触れてはいけない夜
夜は、
音もなく王宮を包んだ。
祝福の声も、
白い花びらも、
遠くへ退き、
室内には灯りと、
二人の気配だけが残る。
ローザリアは、
窓辺に立っていた。
薄い夜着が、
灯りを受けて、
静かに揺れる。
背後で、
扉が閉まる音。
振り返らなくても、
誰がいるのかは分かっていた。
(……義務)
王族として。
聖女として。
妻として。
果たすべき役目が、
ここにある。
「……ローザリア様」
呼ばれ、
ゆっくりと振り返る。
アレクシオンの視線は、
抑えきれない熱を帯びていた。
祝福の中で、
形を保っていたものが、
今、解け落ちたような。
距離が詰まる。
最初の口づけは、
確かめるようだった。
触れる前に、
ほんの一瞬の間があり、
唇が重なる。
――伺うような、
ためらいのある温度。
ローザリアは、
それを受け入れた。
これは、
役目だ。
そう思えば、
心を閉じられる。
だが、
二度目は違った。
間が、ない。
唇が離れる前に、
次が重ねられる。
さっきまでの躊躇は消え、
欲望が弾けたかのような速さで、
距離が奪われた。
息を整える暇もなく、
一気に踏み込まれる。
肩に、
強く体重がかかる。
視界が揺れ、
背が寝台に触れた。
呼吸が、
追いつかない。
首筋に、
熱を感じた、その瞬間。
胸の奥で、
皮肉なほど鮮やかに、
別の時間が蘇った。
――ヴェルゼリオ。
急がれることのなかった夜。
触れる前に、
必ず間をくれた手。
求め合っているはずなのに、
一方的になることのなかった距離。
終わりを知っていたからこそ、
確かめるように、
大切に重ねた時間。
それと――
あまりにも、違う。
今は、
息を奪う速さで、
すべてを手に入れようとする動き。
思い出したくなかった名が、
首筋に残る熱とともに、
心に浮かんでしまった。
(……違う)
その違いに、
身体が先に反応した。
思わず、
声が漏れる。
「……待って、ください」
その一言で、
動きが止まった。
アレクシオンは、
見下ろしたまま、
理解が追いついていない表情を浮かべる。
「……どうかなさいましたか」
声は、
まだ丁寧だった。
ローザリアは、
胸に手を当て、
息を整える。
責めないように。
傷つけないように。
「……すみません」
言葉を選ぶ。
「今日は……
少し、疲れてしまって」
沈黙が落ちる。
やがて、
アレクシオンは柔らかく息を吐いた。
「……そうでしたか」
「それは、
私の配慮が足りませんでしたね」
体を起こし、
距離を取る。
その仕草は、
穏やかで、
優しかった。
「時間は、
これからいくらでもあります」
「焦る必要はありません」
その言葉に、
ローザリアは何も答えなかった。
――拒まれたとは、
思っていない。
それが、
はっきりと分かってしまったから。
(第35話・了)




