水上流弁当士2級(その3)
翌週金曜日の夕方にあの美少女がまた会社にやってきた。今日はキューピー課長(霧島課長)がいる。ボストンバッグを持ってやってきた。修学旅行の帰りだろうか? 男どもは今日も、美少女に注目している。何やら課長と娘はもめているようだ。
「……ねぇ、いいじゃないの…… 」
「……早由美、少しは他の人の迷惑も考えなさい」
「もう、いいわ、パパには頼まないわ。自分で交渉するわよ」
例のごとく、美少女はわがままだ。早由美ちゃんは、あたしの方へまっすぐやってくる。その背後で、課長はあたしに、『お手上げ』というゼスチャーをしている。一体何があったの?
「こんにちは、水上さん。先週はどうもありがとうございました」
あたしは、
「どういたしまして」
とおざなりの返事をする。こっちは、忙しいのだ。なんとしても、今やっているシステムの部品構成に目途をつけたい。そこまでできれば、週末は安心してゆっくり休めるわ。少女はジッと待っている。あたしが振り向くと
「ねぇ、お願いがあるの」
「えー、また外食? 今日は課長さん、パパがいるじゃない。あたしの方は見てのとおり、当分手が離せないわ」
とあたしが嫌そうに答えると。
「当分って、どのくらい?」
「そうね、たっぷり1時間くらいかしら」
「それじゃ、終わるまで下で待っているわ」
と少女は答えた。どうあってもあたしを待つ気らしい。それほどまでに頑張る理由は何?
「早由美ちゃん、お願いって何? レストランに連れて行ってほしいのではないの?」
少女は、持ってきたバックを指差した。はあ? 仕事でフル回転していたあたしの左脳は一旦止まって、ゆっくり回転し始めた。ボストンバック → お泊り →修学旅行 → 修学旅行ではない? → あたしにお願い → もしかしてあたしのうちに泊るっていうこと? えー 少女はウンウンとうなずいている。いくらなんでもそれはないでしょう。きっとあたしの想像力が豊か過ぎて、あり得ない発想をしたにちがいないわ。あたしは小声で確かめる。
「もしかして、もしかして…… そのバックはお泊りセット?」
「あたり!」
「もしかして、もしかして…… 今晩あたしのうちに泊りたいとか?」
「あったりー!」
「もしかして、もしかして…… お弁当の作り方を習いたいとか?」
「おおあたりー」
課長は、と振り向くと。『ごめん、ごめん、何とか頼むよ』とゼスチャーしている。家の中がごちゃごちゃなのが思い出される。ベットはぐちゃぐちゃ。シンクには朝食の食器がまだ残っていたかもしれない。コーヒーメーカーには冷めたコーヒーが半杯ほど残っているに違いないわ。少女は懇願する眼をしている。はっとするほどの美少女だわ。
「仕方ないわね~ いいわよ。でも、この仕事が終わるまで待っていてくれない?」
少女はこぼれるような笑みを浮かべて
「ありがとう」
と言う。全く、美少女は、苦労知らずで、先が思いやられるわ。いつの間にか、ゴーストさとる君(本名:月夜野悟)が後ろに立っている。
「でしたら、碧先輩のお仕事が終わるまで、私がお相手します。社内を案内してもいいし、近くの喫茶店でケーキを食べてもいいし。早由美ちゃんは何がいい?」
悟君、下心丸見えよ。社内は無味乾燥だから、喫茶店が無難ね。そう言えば、あの喫茶店だったら、タクシーで行けばすぐの所だわ。
「悟君、この子を連れて行ってほしい喫茶店があるの」
と言って、彼に店の名前「カフェ箱根」と名物の「湯葉ケーキ」を教えた。ネットで住所を調べ、ついでに目的のケーキがまだあるかも電話で確かめてもらった。
「じゃ、悟君お願いね。たっぷり1時間よ、1時間」
1時間後、無事に部品構成が終わっていた。すんなりいったので気分は上々。そこへ、悟君と美少女が戻ってきた。何やら、楽しそうに話している。娘が心配な課長はまだ仕事をしている。悟君に声をかける。
「悟君、ありがとう。おかげで仕事の方はばっちりよ。さて、どうしようか、皆で飲みに行こうか?」
と、いつもの口癖が出てしまう。課長がダメ出しをしている。おっといけないこの子は未成年ね。
「やっぱり、飲みに行くのはやめて、あたしの家で晩御飯食べる? あたしが作ってあげるわ。さとる君も『ついで』に来る?」
しまった、つい、なり行きでさとる君も誘ってしまったけど、彼は、さすがに、遠慮するわよね。と思ったら
「え、いいんですか? 喜んでお供します」
だって。まあ、いいかー 仕事も片付いたし、何も心配することはないわ。多分。なんだか、神様の視線を感じる。あたし、何か悪いことしたっけ?
自宅のマンションは思ったほどひどくはなかった。丁度、今朝、ゴミを出したところで助かったわ。ゴーストさとる君は、ウキウキしている。美少女と一緒にいられるのが嬉しいのか、それとも、もしかしたら、あたしの家に入れたのが嬉しいのか。きっと両方ね。あたしは、早由美ちゃんと晩御飯の準備を始める。悟君には掃除をしてもらう。
「さとる君、悪いけど、食卓のあたりを片付けてくれる?」
「はい、もちろんです。なんでもやりますよ」
腰が軽いのは彼のいい所。あっという間にかたづけて、台布巾で拭き終わった。
「先輩、ベランダの洗濯物、取り入れて、畳んどきましょうか?」
「そうね、おねがい…… 」
おっと、下着も干してあるわ。
「やっぱりいいわ。テレビかゲームでゆっくりくつろいで」
あたしは、缶ビールを2本冷蔵庫から取り出して、彼に1本わたし、自分用に1本をあける。さて、早由美ちゃんと晩御飯を作りましょうか。あたしは、説明しながら、テキパキ作業をすすめる。
水上流で一番大事なことは、拙速。つまり、料理をおいしく作ることよりも速く作ることに重きをおく。手抜きをすると言ってもいいわ。それと贅沢をしないこと。冷蔵庫にある材料で勝負するの。1食だけのために買い出しに行くのは邪道よ。速く作るためには、準備が大事。冷蔵庫、特に冷凍庫の中に、使いやすい材料を常備しておくの。冷凍の鶏・豚の小間肉、ひき肉(牛豚の合挽きなら少し贅沢)、卵、牛乳、豆腐、チーズ、もちろん、シーチキンや果物などの缶詰も便利よ。あたしたちのように時間に余裕がない人は、いつ、買い物に行けるかわからないから、材料をストックしておくの。
さて、今晩はどうしようかしら、まず、ご飯は炊いていないので、スパゲッティを主食にするわ。トッピング次第では豪華になるわよ。冷凍庫の中には、シーフードミックスと、ひき肉があるわ。生のトマトはないけれど、ホールトマトの缶詰があるわ。野菜もチンゲン菜、レタス、大根があるから、サラダは作れるわね。後は、汁ものとデザートね。チンゲン菜のスープに、ひき肉を少々入れましょう。デザートは果物がないので、ヨーグルト。できれば、次の日の朝食、弁当も考えておくのよ。材料を見て何を作るかを決めたら、今度は、時間と温度を考えるの。大抵の温かい料理はできたてのアツアツがおいしいし、果物だと、冷蔵庫にいれて冷えすぎているとおいしくないわ。デザートにアイスクリームを食べる場合は、早めに冷凍庫から出して、すこし、溶けかかるぐらいの食べごろになるようにしておくの。時間と、温度を考えながら、どの材料をどの順番で加工するのか、どの調理器具をどの順番で使うのかを考える。例えば、まな板、包丁を使って、魚肉を切るのはなるべく最後にして、野菜や果物などの生で食べられるものは先に切るとか。ついでに、調理器具や食器を洗ったり、片づけたりするのも先にできるものは先にやってしまうわ。材料の準備から始まって、食器の片付けまでの全作業工程を意識しながら、短い時間で効率よく料理をするのが水上流よ。実の所、料理人は、様々な要素を一つにまとめたシステムを作るSEと同じね。
水上流が次にこだわるのは、いろどり。つまり、カラフルな料理を心がけるの。例えば、レタスのサラダなら緑一色だけど、短冊に切った大根の白、トマトやハムの赤、かんきつ系やチーズの黄色、ピンク色の小エビが加わると随分にぎやかになるわ。特に赤は、食欲をそそる色だから、是非入れたい所ね。お弁当の場合は、食中毒の心配が大事だけど、それについてはまた明日ね。最後に付け加えると、電子レンジを使いこなすこと。例えば、出来上がったスパゲッティの上に、こんな風にとろけるスライスチーズを載せて、電子レンジでチンすると…… ほら、おいしそうでしょう。
「悟君、お待たせ、晩御飯できたわよ。缶ビールもう一本出しましょうか」
「あ、ありがとうございます。でもまだいいです。1本目がまだ残っていますので」
悟君は遠慮しているのだろうか? あたしなんか料理をしながら2本も飲んでしまったのに。あたしたちは、食卓を囲んで、元気よくいただきますを言った。悟君はもりもりスパゲッティを食べ始めた。あたしは、スパゲッティを口に入れようとして、ふと気がついたの。この雰囲気って、家庭の雰囲気じゃない? 悟君がパパで、あたしがママ、早由美ちゃんが一人娘…… もう10年以上、こんなことはなかったわ。その時、ホンの一瞬だけ、本当に悟君がパパで、早由美ちゃんが娘だったらいいのにって思ったのよ。
隣をみると、早由美ちゃんが固まっていた。目に涙を浮かべて。あたしとおんなじことを考えていたのかもしれない。あたしは、背中をそっとさすった。
「食べましょう。おいしいわよ」
さとる君は大食いだった。いくら食べても太らないのは羨ましい。最後まできれいに食べて
「あー、碧先輩のご飯、最高です。毎日、僕に作ってくれませんか?」
と言う。ほめすぎた。あたしが
「それって、あたしと結婚したいって言うこと?」
と言うと
「もちろんです」
「半分冗談でしょう。」
「いいえ、半分ではありません。70%冗談で、残り30%が本気です」
「それじゃ、70%本気になったら、考えてあげてもいいわよ」
とあたしは約束した。
その晩、さとる君は名残惜しそうに帰っていった。酔いのまわったあたしは、かろうじて、ママが泊る時に使う布団を出して、ここで寝るようと早由美ちゃんに言って、自分の布団にもぐりこんだ。本当は少女の寝顔をみて、母親になった気分を味わいたかったのだけど……
翌朝、美少女は水上流弁当士2級の資格を得た。