隣の聖女
魔族が姿を現したのは、
夜が最も深くなった頃だった。
村外れの林。
月光の下、黒い影が地を這うように動く。
「来るぞ!」
誰かの声が上がるより早く、
アレクシオンは前に出ていた。
考えはなかった。
ただ、身体が動いた。
剣を振るう。
魔族の爪が、火花を散らして弾かれる。
(――遅れるな)
背後には、
守るべきものがある。
その意識だけが、
彼を前へ押し出していた。
一体、
また一体。
腕に走る痛みも、
息の荒さも、
今はどうでもいい。
――倒す。
その一心で、
最後の一体を斬り伏せた。
静寂が戻る。
剣を下ろした瞬間、
膝が、わずかに震えた。
「……よく、持ちこたえてくれました」
その声に、
顔を上げる。
ローザリアが、
彼のすぐ前に立っていた。
聖魔法の光が、
彼の傷に触れる。
あたたかい。
その感触に、
思わず息を詰める。
「無理を、しすぎです」
責める調子ではない。
だが、その眼差しは――
今、この場にいる誰でもなく、
自分だけを捉えていた。
周囲の喧騒が、
一瞬、遠のく。
(……俺を)
彼女は今、
この瞬間だけ、
自分を見ている。
そう、思ってしまった。
「ですが」
ローザリアは続ける。
「あなたが前に出てくれたから、
皆、落ち着いて動けました」
それは事実だった。
評価でも、特別扱いでもない。
それでも――
胸の奥が、
不自然なほど熱を帯びる。
彼女の視線が、
自分から逸れない。
そのことが、
どうしようもなく、嬉しかった。
(……今だけは)
この人の世界に、
自分しかいないような気がした。
ローザリアは、
役目を終えたように一歩下がり、
他の者たちへと視線を向ける。
その瞬間、
現実が戻ってきた。
(……あ)
たったそれだけで、
胸の奥に、空白が生まれる。
――今のは、何だった?
分からない。
だが一つだけ、確かなことがある。
もう一度、
あの視線を向けさせたい。
その夜、
村では小さな宴が開かれた。
魔族を退けた者として、
アレクシオンは迎えられる。
称賛の声。
杯。
笑顔。
だが、
彼の視線は一つしか追っていない。
ローザリア。
子どもに微笑み、
老人に手を添え、
誰にでも同じ距離で接している。
(……同じだ)
その「同じ」が、
今は耐えがたかった。
自分も、
あの視線を向けられたはずなのに。
(……違う)
剣を振るったのも、
血を流したのも、
彼女のためだった。
そう思った瞬間、
胸が、きしんだ。
宴が終わり、
人々が眠りについたあと。
アレクシオンは、
一人、外に出た。
夜風が、
火照った頬を冷ます。
(……勇者)
誰かが、
そう呼んでいた。
悪くない響きだ。
勇者なら、
聖女の隣に立てる。
勇者なら、
守る資格がある。
――守る。
その言葉を反芻しながら、
彼は気づいてしまった。
それだけでは、
足りないということに。
何を、
望んでいるのか。
答えは、
まだ形にならない。
ただ――
ローザリアが、
誰かに奪われる光景だけは、
どうしても、
想像したくなかった。
それだけが、
はっきりしていた。
(第6話・了)




