懺悔
背後で、
何かが倒れる音がした。
それは、
怒号よりも早く、
ローザリアの身体を動かした。
振り返らない。
振り返ってはいけないと、
はっきり分かっていた。
廊下へ出た瞬間、
足音が追ってくる。
速い。
迷いのない足取り。
(……来る)
ローザリアは、
ドレスの裾を掴み、
走った。
豪奢な布が足に絡む。
転びそうになるたび、
腹部に意識が集中する。
(……守らなきゃ)
恐怖よりも先に、
その思いがあった。
逃げているのではない。
守るために、
進んでいる。
「……ローザリア!」
背後から、
名を呼ぶ声が響く。
そこにあったのは、
焦りではない。
――正しさを信じ切った声。
(……だめ)
返事をしてはいけない。
立ち止まってはいけない。
この人は、
もう私の言葉を
聞く場所にいない。
回廊を曲がる。
近衛の詰所が視界に入る。
だが、
そちらへは行かない。
彼らは、
王の剣だ。
説得され、
連れ戻される。
その先に何が待っているのか、
ローザリアは
もう理解していた。
足音が、
さらに近づく。
追いつかれる。
――その瞬間、
迷いは消えた。
(……リリィ)
最初から、
行き先は決まっていた。
この王宮で、
ただ一人。
何があっても、
味方でいてくれる人。
妹。
聖女でも、
王女でもなく。
姉として、
身を預けられる存在。
人の少ない回廊へ折れる。
最奥。
扉が見えた。
リリシアンの部屋。
ローザリアは、
力の限り
扉を叩いた。
「……リリィ!!」
声が、
悲鳴に近い。
「助けて!」
迷いのない叫びだった。
助けてくれると、
知っていたから。
扉の内側で、
激しく物音がする。
「……姉さん!?」
扉が開いた瞬間、
ローザリアは
崩れ込むように中へ入った。
「……来てる」
荒い息の合間に、
それだけを伝える。
リリシアンは、
即座に扉を閉め、
鍵をかける。
リリシアンが結界を張った瞬間、
張りつめていた空気が、
わずかに緩んだ。
その一瞬だった。
ローザリアの身体から、
力が抜けたのは。
「……リリィ……」
名前を呼んだ声が、
子どものように揺れる。
「……姉さん?」
リリシアンが膝をつくより早く、
ローザリアはその場に崩れ落ちた。
「……ごめんなさい……」
最初に出たのは、
謝罪だった。
「ずっと……
言えなかった……」
肩が震える。
言葉が、
追いつかない。
「……私、
あの人を……」
一度、
大きく息を吸う。
そして――
堰を切ったように。
「ヴェルゼリオを、
愛してしまったの」
その名が落ちた瞬間、
リリシアンの呼吸が止まった。
「……愛したの」
言い訳はしない。
正当化もしない。
ただ、
事実として。
「魔王だからとか、
敵だからとか……
全部、分かってた」
「それでも……
あの人の前では……」
声が、
震える。
「聖女じゃなくて……
王女でもなくて……」
「ただの……
ひとりの女でいられた」
リリシアンの瞳が、
わずかに揺れる。
「……短い時間だった」
「でも……
確かに、
幸せだった」
ローザリアは、
そっと腹部に手を当てた。
その仕草に、
すべてが込められている。
「……その、
続きなの」
「この子は……
あの人との……
繋がりなの」
言葉にした瞬間、
涙が溢れた。
止まらない。
「……だから……
守りたい……」
「世界を裏切ったって……
罰を受けたって……」
「この子だけは……」
声が、
かすれる。
「……お願い、リリィ……」
「私が、
間違っていたとしても……」
「この子を……
消さないで……」
部屋は、
静まり返っていた。
リリシアンは、
すぐには答えなかった。
姉の言葉を、
一つ残らず受け止めてから――
ゆっくりと、
姉の前に跪く。
「……姉さん」
声は、
震えていなかった。
「それは……
罪じゃない」
ローザリアが、
顔を上げる。
「……生きた、
証だわ」
リリシアンは、
姉の腹部に視線を落とし、
そして、
はっきりと言った。
「私は……
姉さんが、
人として誰かを愛したことを……」
「否定しない」
「この子も……
姉さんも……」
「私が、
守る」
その言葉に、
ローザリアの肩が、
大きく震えた。
「……ありがとう……」
妹の前でだけ、
許された嗚咽。
聖女でも、
王妃でもない。
ただの姉として、
ただの母として。
二人は、
互いに寄り添った。
――この告白が、
世界を変える選択の
始まりになることを、
まだ誰も知らないまま。
(第46話・了)




