎくりとした。それって、あたしのこと? 彼は続ける。
「結局のところ、生身の人間である以上、想定外のことは起こるものなのです。システムはシステムでお客様の安全や満足度を向上できるよう努力をするわけですが、肝要なことは、お客様が多くの出会いを体験して人間に興味を持ってもらうことです」
「人間に興味って、当たり前のことじゃないかしら。もちろん、理系の人間は興味が人間よりは物や仮想空間に向いている人もいるけど。少なくともオンライン紹介所を利用している人は人間に興味を持っているはずだわ」
「はたして本当にそうでしょうか? 意地悪な見方をすると、当オンラインシステムを利用する人は、人づき合いが苦手でコンピュータを通してならば、自分の言いたいことが言える人ということはないでしょうか? 幾つかのデータを見て、相手を選別し、決めれた日時に、ほんの短い時間だけ一緒に過ごしてYes、Noを判断する。まるでゲーム、とは言えないでしょうか? パソコンを買う時にCPUの速度、メモリーの大きさ、ディスク容量、グラフィック速度を見て選択するように、相手の仕事や家事能力、収入や地位、家族構成、趣味やセンスといった定型的な側面のみに注目していないでしょうか?」
なかなか鋭いわね。半分ぐらいにはあたしにも当てはまりそうだわ。
「例えば、電話すれば済むことをメールで伝える。店頭で店員さんに相談しながら服を選ぶ代わりにカタログ販売で注文する。英会話学校に行く代わりにDVDの教材を買って一人で勉強する。などと、色々なことが人と直接対面しなくてもできるようになりました。だんだんと、人間との付き合い方、人間への興味を忘れているのではないでしょうか? 結婚という濃密な人間関係においてさえも、なにか定型化したつき合い方で済まそうとしているということはないでしょうか?」
なんだか、あたしのことを言っているように聞こえる。彼はまとめた。
「もし、相手への興味があれば、当然、相手を思いやることができ、悲劇的な破局を迎えることもないでしょう」
あたしは、右脳を金づちで殴られたような衝撃を受けた。