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第32話:途切れない日

アダムの祈りの夜から、人は、地の上で生きるようになった。選ぶことを覚え、迷うことを覚え、やがて、それらを、考えなくなることも覚えた。


長い時が流れた。長すぎて、誰も数えようとしなくなったほどに。畑は耕され、水は汲まれ、子どもは笑い、年老いた者は、同じ話を繰り返した。


昨日と同じ一日。今日も、同じはずの一日。世界が終わる理由など、この村のどこにもなかった。空は落ちず、雷も鳴らない。天が裂けることもない。「選ばれた瞬間」など、誰も覚えていない。ただ、人の暮らしが、そのまま、続いていただけだ。


この村にも、いつも通りの朝が来ていた。水を運び、道具を直し、世間話をして、日が暮れれば、家に戻る。特別な服を着ている者はいない。光をまとった者もいない。昨日までと、何ひとつ変わらない。


土の匂い。乾いた風。行き交う人々の足音。世界は、まだ、何も変わっていなかった。


その中に、ノアという男も、いつも通り立っていた。彼にとっては、それが「始まり」だとは、まだ、思う理由もなかった。この朝も、昨日の続きに過ぎなかった。


朝は、まだ薄い。霧が川の上に低く残っていて、向こう岸は、いつもより少し遠く感じる。見えないわけじゃない。ただ、輪郭がはっきりしない。


俺は、地面に道具を並べる。刃、縄、木の柄。順番は、昨日と同じだ。考えなくても、手がそう動く。


刃を持ち上げると、ひんやりした重さが掌に乗る。指で刃先をなぞる。欠けはない。朝の湿りが残っているのが分かって、布で一度、拭き取る。


縄を取って引くと、少しだけ返ってくる。緩い。端を持ち替えて、もう一度締める。今度は、きちんと止まった。


木の柄を地面に立てる。倒れない。この位置でいい。


川に足を入れると、思ったより冷たい。足首まで浸して、一拍だけ置き、すぐに引き戻す。まだ早い。


水は、変わらず流れている。音は一定で、強くも弱くもない。昨日と、ほとんど同じ速さだ。


目を落とすと、昨日つけた位置の印が残っている。ただ、少し外れている。夜のあいだに、水が土を持っていったらしい。


手で土をならす。押して、戻して、表面を整える。力はいらない。形が揃えばいい。


縄を掛けて、引く。留まる。指を離しても、動かない。念のため、もう一度引く。問題ない。


そのとき、後ろで布の音がした。軽い足音もする。振り向く必要はなかった。


ラヒーマが横に来る。包みを地面に置いて、川を見る。

「……水、まだ冷たい?」

少し身をかがめて、水面を見る。

「昨日より、少し増えてる気がする。ほら、岸の線。少しずれてる」


俺は流れを見る。幅を見る。岸を見る。

「……ああ。昨日つけた印、少し外れてる」

土のほうを見る。

「夜のあいだに、持っていかれたな。直す」


布を受け取り、折り目を直す。中は、まだ開けない。脇に置いて、作業の邪魔にならないようにする。


ラヒーマが川をもう一度見る。静かに言う。

「大きくは変わってないね。でも、少しずつ動いてる」


俺は縄を見る。刃の位置を、わずかにずらす。川は、変わらない。水は、進み続けて、止まらない。


刃を持ち上げ、角度を決める。手首を固定する。一度、息を吐く。深くはしない。


今日も、これをやる。それだけだ。作業は、そこで切れなかった。形を変えて、続いていくだけだ。


日が上がる。


外の影が、ゆっくりと短くなっていく。住まいの中は、静かだ。薄い布越しに、外の音が丸くなる。風が擦れる音。遠くの足音。どれも、ここまでは届かない。


ラヒーマは、床に座っている。布を広げ、端をそろえる。指先で、ずれを確かめる。


針を通し、引く。糸は、音を立てない。動きは、変わらない。急がない。だが、止まらない。


俺は、入口の近くで、紐をまとめている。昨日ほど汚れてはいない。だが、結び目が甘い。引けば、ほどける。そのままにしておく理由はない。


指でほどく。組み直す。力を入れすぎないように、引く。止まる。


ラヒーマは、布を裏返す。縫い目の端を、指で探る。折り目を、爪で押さえる。視線は、手元から離れない。布の端を押さえたまま言う。

「そこ、結び直して。端に寄りすぎてる」

布を少し持ち上げる。

「そのまま引いたら、たぶん歪む」

布を戻す。

「今のうちに直した方が早い。あとでやると面倒になる」


俺は紐を見る。結び目が、布の端に寄りすぎている。引けば、歪む。位置を、少しだけずらす。余りが出る。端を、短く切る。切りすぎない。あとで、もう一度使える長さ。

俺は紐を引いて確かめる。

「……これでいいか」


ラヒーマは針を止めない。

「うん。それでいい」

糸を引きながら言う。

「そのまま引いても、歪まない」


針が、布を抜ける。縫い目は、変わらない。深さも、同じだ。俺は、脇に置いてあった器を取る。縁に、欠けがある。外側だけだ。内側は、まだ滑らかだ。使える。欠けた部分が下に来るように、向きを変える。倒れない位置に、置き直す。布の端が、きれいに揃う。糸が、短く切られる。


ラヒーマは次の布を取る。

「あとで、それ乾かしておいて」

布を重ねながら言う。

「朝のうちなら、すぐ乾くよ」


俺は器を持ったまま答える。

「……分かった」


それ以上は、いらない。器を、影の外に置く。倒れない位置。日が当たる向き。


ラヒーマは、次の布を広げる。重ねて、位置を決める。少しだけ、角をそろえ直す。


俺は、脇の紐をまとめ直す。余りを、内側に回す。引っかからないように。


互いに、顔は見ない。見る必要が、ない。手だけが、動く。動いている間は、他に考えることもない。


昼の光が、少し入る。布の色が、朝よりはっきりする。


作業は、続く。それからも、同じことを、何度もやった。布を広げ、紐を結び直し、器を乾かし、日が傾けば、手を止める。


次の日も。その次の日も。何も変わらない。ただ、来て、手を動かし、戻る。同じ場所に、立つ。


今年に入って、ここに来るのは、もう三度目だ。何度も来ている場所だ。だが、足元の感触が、前と違う。軽く踏んだだけで、分かる。


土に指を当てる。押す。すぐには返らない。押した形が、そのまま残る。少し、間がある。乾いている。


もう一度、指を入れる。今度は、爪の下に、細かい粉が残る。湿り気は、ほとんどない。去年のこの時期は、ここまで粉は出なかった。そう思う。だが、確かめない。


「去年より、遅いな」


声に出すと、少しだけ落ち着く。


鍬を取る。柄の重さは、変わらない。だが、手に馴染む位置が、前と少し違う。持ち替えずに、そのまま振り下ろす。


刃が、途中で止まる。土の中で、押し返される。浅い。思ったより、入っていない。力が足りないわけじゃない。


角度を変える。今度は、少し寝かせる。もう一度、振り下ろす。刃が進む。だが、音が違う。乾いた、硬い音だ。


去年は、もっと鈍かった。前の二回も、ここまでは硬くなかった。そうだった。そう思うが、比べる意味はない。


風が、顔に当たる。乾いている。当たって、すぐ離れる。肌に、残らない。水が、足りていない。


水路を見る。流れは、ある。止まってはいない。だが、広がらない。岸まで届かず、細いままだ。


縄を引く。いつもの強さで引く。だが、張りが足りない。もう一度、引く。それでも、同じだ。


「これじゃ、持たない」


端を、結び直す。少しだけ、力を足す。強くはしない。指が、擦れる。皮膚が、乾いているせいだ。血は、出ない。


刃を見る。縁が、白くなっている。欠けではない。減っている。


布で、刃を拭く。だが、湿りは、すぐ消える。拭いたそばから、乾いていく。


足で、土を踏む。体重を乗せる。沈まない。


ここまでだな、と思う。続けようと思えば、続けられる。だが、同じやり方では進まない。


今日は、やり方を変えるか。それとも、少し、待つか。まだ、決めない。次に来るとき、また確かめればいい。


日が、高い。


この時間に、もうここまで来る。影が、短い。足元に、張りつくように落ちている。


一度、手を止める。止めようとして止めたわけじゃない。身体が、先に動きを切った。


土を、つまむ。指の間で、ほどける。粒が、細かい。握り直しても、まとまらない。水を含む前の土だ。


今は、これ以上いじっても、同じだ。


鍬を、地面に置く。音は、軽い。


柄を見る。柄に、細い割れが入っている。触ると、わずかに引っかかる。前は、なかった。少なくとも、最初に来たときには。


折れるほどじゃない。だが、力をかけ続ける場所でもない。


紐を取る。巻く。一周、二周。余りが、少ない。結び目を作るには足りる。だが、やり直すほどの余裕はない。もう、無駄は出せない。


「今日は、ここまでだ」


道具を、まとめる。刃。鍬。紐。順番は、変えない。変える理由がない。


水路を見る。水は、少ない。だが、流れの向きは、昨日と変わらない。


俺は、少し位置を変える。日陰に入るほどじゃない。ただ、日の当たり方を外すだけだ。


この先をどうするかは、まだ決めない。続きは、また次でいい。


それからも、同じことを繰り返した。日を変え、向きを変え、時間をずらす。土の具合を見て、道具を置き、また戻る。


特別な出来事はない。ただ、この場所に来ることが、増えていった。


気づけば、作業は一人で終わるものじゃなくなっていた。


声が増える。足音が増える。手の数が、足りるようになる。


いつから、とは言えない。気づいたときには、そうなっていた。


人が、集まっている。朝より多い。声が重なる。


俺は、少し外れた位置に立つ。邪魔にならない場所だ。


手は、空いている。


後ろの男が、籠を差し出す。

「ノア、そっち持てるか。こっち、片手じゃ回らない」


俺は籠を受け取る。

「ああ。そこに置けばいい」


中身が、片寄っている。片腕に重さが寄る。一度、持ち替える。底に手を回す。重さが、真ん中に来る。


近くの男が、籠の下を指さす。

「下から持て。そこ、寄ってるだろ」

少し肩をすくめる。

「そのままだと、途中で傾く」


俺は籠を持ち直す。

「分かってる。今やった」

籠を運ぶ。置く。すぐ、次が来る。


別の男が、息を整えながら言う。

「今日は、人多いな。朝から道が詰まってたぞ」


向こうで、もう一人が笑う。

「さっき通ったとき、荷車まで並んでた」

肩で籠を押し直す。

「だから、荷が切れないんだ」


俺は籠を下ろす。横から、手が差し出される。

「ノア、これも頼む。向こうまで回してくれ」


俺は受け取る。

「ああ。置く場所、さっきと同じか」


男がうなずく。

「同じでいい。奥がもう一杯だ」


行って、戻る。同じ距離だ。歩幅は、変えない。


向こうで、ラヒーマが布を持ったまま言う。

「それ、あとで乾かすから。濡れたまま重ねないで」


向かいの女が、布を押さえながら返す。

「じゃあ、こっちは先に広げる?そっち、日が当たるよな」


ラヒーマが、糸を引く。

「うん。そこに置けば乾く。あとでまとめる」


手は、止まらない。俺は籠を下ろす。空になった手を、一度開く。指を閉じる。


少し離れたところで、声が上がる。

「昨日の残り、まだある?」


ラヒーマの向こうの女が、布を重ねながら答える。

「少しだけ残ってる。まだ鍋に入ってるよ」


別の女が、振り向く。

「足りるか? 人、増えてるぞ」

手を止めずに返す。

「足りなきゃ混ぜる。まだ粉はある」


鍋のふたが、軽く鳴る。近くの男が、俺を呼ぶ。

「ノア、ちょっと来てくれ」

地面の木箱を指す。

「これ、ひとりじゃ動かない」


箱が、傾いている。俺は端を持つ。向こう側にも、男が立つ。

「せーの」


引く。木が軋む。一瞬、重さが浮く。箱が、動く。日陰の端に寄せる。男が息を吐く。

「助かった。これで通れる」


俺は手を離す。後ろで、誰かが笑う。

「ノア、相変わらず無口だな」


別の男が肩を揺らす。

「前からだろ。喋るときは喋る。それで足りる」


俺は籠を持ち上げる。前の男が聞く。

「昼、どうする?」


俺は歩いたまま答える。

「まだ決めてない」


男が笑う。

「お前、いつもそれだな」


俺は、もう一度、手を見る。空いている。また、何か来るだろう。来たら、また動く。


ラヒーマが、こちらを見る。手は止めない。目だけが、こちらに向く。

「ノア、あと一回」

籠の方をあごで示す。

「それ運んだら、今日は終わりだ。残りは、これだけ」


残っている籠は、ひとつだけだ。中身も、もう軽くなっている。俺は、手を振って応える。

「ああ。すぐ終わるな」

籠の方へ歩き出す。

「これ運んだら、片づけでいい」


向かう。足取りを、少しだけ早める。ラヒーマが、布を押さえたまま言う。

「それ、まだ底に残ってる」

少し目を細める。

「持つなら、下からだ。途中で傾く」


俺は籠の縁に手をかける。

「分かってる」

底に手を回す。

「まだ持てる」


ラヒーマが肩をすくめる。

「無理すんなよ。今日、何回も往復してる」

布を引き寄せる。

「最後で腰やるやつ、よくいる」


俺は籠を持ち上げる。

「平気だ」

重さを確かめる。

「さっきより軽い」


底に、まだ重さが残っている。だが、偏りはない。少し歩けば、終わる距離だ。籠を置く。音は、軽い。中身が、少し減っているのが見える。


近くの男が、辺りを見回す。

「これで終わりか?」


別の男が、肩の籠を下ろす。

「たぶんな。もう来ないだろ」

腕を振る。

「最後の一つだったしな」


「じゃあ、片づけだな」


流れが、変わる。横の男が言う。

「ノア、そっち頼む。布まとめる方」


俺は籠の縁から手を離す。

「ああ。そっちやる」

歩きながら布を取る。

「広げなくていいんだな」


布を取る。広げない。そのまま折る。端を、揃える。角が、少しずれる。ラヒーマが横に来る。指先で、折り目を示す。

「そこ、折り返して」

少し布を持ち上げる。

「その方が、あとで広げやすい」


俺は布の端を持ち直す。

「ここか」

折り返す。

「これでいい」


厚みが、そろう。ラヒーマが糸を引く。

「うん。それでいい」

布を重ねる。

「そのまま重ねておいて」


周りの声が、ばらけていく。

「また明日な」

「おう」

「気をつけろよ」


俺は、水桶に手を入れる。指をこすり合わせる。

「また明日」

指の間の埃が、落ちる。ラヒーマが、先に歩き出す。俺は手を振って水を落とす。あとを追う。


少し歩いたところで、ラヒーマが振り向く。

「今日は、人多かったな」

道の方を見やる。

「朝から道が詰まってた」


俺は歩きながら肩を回す。

「ああ」

遠くの道を見る。

「向こうの村も来てた」


ラヒーマが歩幅を合わせる。

「やっぱりか。籠が足りなくなるかと思った」


俺は地面を見ながら言う。

「最後は軽かった。最初の方は重かった」


ラヒーマが肩を回す。

「最初の往復で腕が抜けそうだった」


少し歩く。風が通る。ラヒーマが空を見る。

「明日も来るか?」


俺は道の先を見る。

「来る。土、まだ見ないといけない」


「まだ乾いてる?」


俺は足元の土を軽く蹴る。

「少しな」


ラヒーマが道端を見る。

「水、減ってる気がする」


俺は水路の方へ目を向ける。

「減ってる」


それ以上は、言わない。人の輪を、外れる。後ろの声が、少しずつ遠くなる。


道は、慣れている。足元を見る必要はない。昼の熱が、地面から抜けている。


家が見える。灯は、まだ点いていない。


俺は戸に手をかける。押す。中の空気が、外と混ざる。それだけで、昼が終わる。


夜になる。


外の音が、少しずつ遠くなる。昼に重なっていた声は、もう残っていない。


人の気配が抜けて、代わりに風の動きだけが残る。薄い布が、わずかに揺れる。その揺れで、外がまだ動いていると分かる。


灯は、小さい。火も、強くはない。油を足すほどでもない明るさだ。


影が、壁の上で短く揺れている。揺れは、小さい。


ラヒーマが、先に手を止める。畳んでいた布をまとめ、端を揃える。指先で、角を一度なぞる。重ねて、脇に置く。


今日の分は、ここまでだと分かる置き方だ。


俺は、道具を見る。刃。縄。鍬。昼に使った順のままだ。置き直す必要はない。


明日の分だ、と思う。今日の続きを、明日に回す。それだけのことだ。


刃を持ち上げる。重さは、昼と変わらない。縁を確かめる。欠けはない。指に伝わる感触も、問題ない。


昼より、少し白くなっている。だが、使えなくなるほどではない。


布で、軽く拭く。力は入れない。油は、使わない。今は、そこまで要らない。


夜のうちに整えるほどのことでもない。


ラヒーマが、灯のそばに腰を下ろす。背中を、壁に預ける。そのまま重さを預ける。肩の力が、少し落ちる。


ラヒーマが灯を見ながら言う。

「今日は、ここまで?」

少し息を吐く。

「外ももう静かだし、今から始めても、あまり進まない」


俺は縄を巻きながら言う。

「……ああ。ここまででいい」

指を動かす。

「明日、またやればいい。急ぐことでもない」


縄を巻き直す。一周。二周。指の動きが、昼より少し遅い。結び目を作る。強くは引かない。ほどけない程度で止める。


ラヒーマが壁に頭を預けたまま聞く。

「明日、早い?」

灯を見たまま続ける。

「朝、また人が来るかもしれないし」


俺は結び目を確かめてから言う。

「……ああ。早い」

縄を脇に置く。

「遅くはならない」


ラヒーマが小さくうなずく。

「分かった」

少し間を置く。ラヒーマが立ち上がりながら言う。

「じゃあ、先に寝る」

布を寄せる。

「明日、起きられなくなると困る」


俺は鍬の柄を持ちながら言う。

「……ああ。先に休め」


引き止める理由はない。ラヒーマは立ち上がる。灯を少し遠ざける。部屋の端が、少し暗くなる。布が擦れる音。足音は軽い。俺は鍬の柄を見る。昼に見た線。親指でなぞる。引っかかりは、同じだ。


少しして、ラヒーマが戻ってくる。手に、水の器を持っている。器を置きながら言う。

「これ、飲んでから」

少し俺を見る。

「昼から、あまり飲んでないでしょ」


俺は器を受け取る。

「……ああ」


一口飲む。喉を通る。もう一口。器を戻す。ラヒーマが灯の前に腰を下ろす。さっきと同じ場所だ。少しだけ笑う。

「今日は、人多かったね」

肩を回す。

「腕が、まだ少し重い」


俺は刃を脇に置きながら言う。

「朝から道が詰まってた。向こうの村も来てた」


ラヒーマがうなずく。

「多かった。向こうの道、まだ人いたね」


俺は道具を寄せながら言う。

「帰りも、まだ並んでた」


ラヒーマが小さく笑う。肩を回す。

「明日も来るかもね。水、まだ減ってるし」


少し間。火が揺れる。揺れて、戻る。


俺は道具を並べる。刃。縄。鍬。明日の位置に揃える。


ラヒーマは目を閉じる。呼吸がゆっくりになる。


部屋の中は静かだ。


俺は灯を見る。明るさは変わらない。減りもしない。増えもしない。


夜は進む。急ぐことはない。俺はそのまま座っている。


しばらくして、灯の揺れが、目に入らなくなる。消えたのか、見ていないだけかは、分からない。


身体は、横になった。そのはずだ。だが、眠った、という感覚は、はっきりしない。


目を閉じた時間と、開いた時間のあいだが、そのまま、つながっている気がした。


朝になった、という合図もない。気づけば、外の色が変わっていた。身体は、もう動いている。


川にいる。


人の気配はない。


手は、いつもの順で動いている。刃を入れ、引き、返す。考えなくても、身体が覚えている動きだ。今日は、それで足りるはずだった。


水の音が、絶えず耳にある。あるはずの音だ。途切れたわけじゃない。ただ、意識の奥に下がっている。


気が散ったわけじゃない。そう思う。


一度、息を吸う。いつもより、少し長くなる。吐くときも、同じだ。


その途中で、手が止まる。止めたつもりはない。刃は、水の上に浮いたままだ。


……今、何を待っている?


自分に向けた問いだ。答えは、まだ出ない。


水面に、影が揺れている。揺れ方は、いつもと変わらない。流れも、同じだ。変わったところは、見当たらない。


もう一度、刃を引く。動く。だが、指に力が残る。抜けきらない感触が、わずかに引っかかる。


力を入れた覚えはない。それでも、身体が固まっている。


肩が、自然に落ちる。力を抜いたわけじゃない。抜けた、というほうが近い。


音が、薄くなる。消えたわけじゃない。遠くなっただけだ。


聞こえていないんじゃない。音が多すぎて、拾っていない。


足元を見る。石の位置。前と同じ並びだ。ずれてはいない。


手の甲に、水が当たる。冷たい。その冷たさも、いつも通りだ。感覚は、戻ってくる。


息が、遅くなる。数えようとして、やめる。数える理由が、見つからない。


刃先を、少し持ち上げる。水から離すと、滴が落ちる。落ちる。間を置いて、また落ちる。落ち方は、変わらない。遅く感じるだけだ。


滴の数も、変わっていない。


指を握り、開く。皮膚の感触は、確かにある。温度も、力も、分かる。


身体は、いつも通りだ。そう思って、刃を見る。刃も、変わらない。


それでも、さっきと同じ動きに戻る気には、ならない。


指を、もう一度開く。感触は、戻っている。戻っている……はずだ。


川を見る。流れは、確かに進んでいる。止まってはいない。音も、ある。


それでも、目が追わない。流れが速すぎるわけじゃない。遅いわけでもない。ただ、視線が、ついていかない。


一歩、下がる。踵が、石に当たる。硬さが、伝わる。位置も、分かる。身体は、確かに、ここにいる。


胸の奥が、静かだ。呼吸も、胸の動きも、乱れていない。落ち着いている。静かすぎる。


嫌な感じは、ない。不安でもない。ただ、波が立たない。


もう一度、息をする。深くは、しない。整えるためじゃない。見ておくためだ。


刃を、水に戻す。角度を決める。迷わない。手が、自然に決める。


動かす。今度は、きちんと動く。水の音が、はっきり戻ってくる。


手首が、応える。力は、通っている。遅れも、引っかかりもない。


変わったところは、見当たらない。


何が違ったのかは、分からない。


目に見える変化は、何もない。ただ、本来なら、ここで起きるはずの動きが、来なかった。


驚きでも、緊張でもない。身構える前の、あの小さな動きが、起きなかった。


代わりに、何も起こらないまま、時間だけが流れた。その感触だけが、残っている。


理由は、探さない。今は、名前を付ける必要もない。


一度、立ち止まる。止まるつもりで、止まったわけじゃない。身体が、次の動きに入らず、ほんの一拍、止まっただけだ。


空を見る。雲がある。動いているが、乱れてはいない。いつもの高さだ。


目を戻す。水。刃。手。順に、見ていく。全部、揃っている。


俺は、作業を続ける。さっきより、少しだけ、ゆっくりと。


動きを減らすためじゃない。確かさを、保つためだ。


それ以上、見ない。違和感は、名前を付けないまま、奥に置く。今は、それで足りる。


作業を終えれば、身体は自然に次へ移る。戻らないものがあれば、そのとき考えればいい。


水から手を上げる。刃を拭き、元の場所に戻す。


足元の石を一つ外し、岸に上がる。それだけで、水から離れる。


顔を上げる。空は、すでに明るい。霧は、もう残っていない。空気が澄んでいて、遠くの輪郭まで、はっきり見える。


道の向こうから、人の声が近づいてくる。足音が重なり、土を踏む音が増える。


朝は、もう動いている。


俺は、川のそばに立っている。立つ位置も、足の向きも、昨日と同じだ。変える理由がない。


後ろから、男が声をかける。男がこちらを見て笑う。

「ノア、早いな。まだ誰も来てないと思った」

川の方を見る。

「今日は静かだな。人の声もまだ聞こえない」


俺は川を見たまま答える。

「……ああ」

流れを見る。

「水、見てた。昨日のままなら、それでいい」


男が川をのぞき込む。手で流れを指す。

「今日は、水いいぞ。昨日より、少し落ち着いてる。夜のうちに、少し引いたのかもな」


言われて、川を見る。流れの幅。岸の線。昨日と、変わらない。俺は少しうなずく。

「そうか。それなら、いい」

水面を見る。

「流れが変わらなければ、それで足りる」


水が悪くなければ、それでいい。地面に道具を置く。刃。縄。木の柄。順番は、いつも通りだ。並べ直す必要はない。横から手が伸びる。


別の男が縄を指す。

「それ、貸してくれ」

縄を軽く持ち上げる。

「昨日、結び直したやつだろ。少し見たい」


声だけで、誰か分かる。俺は縄を渡す。

「いい。まだ使える」

結び目を見る。

「ほどけてないな」


間を置かずに、返ってくる。男が縄を軽く引く。

「助かる」

結び目を確かめる。

「これ、昨日より締まってるな。夜の間に乾いたのか」


俺は縄を受け取る。

「……ああ」

縄を脇に置く。

「そのままでいい。今は、動かさない方がいい」


言葉は短いが、足りている。やり取りは、それで終わりだ。向こうで、笑い声が上がる。若い男が腰を曲げて笑う。

「お前、昨日落ちたろ」

地面を指す。

「ここで滑ってた」


別の男が手を振る。

「落ちてない。ただ足を取られただけだ」


最初の男が泥を指すように地面を見る。

「落ちたって。泥だらけだった。川より汚れてたぞ」


何の話かは、聞かない。聞かなくても、困らない。少し離れた男が道具を肩にかける。

「昨日の続き、やる?」

周りを見る。

「途中で止めただろ」


隣の男が空をちらっと見る。

「やるだろ。この空なら止まらない」


別の男が地面を靴で蹴る。

「雨、来ないしな」

土を見る。

「まだ乾いてる」


もう一人が笑う。男が空の方をあごで示す。

「この空で雨なら、びっくりだ。雲もない」


誰も空を見上げない。この空なら、見る必要がない。ラヒーマが来る。包みを抱えている。歩き方で分かる。急いでいない。


ラヒーマが包みを少し持ち上げる。

「これ、置いとくね」

包みを揺らす。

「朝の分。まだ温かい」


俺は軽くうなずく。

「……ああ」


地面に置かれた包みの端を、軽く押さえる。風でずれない位置だ。ラヒーマがこちらを見たまま包みを見る。

「今日は、あとで回す?」

包みの口を見る。

「それとも、先に?まだ人、少ないし」


少しだけ考える。作業の順番を、頭の中で並べる。俺は包みを指す。

「先でいい。あとでも回せる。今のうちでいい」


ラヒーマが小さくうなずく。

「分かった」

包みを押さえる。

「じゃあ、先にやる」


彼女は、返事を聞く前にもう別の方を向いている。それでいい。その背中が離れるのと同時に、今度は、すぐ近くから声がかかる。


男が縄を持ち上げる。

「ノア、そっち頼める?」

縄をこちらに見せる。

「これ、もう一回見てくれ。昨日、俺が結んだ。念のためだ」


俺は手を伸ばす。

「ああ」

縄を取る。引く。留まる。俺は結び目を指で押す。

「その結び、固いな。昨日のままか。動いてない」


男が肩をすくめる。

「昨日のまま。触ってない」


俺は縄を戻す。

「じゃあ、大丈夫だ。これなら切れない。そのままでいい」


水の音が、会話の隙間に入り込む。切れず、重なりながら、ずっと流れている。朝の作業は、もう始まっていた。少し間が空く。作業の音が、ひとつ落ち着いたところで、前の方から声が飛ぶ。


前にいる男が肩を回す。

「昼、どうする?」

手を腰に当てる。

「昨日みたいに、途中で食うか。それとも、まとめて休むか」


食い物の話だと、すぐ分かる。俺は、刃を布の上に置いたまま、少しだけ間を置く。

「まだ、決めてない。今はいい」


腹が減っていないわけじゃないが、急ぐ理由もない。横の男が軽く笑う。

「いつものだな。結局、腹が鳴ってから決める。大体そうなる」


俺は軽くうなずく。

「そうだな。それでいい。急ぐ話でもない」


それ以上、話は広がらない。刃を見る。縁は、朝と変わっていない。白くもなっていないし、欠けもない。向かいの男が刃を指す。

「それ、俺がやる」

手を伸ばす。

「少し代われ。もう慣れてる」


俺は刃を押し出す。

「任せる。その方が早い。手順は変えない」

理由はいらない。代わる。代わられる。それでも、手順は崩れない。


少し離れたところから、また声。若い男が手を上げる。

「ノア、あと一回。残ってるの、あれだけだ」

籠を指す。

「終わりだろ」


俺はそちらを見る。

「ああ。行ってくる」

籠を見る。

「それで終わりだ」

行って、戻る。必要な分だけ、身体が動く。


作業を続けながら、男が声を上げる。

「今日は、早く終わりそうだな。人、多いし。昨日より楽だ」


隣の男が頷く。

「そうだな。手が多いと違う。助かる」


声が重なる。

「助かるな」

「今日は早い」


誰の言葉かは、もう混ざっている。意味だけが、そのまま残る。少し向こうで、布が広がる音。ラヒーマだと分かる。彼女は、地面に布を広げながら言う。

「そこ、日が当たるから」

布を引く。

「乾きやすい。重ねないで」


別の女が布を持ちながら返す。

「了解」

布を置く。

「ここでいい?風も通る」


ラヒーマが軽くうなずく。

「それでいい。乾いたら畳んで。重ねておいて」


女が布を押さえる。

「分かった。あとでやる」


言葉は、作業の上を流れていく。引っかからない。止まらない。俺は、手を洗う。水は、冷たすぎない。昼の水だ。指の間の埃が落ちる。それで十分だ。


近くの男が水を払う。

「昨日より、楽だな。肩がまだ動く。昨日は重かった」


俺は水を切る。

「そうだな。今日は違う。理由は分からないが」


理由は、言葉にならない。天気か、人の数か、どちらかだろう。道具をまとめる。刃。縄。柄。順番は、いつも通りだ。誰かが手を振る。

「また明日な。早いぞ」


別の男が笑う。

「おう。寝坊すんなよ」


俺は軽く手を上げる。

「ああ。分かってる」


いつもの別れだ。ラヒーマが、先に歩き出す。少し離れてから、振り返らずに言う。

「帰る?もう終わりだし。日も高い」


俺は歩き出す。

「……ああ。帰る」


並ぶ。歩幅は合わせない。だが、自然に揃う。川の音が、後ろに残る。前では、人の声が続いている。俺は、何も言わない。言う必要も、ない。今日も、続く。

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