沈黙の朝
朝の鐘が、
王都に響いた。
いつもと同じ音。
いつもと同じ時間。
けれど――
その朝、
ローザリアは食卓に現れなかった。
王宮の朝は、
正確だった。
決まった時刻に、
決まった席に、
決まった者が集う。
聖女であり、
王族であるローザリアが、
それを欠かすことは、
これまで一度もなかった。
「……姉さん?」
リリシアンは、
空いた席を見つめ、
小さく声を漏らした。
侍女が、
戸惑いがちに答える。
「まだ、
お部屋から出られておりません」
それだけの言葉。
理由も、
説明もない。
リリシアンの胸に、
嫌な感覚が走る。
(……昨夜)
思い出そうとして、
思い出せない。
式は、
無事に終わった。
祝福も、
歓声も、
すべて揃っていた。
――なのに。
「……行くわ」
返事を待たず、
席を立つ。
回廊を進む足取りは、
自然と早くなっていた。
扉の前で、
一度だけ呼吸を整える。
「姉さん」
ノックは、
いつもより静かだった。
返事がない。
もう一度、
名を呼ぶ。
「……姉さん?」
しばらくして、
ようやく扉の向こうで、
気配が動いた。
鍵が外れる音。
扉が、
わずかに開く。
そこにいたローザリアは、
きちんと身なりを整えていた。
髪も、
衣も、
乱れてはいない。
「……どうしたの、リリィ」
声も、
いつも通り。
それなのに。
リリシアンは、
一歩も中へ入れなかった。
(……違う)
昨日までと、
何かが、
決定的に違う。
「……朝食に来ないから」
言葉を選びながら、
そう告げる。
「心配で」
ローザリアは、
ほんの一瞬だけ、
視線を伏せた。
それは、
気のせいだと
言い切れないほどの、
短い間だった。
「……ごめんなさい」
謝る必要のないことを、
謝る。
その仕草が、
胸を締めつける。
「少し……
休みたかっただけよ」
理由は、
整っている。
だが――
納得はできない。
リリシアンは、
一歩、踏み出した。
「姉さん」
低い声。
「……大丈夫?」
ローザリアは、
すぐに答えなかった。
沈黙。
その沈黙が、
何よりも雄弁だった。
やがて、
ゆっくりと微笑む。
「……大丈夫よ」
嘘ではない。
だが、
真実でもない。
それが、
はっきりと分かってしまった。
(……閉じてる)
守っているのではない。
耐えているのでもない。
閉じている。
外に出ないように。
誰も触れないように。
「……分かった」
リリシアンは、
それ以上、踏み込まなかった。
今、
踏み込めば、
壊してしまう気がしたから。
「あとで、
また来るね」
扉を閉める。
回廊に戻った瞬間、
胸の奥に、
冷たい確信が落ちた。
(……昨夜、
何かがあった)
だが、
それが何かは、
まだ分からない。
分からないからこそ、
目を逸らしてはいけない。
遠くで、
人々の声がする。
「新婚の朝だ」
「聖女様も、
お疲れなのだろう」
善意の言葉。
正しい理解。
だが、
リリシアンは、
そのどれにも頷けなかった。
姉の沈黙は、
休息ではない。
それを、
はっきりと感じていた。
朝は、
始まっている。
だが、
ローザリアの時間だけが、
昨夜に置き去りにされたままだった。
(第36話・了)




