プロローグ(その2)
そもそも、なんでオンラインパートナー紹介所(いわゆる結婚相談所)に登録したのか。今日の3つの不運がきっかけだわ。
悪いこと、トラブルは重なるもの。第一のトラブルは通勤電車。珍しく遅い出勤の許可を得て、ぎりぎりまで、プレゼンの準備を自宅でしていた。うぐいす色のスーツ、うす茶のヒール、白のインナー、桃色の口紅にアイシャドウ。ラフなスタイルとベースメイクのみを標準装備とするあたしには、完全武装に近い装いで家を出た。
電車で座って、最終チェックのために紅号を起動し、緑色のUSBメモリーからファイルを読み込む。薄く口紅を引いた唇をぎゅっと結んで、目をかっと見開いて、資料をチェックする。よし完璧! そう思ってセーブしたの。
ふと、外に目をやると見慣れない風景。えっ! ここはどこ? 車内アナウンスは『みなみせんじゅ~ みなみせんじゅ~』と告げている。しまった! 一駅乗り過ごした。あわてて愛機を閉じて、左手に持つ。右肩にショルダーバックをかけて、戸口に向かって小ダッシュ。乗り込む乗客はいないわ。ベンチに老人が座って、にこやかにこちらを向いているだけ。まだドアが閉まる気配はない。おっと、大事なUSBがささったまま。何かにぶつけないようにと、メモリーを抜いてバックに入れようとした。もしかしたら指先が汗で滑ったのかもしれない。
あたしのUSBメモリーは、持ち主に似て浮気性だ。その時も、何の気まぐれか、あたしの指を離れてドアを通ってホームへと落ちていった。放物型の自由落下をする。あたしは、即座に左脳で計算した。このまま、メモリーは落下してホームの床に衝突し、跳ね上がって、さらに慣性で前方、つまり、ベンチの老人の方へ飛んでいくのに違いないわ。もしかしたら、老人は苦笑するかもしれない。メモリーはノートPCよりはるかに丈夫なはず。何も悪いことは起きないはずだわ。
ホームの床に衝突し跳ね上がったまでは予測通り。なんと、メモリーはこちらへ側、つまり電車側に跳ねてきた。その0.3秒後に電車とホームの間に吸い込まれていった。眼が点になる。茫然とするあたしをホームにおいて電車は去っていく。老人に目をやると目を閉じている。見られた? 見られなかった? きっと見なかったに違いないわ。
それから恐る恐る線路を覗きこむ。わたしのかわいい緑ちゃんは、どこ? 浮気性の緑ちゃんはどこ? 見えない! 行方不明だ! じんわりと汗がおでこに浮かんだ。対人恐怖症で視線恐怖症のあたしがささやく。
「浮気性のメモリーはこの世から忽然と姿を消したのよ。きっと異世界に転生したのよ。このまま何もなかったふりをして会社に行けばいわ」
合理性のあたしが叫ぶ、
「メモリーには大事なプレゼン資料が入っているよ。しかも社内のPCに入っているのは昨日の夕方のバージョン。何時間分かの更新がパーになってもいいの?」
対人恐怖症のあたしがささやく
「じゃ~どうするの、駅員さんに線路に降りてさがしてもらうの? なんて説明するの? 全く知らない人よ。それにベンチの老人がなんと思うかしら。もし、列車を止めることになったら大迷惑よ。新聞記事にでもなったらどうするの」
合理性のあたしが結論を宣告した。
「メモリーには会社の情報がはいっているのよ。後で誰かが見つけてネットに流したらどうなるの。訓告ものよ。駅員さんがなんと言おうと、老人がなんと思おうと、電車を止めようと、やるべきことをやらないでは、火事を見て見ぬふりをするようなもの。結果的に報われるかどうか、迷惑をかけるかどうかではなく、責任を果たしたかどうかが重要なの。まったくお子様はこれだからこまるのよね」
対人恐怖症のあたしは半べそかきながらしぶしぶ承諾する。重い足取りで駅員室に行って、深呼吸をして話し始める。
拍子抜けするほど簡単に事態は収束した。大きな目の若い駅員は、こちらが恐縮するほどていねいだったわ。マジックハンドと細長い棒とガムテープを持つと、小さな目の先輩駅員をつれて現場に急行。若い駅員がホームに腹ばいになって、コンクリートブロックの隙間に挟まった緑ちゃんを発見。細長い棒の先にガムテープを慎重につける。先輩駅員が時計を見ながら『4分30秒後に入線』と言う。若い駅員は棒をゆっくり伸ばしてガムテープで緑ちゃんを捕捉。ゆっくり棒を引っ込めて、見事に身柄を確保。先輩駅員がつぶやく、『任務完了、2分40秒後に入線』。あたしは、何度もお礼を言って、その場を離れ、改札を出る。反対側のホームから電車に乗るべきだったのだが、それを説明する気力もなかったわ。
試練はさらに続く。プレゼン開始まであと25分。今の騒動に巻き込んだ駅員たち、興味深そうに捕りもの劇を見ていた老人の視線のある所には戻れない。仕方ない、タクシーに乗ろう。財布の中に千円札が3枚あるのを確かめる。タクシーは簡単につかまった。運転手は同性。つまり女性。普段は、行き先を告げる以外は全く喋らないのだが、何となく落ち着かず、大事なプレゼンがあること、急いでいることを告げる。だからと言って飛ばしてくれるわけではない。都内は慢性渋滞。運転手はすまなそうにしている。
3分前に会社に到着。一服している暇はない。もちろん洗面所に行って化粧を直す暇なんてなかった。会議室には、半分ほどが着席していたが、全員ではない。つまり、間に合ったということ。急いでプロジェクターを準備し、緑色のUSBメモリーを突っ込む。一瞬、間があき、USBが壊れたのかと焦るが、正常にファイルが開く。
プレゼンの前半は、市場調査。つまり、提案する計算機能(フィルタリング機能)が他社の同等品には搭載されていないこと、ワンランク上の製品では、その機能に需要があること。後半は、貧弱なハードウェアでその機能を実現するために、特殊な方法を採用したことを説明する。反応はおおむね好いようだわ。特に最後の特殊な方法があたしの自慢。
無事にプレゼンを終えたかに見えた時、それまでじっと黙って聞いていた上司のキューピー課長、もとい、霧島課長が口を開く。メガネの真ん中を人差し指で上げながら
「水上君の手法は、大変素晴らしいアィディアのように思われます」
この瞬間、あたしの顔は凍りついた、課長が部下を姓で呼ぶ時、馬鹿丁寧な言い回しで始める時、これは、決まって相手を叩きのめす時である。課長は冷酷に続ける。
「ですが、今回の製品の場合、ワード数が非常に大きいのが特徴であります。従って、このような計算をすると丸め誤差は無視できなくなり、最後には破たんします」
ガーン、あたしの左脳は空転し、課長の言うことが正しいのかどうか判断できない。だけど右脳は、課長が正しいと言っている。とどめを差すのが課長は好きだわ。
「例えば」
と言って、白板へつかつかと歩み寄って、計算を始める。たった3行の数式で片をつけた。自信満々だったあたしはどん底へ突き落とされる。『かちょ~。なんで昨日言ってくれなかったの?』と思うとともに、こんな基本的なことを見過ごした自分が情けない。
唇が動くが言葉がでない。会議室にはしらけた空気が漂い始める。課長がため息をついて会議を締めた。
「では、明日のクライアントとの打ち合わせは中止にして1週間延期してもらうよう依頼しておきます」
凍ったままのあたしは、情けなくて涙が出そうになる。だんだんと涙腺が緩んでくる。会議の出席者は、書類を持ってばらばらと会議室から出ていく。こんな所で泣いてたまるかと歯を食いしばる。
涙が止まったのはいいが、今度は、鼻水が出てくる。アー鼻水が滴り落ちそうだ。汗ふき用の深緑色のタオルハンカチで、思いっきり鼻をかむ。その音に驚いて、会議室を出て行きかけた数人が、何事かとこちらを振り向く。涙も鼻水も止まった顔で、キッと睨み返す。振り向いた数人はあわてて顔をそむけて出て行った。
そんなあたしに、同僚の熱海桃子は、こちらを見もせずに、捨て台詞を残す。
「あんた色気ないわね~」
い、色気がないだって! 一番気にしていることを。涙を流せば色気があったの? そりゃ~、鼻水より色気があるわな~ もう落ち込む気力もなくなった。
その時、ふっと、ゴーストさとる君(本名:月夜野悟)が現れた。今日は、彼の存在を全く認識していなかった。ただでさえ影が薄いのにプレゼンに集中していたため、会議室にいたことを今の今まで気がつかなかったの。彼は、自信なさそうにこう言う。
「あのー 要は精度が上がればいいですよね。例えば、ダブル、倍精度に」
そんなことはわかっているわよ。シングル、単精度しか使えないから苦労しているんじゃないの。あたしをバカにしているのと眼で言うが、彼は続ける。
「ですからバッファをうまく利用して倍精度計算を自分でコーディングすれば何とかなるんじゃないでしょうか?」
とたんにあたしの左脳と右脳が同時に回転し始める。2秒後にチーン。ご名算!!
「あんた、頭いいね」
と感心して、次の言葉をゴクリと飲み込む。飲み込んだ言葉は、『なんで会議中に言ってくれないの。今更、助けてくれても手遅れなのよ!!』。あたしも大人になったから、思ったことをなんでも言うわけではないわ。以上が2番目のトラブルの顛末。
いつもなら、昼食を食べて、だれもいない屋上で一服する。この屋上にわが社の喫煙スペースがあるのだ。灰皿と庇のある喫煙スペースは品の悪いオジサン達で占められているので、あたしは皆から見えないいつもの席に座る。携帯灰皿を左手に持って吸う。いつもの席とは、1m四方ほどのコンクリートブロックにハンカチを敷いたスペース。喫煙スペースのように庇はないが、眺めがよいし、だれも来ないのがいい。
今日は昼を食べる気になれない。男のスモーカーも時間が早いせいかだれもいない。と、彼は黄色い袋を持ってやってきた。
「あれー、碧ちゃんタバコ吸うの?」
気安くあたしを名前で呼ばないでよ。さっき、あたしを姓で呼んで、鉄槌を打ちおろしたキューピー課長だ。課長は悪い人じゃあないし、嫌いなわけではない。それどころか好きとさえ言ってもいい。あたしを拾ってくれた。つまり中途採用してくれたのも課長だし。あたしの仕事をチェックして、左脳を鍛えてくれるのも課長。電話の苦手なあたしに替わって、電話してくれたこともあった。ただ、時々、正直すぎて、配慮がないために、周りの心証はいいとは言えない。本人に悪気はないのだが、さっきのあたしのように、彼に撃墜された社員は沢山いる。
課長はあたしの恋愛対象ではない。なぜなら40半ばの妻帯者だし、髪は薄くなりかけているし、額は広いわ。お腹は出ているし、メガネをとるとキューピーにそっくり。ようするにオジサンのなりをしたお子様なのだ。
「いや~、さっきは軽薄な意見を言ってごめん。後で悟君に聞いたよ。あの方法なら何とかいけるよ」
あたしは、むすっとして返事をしなかった。今更ご機嫌取ったって駄目よ。なにより、皆の面前であたしをコケにしたのだから。しかも、それを意識していないのが、また腹立たしいわ。
「まあ、碧ちゃん頑張ってよ」
その後に全く予期しない言葉が続く。
「碧ちゃんは、わが課のエースになる人材なんだから、少々のことでへこたれちゃ駄目だよ」
へ! 今何て? わが課、つまり、あたしのいる総合課のエース? 自然と口が開く。当然、くわえていたたばこは、落ちていく。口紅と火をつけたまま落ちていく。タイトスカートの上に落ちていく。やばい! 野獣的反射神経でタバコをよけようと立ち上がりながら、大きくステップを踏み出す。キュロットなら、それでも良かったのだろう。だけど、はいていたのはタイトスカートだったの。タバコを避けた所までは良かったのだけど、「びりびりびり」と嫌な音がする。
前面は無傷だけれど、お尻がスースーする。どうやらバックスリットが不自然に上の方へ延びているみたい。課長が言う。
「スカート破れたんじゃないの」
わかりきったこと言わないでよ。とにかく被害状況を正確に把握するのが肝要。課長は、あたしにとっては、草食系でも肉食系でもない。あえて呼ぶなら無機物系だ。後ろを向いて課長に頼む。
「課長、どのくらい破れてますか?」
「うーん。正常クラックが5cm、そこから異常クラックが15cm」
正常クラックじゃなくてバックスリットって言うんですけど。とすると膝上5cmを足して、合計して膝上25cm。完全にパンチラ限界を超えている。さすがに課長も事態を理解したようだ。
「さて、今後の方針や如何に…… まずは、代替部品に交換ですかね。悟君がジャージを持っていなかったっけ?」
げげ、それだけは、やめてほしい。確実に1週間は洗濯していない薄汚れたジャージだ。うぐいす色のスーツの上着を着てジャージをはいたあたしを想像する。これなら、まだ埴輪スタイルの女子高生の方がましだ。課長はあたしの眼が不同意と言っているのをわかってくれたようだわ。
「だとすると、応急処置でしょうか」
課長は暫く考えた上で
「ちょっとそこで待っていてください」
そう言って、黄色の弁当袋をコンクリートブロックの上に置いてすたすたと行ってしまった。
戻ってきた課長は小さめの白いバスタオルと携帯裁縫セットを持ってきた。
「諏訪さんに借りてきました」
諏訪さんとは、うちの課で唯一制服をきているおばさんである。なおもあたしの眼が疑念を語っているのを見て
「あ、バスタオルは私のものです。ちゃんと洗濯してありますから」
と言いたす。意外に課長は察しがよい。
女子トイレにこもって縫うことも考えたが、そこに行くまでに他の課の社員に見られないとも限らない。あたしは物陰でこそっとスカート脱いで、腰にバスタオルを巻いて、指定席のコンクリートブロックに腰掛けて縫うことにした。
屋上には5月のようなさわやかな風と日差しが満ちている。課長は、これまた指定席らしいあたしの指定席の反対側に座って、黙々と弁当を食べている。応急処置を終え、あたしは、何事もなかったように、タオルを課長に返す。本当は一言でもお礼を言うべきなのだろうけれど、課長の眼鏡の奥の優しい眼差しを見ていると、なんだか恥ずかしくて言えなかった。丁度、年頃の乙女が父親に優しくできなのと同じだ。
部屋に戻って、諏訪さんにこっそり礼を言って裁縫セットを返した。何故か、他の課員は皆、事態を知っているようだ。ちらちらとこちらを、あたしの下半身を見る。熱海桃子がつかつかと寄ってきて、やおら処置部分を触る。ジッと見て
「なるほど~。意外に裁縫うまいのね。これなら、立派な中学生レベルね」
と皆に聞こえるような大声で言う。あの~ あたしは高校でも裁縫習ったんですけど。これが最後の試練だった。
そんなわけで、あたしは、これより下はないというほど落ち込んだ。と、同時に、これより悪くはならないと思うと、なんだか、猛烈にファイトが湧いてきた。
すべての元凶は視線恐怖症である。駅員さんの視線、ベンチの老人の視線、会議室での視線、同じ課での視線、社内での視線。これを気にしなければなんてことはない。それに、不運はあったけど、すべて収まるべくして収まったではないか。うぐいす色のスーツはゴミ箱に収まるしかないけど。この視線恐怖症を克服すれば、あたしの未来はバラ色、あたしの王子さまは白馬に乗ってやってくるし、極楽浄土は金色。極楽浄土? はまだ早いわね。
知っている人は、そうでもないのだけど、知らない人の視線は耐えられないの。視線とともに放射される意識があたしをブスブスとあたしを刺していく。は~ とため息。やっぱり、慣れるしかない。慣れるしか、というわけで、知らない人に会えるシステムとしてくだんのオンラインパートナー紹介所に登録することにしたの。実にハタ迷惑な女だわ。まあ、もしかしたら、本当に白馬に乗った王子が現れるかもしれないし。全く、その気がないわけじゃないのよ。