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第1話:存在の始まり

歴史が始まる、その前。まだ、世界という言葉が、意味を持っていなかった頃。そこには動きはない。だが、止まっている感じでもない。空はない。地面もない。けれど、落ちていく感覚もない。


足元に広がっているのは、白く、なめらかな光だ。水面のように平らで、水のようには揺れない。


端はない。どこまで見ても、同じ明るさが続いている。影はない。だが、まぶしくもない。光は、何かを照らすためのものではない。この場そのものとして、静かに満ちている。


天使たちは、そこにいる。そのまわりに、数えられないほどの存在がある。一つ一つの形は、はっきりしない。だが、重なった翼だけが、白い層となって浮かび上がっている。


彼らは立っていない。座ってもいない。ただ、同じ距離を保ったまま、真ん中の光のまわりを円を描くように巡っている。列でもない。集まりでもない。ただ、同じ場所に、変わらず在り続けている。


音はない。揺れもない。重さも、軽さも、感じられない。足りない感じも、満ちている感じもない。その中で、言葉になる前の、ごく小さな引っかかりだけが、生まれては消えている。ただ、聞いているだけが、そこにある。


天使たちは、これから何かが置かれることを、知っていた。だが、それが何であるかまでは、まだ知ろうとしていない。声は、まだ出る理由を持たないまま、


そこにある。沈黙が、わずかに変わる。空間の真ん中に、一本の流れがある。柱のようにも見えるが、形は決まらない。上下も、左右もないはずなのに、その流れだけが、あらゆる方向から溢れ続けている光だ。


だが、照らすための光ではない。集まり、通り抜け、また同じ場所へ戻っていく。始まりも、終わりもない。動いているようで、動いていない。その流れのまわりで、天使たちは距離を変えずに巡っている。近づくことも、離れることもない。ただ、真ん中を外さず、位置を保っている。


誰も、何も言わない。だが、全体が、同時に揃う。ここに、何かが置かれる。まだ、問いは生まれていない。ただ、聞く準備だけが整っている。


ひとつの宣言が、静かに置かれる。雷は鳴らない。空が割れることもない。そこにあるのは、存在がまだ形になる前の沈黙。昼も夜もなく、時間の流れも定まらない。


ただ、すべてが正しい位置に収まっている。その沈黙の中に、一本の線を引くような声が、確かに響く。沈黙が、そこだけ割れる。


「地上に、代理者を置く」


その声が落ちたあと、わずかに間が空く。誰も動かない。だが、同じものが、同時に立ち上がる。


近くの光が、わずかに向きを変える。

「……今の、聞いたか。地上と言ったな、まだ置かれていないはずの場所だ。だが、見える。形はないが、動きがある、止まらずに広がっている」


重なった翼の一つが、ゆっくりと開く。

「見えている。光だけではない、地が割れている、水が流れ、止まらない。そこに、動くものがいる」


別の光が、少し強く揺れる。

「ぶつかっている……互いに押し合い、奪い合っている。逃げるものと、追うものがいる。あれは、争いだ」


外側の層から、低く重なる。

「同じものに見える。形も、動きも、変わらない。それなのに、互いにぶつかり、壊している。なぜ、同じものが、同じものを消す」


少し近くで、翼がわずかに震える。

「分かれていないはずだ。ひとつに見える。だが、内でずれている。ひとつであるはずなのに、離れていく」


別の光が、遠くを見るように揺れる。

「命が落ちている。止まらない。次がすぐに重なる。終わらない。同じものが、同じものを追い、同じものを倒している」

短い間。

「……そこに、代理者を置くと言われたのか」


別の翼が、ゆっくりと角度を変える。

「なぜだ。我らには見えないものがあるのか。だが、今見えているものは、乱れだ。整っていない」


近くの光が、静かに返す。

「分からない。だが、置かれることだけは変わらない。ならば、我らはどうなる、このままか、それとも変わるのか」


翼が重なる気配がわずかに動く。

「変わっても、我らは離れない。我らは讃え、清め、命じられたことをそのまま通す。それは変わらない。だが、あれは違う、あれは止まらない」


別の光が、低く続ける。

「血が流れている。地に広がる。消えない。そこにまた、同じものが生まれる。そしてまた、同じものを壊す。繰り返している」


低く重なる声。

「なぜ、そのようなものを置かれるのか。我らにはない。あのように崩れることはない」


一つの光が、わずかに上を向く。

「……問うのか」


すぐ近くで、静かに応じる。

「問うしかない。拒むのではない、ただ、どうしてかを知りたい。我らがどう在るか、この中で今のままでいられるのか、それがまだ定まらない」


沈黙が、もう一段落ちる。それから、同時に。

「そこに……争いと血を生む存在を、置かれるのですか?」


間を置かず、もう一つ。

「私たちは、あなたを讃え、聖なるあるじとして仕え続けていますのに」


沈黙が、一段、落ちる。空間が、わずかに裂けるように、声が置かれる。

「お前たちが見ている先だけが、すべてではない。我は、その先へ至る道を、すでに知っている」


沈黙が、落ちる。さっきまでとは違う。誰も動かない。だが、もう何も残っていない。近くの光が、わずかに揺れる。

「……止まったな。ここで終わりだ。これ以上は続かない。先は、開かれない」


重なった翼が、静かに閉じる。

「聞けないのではない。聞くところが、もうない。示された分で、足りている」


外側の層から、低く重なる。

「示された。そこまでだ。それより先は、我らの外だ。我らには、届かない」


別の光が、わずかに向きを変える。

「我らは、この場で止まる。先には触れられない。あとは、そのまま従うだけだ」


翼が、わずかに重なる。

「ならば、備える。置かれるものを迎える、それでいい」


沈黙が、そのまま形を保つ。その中で、声が置かれる。

「我は、土から一つのものをつくる。形を整え、そこに息を吹き込む。そのとき、お前たちは、彼にひれ伏せ」


空間が、わずかに変わる。光の中に、重さが落ちる。足元も、上もない場所に、かたまりが現れる。やわらかく、湿り、形を持たないまま、少しずつまとまっていく。ひびが入り、割れ、またつながる。外側が固まり、内に何かが満ちる。一つの形になる。その内側に、何かが通る。息。静かに、入る。止まっていたものが、わずかに動く。指が、わずかに動く。肩が、揺れる。そして、ゆっくりと、目が開く。


アダムが、そこにいる。まだ焦点は合っていない。視線は、定まらない。だが、何かを探している。口が、わずかに開く。


「……ここ、どこだ」


手を、ゆっくり上げる。自分の前にあるものに触れる。だが、それが何かは、分からない。


「……なんだ、これ」


指が動く。空気を掴もうとする。足が、わずかに動く。立っているのか、置かれているのか、自分でも分かっていない。周りを見る。上も下も分からない。ただ、光だけがある。


「……おれ、いるのか」


答えは来ない。だが、消えない。そのまま、立っている。何も知らないまま。ただ、ここにある。


その中で、声が落ちる。

「これから、この者に、すべての名を与える。名は、ただの呼び名ではない。呼べば、ものは形を持つ。置かれれば、意味が宿る」

わずかに沈む。

「名を持つということは、世界に向き合うことだ」


沈黙。アダムの中に、何かが入る。形ではない。音でもない。だが、ひとつずつ、内に触れていく。まだ何もないはずの場所に、次々と、見えない結びが生まれていく。場に、わずかな変化が生じる。音ではない。動きでもない。ただ、位置だけが、わずかに揃う。


天使たちは、前に出ない。後ろにも、下がらない。距離は、そのまま。だが、向きが揃う。全体が、ひとつの点を通る。


――アダム。


彼は、立っている。呼ばれた位置から、一歩も動かない。視線は、定まらない。だが、逸れてもいない。天使たちの側に、声はない。それでも、場に重さが生まれる。アダムは、何も言わない。ただ、ここにある。それだけが、その位置を保たせている。


天使たちは、動かない。だが、見ている。言葉はない。ただ、見えない差だけが、静かに深くなっている。沈黙が、続く。その中で、アダムが、わずかに口を開く。


「……」


声にならない。音にもならない。ただ、呼ばれている、という事実だけが、そこに残る。天使たちは、動かない。まだ、応じる必要がない。沈黙が、ひとつ落ちる。その一点で、空間が、わずかに裂ける。


そこに、声が置かれる。

「では、これらの名を、我に告げよ。それが分かっているというのなら、そのまま示してみよ」


天使たちは、すぐに悟る。問われているのは、知っているかどうかではない。知らないものを、知っているように出すかどうか。それとも、そのままに置くか。彼らは、頭を垂れる。


「あなたに及ぶものは、何もありません」

「私たちは、教えられたこと以上を知りません」

「すべてを知り、すべてを定めるのは、あなたです」


沈黙が、落ちる。そのまま、声が置かれる。

「アダム。その名を、彼らに告げよ」


アダムが、少し間を置く。視線は、まだ定まらない。それでも、前に向く。

「……名ってさ」

少し言葉を探す。

「ただ呼ぶだけのものじゃないんだよ。つなぐためにある。呼ぶと、離れてるものが、つながる」

手を、ゆっくり動かす。

「見えないけどさ、つながってるんだ。天と地も、どれだけ離れてても、切れないように。名があるから、ちゃんと届く。バラバラにならないで、同じところにつながる」


沈黙。近くの光が、わずかに揺れる。

「……つなぐ、とはどういうことだ。離れてるものが、一つになるということか」


外側の層から、低く重なる。

「だが、なぜお前なのだ。あるじは、お前を置いた。これから、お前と同じものが生まれる。あれは争いを生む。それは見えている。それでも、お前には分かるのか」


アダムが、少し考える。顔を上げる。

「……たぶんさ、意味を持つためだと思う。天に従うっていう、その意味を増やすため」


近くの光が、わずかに揺れる。

「意味を、増やす……どういうことだ」


アダムが、息を一つ吐く。

「例えばさ、お前らって天使だろ。天と使うって書くじゃん。天に使えるためにあるんだろ。だからさ、お前らは、あるじが命じること、逆らえないんだよな。選べない」

手を、ゆっくり開く。

「でも、俺と同じものは、たぶん違う。選べるんだと思う。逆らうこともできるし、従うこともできる。そのどっちも、残されてる。だからさ、天に従うってことの意味が、増える」


外側から、低く重なる。

「……なぜ、それで重くなる。我らも従っている。それでは足りないのか」


別の翼が、静かに動く。

「我らは、常に従っている。それでも、違うのか」


アダムが、少し迷う。言葉を探す。

「……同じじゃないだろ。選べないまま従うのと、選べるのに従うのは、違うだろ」

手を軽く握る。

「弱さがあるからこそ、従うってことの重さは増えるんだと思う。逆らえるのに、そっちを選ばないからだ」

少し視線を上げる。

「お前らは、そもそも選べないだろ。あるじに逆らうっていう選びがない」

短い間。

「でも、俺みたいなやつは違う。逆らうこともできるし、従うこともできる。その中で従うなら、それは同じじゃない。最初から一つしかないやつと、二つあって、一つを選ぶやつ。それ、同じじゃないだろ」


沈黙。天使たちは、動かない。ただ、見えない差だけが、静かに深くなる。


その沈黙の奥で、一言だけが置かれる。

「言ったはずだ」

声は、穏やかだ。

「我は、見えないものを知っている。天と地の奥にあるものも。お前たちが口にする前の思いも、胸の奥にしまったままのものも」


沈黙。この場にあるすべては、すでに知られている。だが、まだ、誰のものでもない。人は、土から置かれた。かたちを持ち、息を受け、意味を背負うものとして。


その前に、別のものがあった。精霊ジン。火から生まれ、形を定めず、燃えるように在る。天使とは違う。同じ場に立つことはあっても、同じではない。


沈黙は続く。だが、さっきまでとは違う。何も起きていない。それでも、次に起きるすべてが、もう並んでいる。天使たちは、動かない。だが、向きはすでに決まっている。


その中に、一か所だけ、沈黙の手触りが違う。ひとりだけ、立っている。イブリース。彼は、動かない。まだ、言葉は与えられていない。だが、身構えは解かれていない。同じ光の中にいる。それでも、そこだけ、わずかに張りが違う。誰も彼を見ない。見る必要が、まだない。すでに、半歩だけ外れている。沈黙が、固まる。壊れる前の形が、そのまま止まる。


その中に、声が置かれる。

「アダムに、ひれ伏せ」


怒りはない。ただ、流れを定める一言だけ。それだけで、すべてが向く。数えきれない光が、一斉に落ちる。翼が重なり、音もなく伏す。ためらいはない。


ただ一つを除いて。イブリースは、動かない。伏した光の中で、そこだけが立っている。光ではない。影のように。遅れたのでも、忘れたのでもない。選ばなかった。静かに、はっきりと。そのとき初めて、逆らうというかたちが、現れる。


声が、置かれる。

「イブリースよ。なぜ、ひれ伏さない?」


影が、動かない。

「……ひれ伏さない」


声が、静かに落ちる。

「理由を言え。何を見て、そう決めた」


影が、わずかに揺れる。

「筋だ。命じられたからじゃない、位置の問題だ。どこに立つべきか、それは材で決まる」


声が、わずかに続く。

「材で決まる、と言うのか。お前は、それをどう見る」


影が、少しだけ向きを変える。

「俺は火だ。上へ行く、軽く、速く、消えても働きは残る。アダムは泥だ、下へ落ちる、重く、留まる、形に縛られる。触れれば汚れる、乾けば割れる、混ぜれば濁る。そんなものに、頭は下げない」


沈黙。声が、わずかに落ちる。

「我を畏れているのか?」


影が、止まる。

「畏れている。あるじに逆らえないことも、分かっている。それでも、ひれ伏さない。どうしても、あれには下げられない。俺より下のものに、頭は下げない」


沈黙。声が、静かに続く。

「これは、比較ではない。試しでもない。ただの命令だ」


影が、すぐに返す。

「命じられたことは分かっている。だが、それがそのまま通るとは限らない。命令は通る。だが、筋は別だ。筋が通らないなら、従えない。上が下に屈するなら、形は崩れる。秩序が逆になる。だから、下げない。それだけだ」


沈黙。声が、わずかに低くなる。

「お前は、自分の位置を見誤っている」


影が、すぐに返す。

「見誤っていない。自分の位置を守っている。崩さないために、下げない」


短い間。声が、切り分けるように置かれる。

「守っているのは、何だ。材か、それとも命じたものか」


影が、迷わない。

「材だ。そこが崩れたら、全部崩れる」


沈黙。声が、変わらず落ちる。

「ならば、ここにはいられない。この場は、命じたことがそのまま通る場所だ。お前の在り方は、ここには合わない。裁きは、まだ置かない。定められた時までだ」


影が、少しだけ揺れる。

「……ならば、あのものたちが蘇るその日まで、時間をくれ」


声が、短く返す。

「定められた時までだ」


影が、わずかに動く。

「それでいい。ならば、見ていよう。選ばれたという、その存在が、どう動くか。意味を持つと言うなら、その重さに耐えられるか。選べると言ったな。ならば、その選びがどこへ行くか、確かめる」


沈黙。声が、最後に落ちる。

「道は、すでに示してある。選ぶのは、彼らだ。我のしもべたちに、お前の力は及ばない。お前の側に立つのは、自ら選んだ者だけだ」


影が、わずかに向きを変える。答えない。そのまま、場を離れる。

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