王の夜
昼の祝福が嘘のように静かだった。
戴冠の余韻は、
まだ空気の奥に残っている。
王となったアレクシオンは、
回廊を歩きながら、
足音の反響を確かめていた。
(……静かだ)
王の夜は、
こうして始まるのだろう。
責務を終え、
戻る場所がある。
彼の視線は、
自然と王妃の居室へ向かった。
扉の前で、
足を止める。
躊躇はなかった。
ノックをする。
「……ローザリア」
名を呼んだ瞬間、
敬称はなかった。
それは意図ではなく、
“当たり前”の移行だった。
王と王妃。
夫と妻。
扉の向こうで、
気配が揺れる。
やがて、
静かに開いた。
「……どうしましたか」
ローザリアは、
王妃の装いのまま立っていた。
昼の儀礼と変わらぬ姿。
乱れはない。
その整いすぎた佇まいが、
アレクシオンには
どこか距離を感じさせた。
「今日という日を、
一緒に終えようと思って」
穏やかな声。
「王妃として、
よく務めてくれた」
労いの言葉。
だが、
一歩、距離を詰める。
「……ありがとうございます」
ローザリアは、
礼を崩さない。
それが、
彼には少しだけ
惜しく思えた。
(……もう、
遠慮はいらないはずだ)
王として。
夫として。
自然な流れだと、
疑わなかった。
「今日は、
長い一日だった」
「休む前に……
顔が見たかった」
さらに一歩。
ローザリアは、
半歩、下がった。
それは、
拒絶ではない。
ただ、
距離を保つ動き。
「……アレクシオン」
呼び方が、
彼を止めた。
「今夜は……
少し、待ってください」
声は、
震えていない。
謝罪も、
拒絶もない。
ただ、
線を引く言葉。
「……待つ?」
アレクシオンの眉が、
わずかに動く。
「どうして?」
問いは、
穏やかだった。
だが、
答えを想定していない。
「夫婦だ」
「今日、
王と王妃になった」
事実の列挙。
彼の中では、
すべてが正しい順番で
並んでいる。
ローザリアは、
胸に手を当てた。
昼から続く、
あの温もり。
失いたくない、
確かなもの。
「……今は」
言葉を選ぶ。
理由は、
まだ言えない。
言ってしまえば、
世界が変わってしまう。
「今は、
受け止めきれません」
それは、
拒否ではない。
でも、
許可でもなかった。
沈黙が落ちる。
アレクシオンは、
彼女を見つめた。
困惑ではない。
怒りでもない。
(……慎ましい)
そう解釈する。
(……王妃らしい)
だから、
少しだけ、
時間が必要なのだと。
「分かった」
声は、
穏やかだった。
「今日は、
ここまでにしよう」
「無理は、
させない」
その言葉に、
ローザリアは
小さく息を吐いた。
だが――
その安堵の奥で、
彼の思考は
別の形を取り始めていた。
(……時間はある)
(……整えていけばいい)
王として。
夫として。
世界は、
正しい位置に
戻るはずだ。
「……おやすみ」
「おやすみなさい」
扉が閉まる。
ひとりになった部屋で、
ローザリアは
そっと腹部に手を当てた。
(……守る)
この夜、
二人は同じ言葉を
胸に抱いていた。
だが――
その意味は、
まったく違っていた。
(第44話・了)




