空白
朝の鐘が、
王宮に響いた。
いつもと変わらない音。
いつもと変わらない時刻。
だがその日、
王宮は、
どこか噛み合っていなかった。
地下牢の見回りに向かった兵が、
足を止める。
扉は、
閉じられている。
鍵も、
掛かっている。
規則通りだ。
だが――
中から、
何の気配もしなかった。
「……開けろ」
指示が飛ぶ。
鍵が回り、
扉が開く。
そこには、
誰もいなかった。
石の床。
冷たい壁。
残されているのは、
夜の湿り気だけ。
「……いない?」
一人が、
声を落とす。
報告は、
すぐに上へ回された。
王の執務室。
アレクシオンは、
机に向かっていた。
書類を整え、
印を押し、
次の指示を確認している。
「――第二王女が、
地下牢から消えました」
報告は、
簡潔だった。
アレクシオンは、
顔を上げない。
「そうか」
それだけ。
驚きも、
動揺もない。
「逃げた、
ということかと」
「違う」
きっぱりと否定する。
「連れ出された」
視線を上げ、
静かに言う。
「単独では、
不可能だ」
誰の名も、
口にしなかった。
だが、
誰もが思い浮かべる。
「……追いますか」
「不要だ」
即答だった。
「見せしめは、
すでに十分だ」
「彼女は、
“逃げた魔女”として
語られる」
「それでいい」
言葉は、
すでに“物語”を作っていた。
「裁きは」
重臣の問いに、
アレクシオンは
ようやく顔を上げる。
その目は、
冷静だった。
「続ける」
「罪は、
消えていない」
「逃げたという事実が、
それを裏付ける」
論理は、
完璧だった。
「以後、
第二王女の名は
公式記録から外せ」
「称号は――
月影の魔女」
その瞬間、
一つの名が
歴史に刻まれた。
誰も、
異を唱えなかった。
異を唱える理由が、
存在しなかった。
会議が終わり、
人が去る。
執務室に、
再び静寂が戻る。
アレクシオンは、
窓の外を見る。
空は晴れている。
「……大丈夫だ」
小さく、
呟く。
「君は、
裏切っていない」
「奪われただけだ」
誰に向けた言葉か、
分かる者はいない。
だが、
彼の中では、
すでに答えは決まっていた。
王宮には、
空白が生まれた。
だがそれは、
混乱ではない。
物語が、
完成したという合図だった。
(第52話・了)




