賢愚さまざま
世にはさまざまな気性をもった人がいる。私は折に触れ、人格諸相の分類について考えてきた。はじめは五里霧中だったが、このごろ明確な輪郭を描くようになってきたため、筆を執った。
各篇の冒頭で、人格を名づけた一文を置いている。名づけの由来は「罪と罰」や「ソクラテスの弁明」といった古典が多いが、出典を理解している必要はない。これは名前を考えるのが苦手な私の処世術にすぎないからだ。
ラスコーリニコフ
着想は「罪と罰」のラスコーリニコフ。ただ、思考の精緻さは遠く及ばない半端者である。リニコフ氏とでも呼んでおこう。
リニコフ氏はプライドが高い。閉じた世界に引きこもり、お手製の理論をうっとりと眺めまわす。
たまには外に出るが、難しい話をしたいのではない。むしろ、無意味な雑談を求めて人に会う。ひとりだと考え込んでしまっていけない。
親友はひとりもいない。なんといってもコンプレックスの塊である。人といると自身の汚ればかり気にかかり、羞恥赤面し、巣に帰りたいと願う。威風堂々とは、およそ縁のない人間である。
形式に捉われた人
着想は夏目漱石「中身と形式」
幼子が、歴史上の人物のどちらが善で悪か、どちらが強くて弱いか、と質問する。歴史に詳しい人間は、そう単純な物差しで測れるものではないと知っている。ところが幼子は許してくれない。なんとしても単純な形式で答えを求める。
知人にH氏がいる。H氏は言う。「日本人は戦闘民族です。だからモンゴル人に勝ちました。戦闘民族の証拠に、日本では殺人は違法ではなく、犬将軍のときに犬を殺しちゃダメなら人間もダメだろうって理由で殺人が禁じられたんです」
驚天動地の説である。その中身にも面白い点がいくつかあるが、病根は「中身と形式」の幼子と同じ。「戦闘民族」という単純な形式をもって、物事を説明した気になっている。
連想ゲームでのみ思考する人
着想はフランシス・ベーコンの「新オルガノン」にある、市場のイドラ。言葉の誤った使い方による先入見。
実例は二人。
中学二年生のとき、「人間は愚かだ」とつぶやいた。するとY氏「矛盾してる!お前も人間だろ」
人間は愚かである 私は人間である よって私は愚かである
別に矛盾ではない。
また、私は合理的であると自称していたが、あるとき椅子でだらしない姿勢をしていた。するとI氏「それが合理的な人間のすることか?」
I氏にとって、合理的な人間のイメージは背筋を伸ばしているのだろう。しかし、これは明らかに語の定義には含まれていない。
Y氏にせよI氏にせよ、語の定義ではなく、イメージの連鎖で会話をしている。それは悪いことではない。会話の場においてはスムーズな意思疎通を目的とするのだから、言いたいことが伝わればいい。
ただ、思考の場においては、連想ゲームだと間違うことがあるし、それによって不利益も生じる。
例として、株取引をあげよう。
高い利益を望む人が、新興企業や、新興国株に手を出すことがある。成長余地の大きさから、株価の上昇を連想しているのだ。
しかし東証グロースは東証プライムに、新興指数は米国指数に、パフォーマンスで見劣りすることが多い。
平面的な思考の人
これも実例は二人。
まずはF氏。彼の口癖は「すべてのことに意味はある」だった。
それ自体はおかしくない。ただ、F氏はその言葉を、すべての行為を正当化するために用いていた。いわば「すべてのことに同じだけの価値がある」といったニュアンス。
たとえば歴史を学ぶとき、「カエサルの死」と「軍団長コッタの死」は同じ価値だろうか。これが倫理道徳の問題ならばイエス。しかし、歴史を理解する上では、圧倒的に「カエサルの死」に価値がある。
F氏の頭では、すべての情報は平面上に並んでおり、上下の差がない。目的に応じた価値の大小という尺度が欠けている。それゆえ、間違ったアプローチをしても正当化される。
次にM氏。私が社員寮に引きこもっていたとき、こんな会話をした。
「外出しないんですか?」
「節約してる」
「そんな金貯めてどうするの?」
「遠くないうちに退職したいので」
「金貯めたいなら退職すべきじゃないですよ。ずっと働いて引きこもってたほうが金溜まります」
目的と手段の転倒であるが、これも病根は平板な思考にある。
環境の変化(退職)と、環境における最適解(貯金)は、異なるレイヤーにおける判断であり、前者がより高い位置にある。
ところがM氏は思考のレイヤー分けが適切にできていない。だから私の行動がちぐはぐに見える。
心理家に弄ばれる人
着想はヒトラーの我が闘争。いわく、『私は理論家ではなく、心理家である。民衆を動かすのは重厚な専門書ではなく、一枚のポスターだ』
あるとき、友人のG氏がティックトックの動画を見せてきた。「見て。外国人が駐車場に集まって変なことしてる。移民のせいでどんどん治安悪くなるわ」
移民が増えると治安が悪くなる、この主張を検証するには、少なくとも以下の過程が必要である。
日本人と、海外にルーツを持つ日本在住者のそれぞれにおいて、所得、学歴、出身地、滞在時間、在留資格などで区分けし、それぞれの検挙された人数を調べ、統計的に有意な差が出るかの検定を行う。
これによって対立仮説が棄却されれば、真と答えることができるだろう。
ところがG氏はティックトックで流れて来た数秒の動画だけを信じている。
G氏は善良な人間だけに、寂しい思いである。
分をわきまえない人
着想は「ソクラテスの弁明」
職人は専門的なことがらに関しては精確な知識を持っているが、専門から一歩でも外れると、無知の自覚を失ってしまう。
「形式に捉われた人」のH氏に再登場してもらおう。
彼は歴史以外にも、科学や経済学などについて誤った知識を持っている。
ところが、H氏は非凡な腕前を持つ料理人でもあるのだ。こと料理に限っては、H氏に聞けばまちがいない。
反対の例として、FRB前議長のパウエル氏をあげたい。とある裁判の行方についてインタビューを受けた際「私は金融政策の専門家であり、法律についてはわからない」と答えていた。
もちろん、これには政治的な意図(波風立たない回答でお茶を濁す)もあったろう。しかし、自分の専門領域を自覚し、その外側においては謙虚にふるまうというのは、なかなかできることではない。
適切な人
着想は「人間失格」から。
『エゴイストになりきって、しかもそれを当然の事と確信し、いちども自分を疑った事が無いんじゃないか? それなら、楽だ、しかし、人間というものは、皆そんなもので、またそれで満点なのではないかしら』
K氏との出会いは衝撃だった。およそ会話が通じない。園児でもわかるようにしゃべらないと意思疎通ができない。
K氏はスポーツ推薦で進学し、今まで一度も勉強をしたことがないと豪語していた。たしかに、体つきは伏黒甚爾そのものである。
リングの上では強かったのだろう、しかし、頭が悪いのでは……
そのような軽蔑は、数週間で吹き飛んだ。
K氏は器用なサボり人だった。自分の仕事を最小限にし、それで誰にも迷惑をかけない。一見、ずっと怠けているし、仕事を断ることも多いが、いざ手をつけると文句のつけようがないものを仕上げる。
態度を見る人からの評価は最悪。仕事の出来栄えを見る人間からの評価は最高。
K氏の生き方を学んでから、ずいぶん人生が楽になった。
リーダー
最後に紹介するのはU氏である。
U氏は部活でキャプテンをしており、視野が広く、判断は適切。入社して一年目でベテラン社員並みに”できる”人間としての評価を確立していた。
不思議なことに、U氏はリニコフ氏を賞賛する。「お前みたいに頭よくなりたいわ」
ところが、リニコフ氏はU氏の判断力に舌を巻いているのだ。
U氏は、いうなれば「適切な人」K氏の上位互換だ。両者とも、自身の能力の範囲内において適切な判断をしている。ただ、U氏はより広い知識を持ち、より先まで見据えている。
結び
以上、人格素描8篇。
これは私の印象に基づいた分類であり、人格一般を網羅したものではない。他に面白い個性があればぜひとも教えて欲しい。
ちなみに、全体のタイトルである「賢愚さまざま」はテオプラストスの「人さまざま」から着想を得ている。




