脱出
夜は、
静かに沈んでいた。
王宮の地下は、
時を忘れたように
変わらない闇を保っている。
だが今夜だけは、
違っていた。
巡回の足音が、
一つ減っている。
火皿の灯りが、
一つ消えている。
それらはすべて、
偶然を装った
準備の痕跡だった。
石の廊下に、
靴音が一つ。
迷いのない歩幅。
セレスタンは、
影のように進み、
地下牢の前で足を止めた。
鍵束が、
小さく鳴る。
選ぶのは、
一つだけ。
音を立てず、
錠が外れる。
扉が、
わずかに開いた。
「……時間だ」
囁くような声。
リリシアンは、
すでに立っていた。
驚きはない。
問うこともない。
ただ、
頷く。
「……わかってる」
声は、
落ち着いていた。
外套を渡され、
肩にかける。
それだけで、
王女ではなくなった。
牢を出る。
扉は、
再び閉じられた。
――誰も、
中にいないまま。
廊下を進む。
灯りの届かない場所を選び、
影の濃い角を曲がる。
遠くで、
誰かの足音。
セレスタンは、
立ち止まり、
リリシアンを背に庇う。
通り過ぎるまで、
息を殺す。
足音が遠ざかる。
「……順調だ」
短く言う。
「この先に、
古い通路がある」
「使われていない」
「知ってる人間は、
ほとんどいない」
それは、
エルフが王宮に
仕える前から
残っていたものだった。
重い扉を押す。
軋む音が、
夜に溶ける。
冷たい外気が、
流れ込んだ。
外だった。
王宮の裏手、
月明かりの届かない
細い通路。
「……振り返るな」
セレスタンが言う。
リリシアンは、
従った。
振り返る理由は、
なかった。
二人は、
そのまま闇へ溶ける。
追手は、
来なかった。
それは、
セレスタンが
“そうなるように”
整えていたからだ。
やがて、
森が近づく。
王都の灯りが、
背後で小さくなる。
足を止め、
リリシアンは
一度だけ空を仰いだ。
月が、
雲の間に浮かんでいる。
「……始まるな」
小さく、呟く。
セレスタンは、
隣に立った。
「……ああ」
「ここからだ」
それ以上は、
言わなかった。
言葉にしなくても、
二人は同じ方向を
見ていた。
王宮では、
翌朝になっても
気づかれないだろう。
第二王女が、
すでに
そこにいないことに。
そしてやがて、
こう語られる。
――月影の魔女は、
王の裁きを恐れ、
姿を消した。
真実は、
誰にも知られない。
だがそれでいい。
真実は、
生きている者の側にだけ
残ればいい。
(第51話・了)




