触れない優しさ
雨は、降らなかった。
けれど、
空気はどこか湿っていた。
城の回廊を渡る風が、
衣の端を揺らす。
ローザリアは、
窓辺に立っていた。
遠くを見るでもなく、
足元を見るでもなく、
ただ、そこにいる。
「……ここは、
雨の音がよく響く」
背後から、
ヴェルゼリオの声がした。
振り返ると、
気づけば当たり前になっていた距離に、彼が立っていた。
一歩も、近づかない。
「雨は、嫌いですか」
ローザリアが、
静かに尋ねる。
「嫌いではない」
短い答え。
「降れば、
城は静かになる」
「……いつも以上に、ですか」
「ああ」
それ以上、
言葉は続かない。
沈黙が、
自然に二人を包む。
ローザリアは、
指先を見つめた。
白く、
何も持っていない手。
祈るためでも、
癒すためでもない。
ただの、
手。
(……触れたい、とは)
思わなかった。
思ってしまったら、
越えてはいけない線が、
すぐそこにあると分かっていたから。
「……聖女なのに」
ぽつりと、
またその言葉が落ちる。
ヴェルゼリオは、
彼女を見ない。
見ないまま、
答える。
「それを、
やめろとは言わない」
ローザリアは、
少し驚いたように顔を上げた。
「……では」
「忘れろとも、
捨てろとも言わない」
彼の声は、
低く、穏やかだった。
「だが――」
ほんの一拍。
「この城では、
それが理由で、
何かを奪われることはない」
ローザリアは、
その言葉を噛みしめる。
守られている、と感じるのは、
違う気がした。
これは――
侵されないという感覚。
「……ありがとうございます」
自然と、
そう言っていた。
ヴェルゼリオは、
答えない。
代わりに、
ほんのわずか、距離を詰める。
触れない。
触れられない。
だが、
同じ温度を感じる距離。
ローザリアの呼吸が、
少しだけ速くなる。
それに気づいて、
ヴェルゼリオは止まった。
(……優しい)
その優しさが、
胸に沁みる。
触れないことを選ぶ優しさ。
奪わない優しさ。
「……全部、
俺のせいにしてしまえ」
不意に、
彼は言った。
ローザリアは、
息を呑む。
「魔王に攫われ、
城に閉じ込められた」
「情が移ったとしても、
それは――
環境のせいだ」
ローザリアは、
しばらく黙っていた。
雨の匂いが、
わずかに強くなる。
やがて、
首を横に振る。
「……いいえ」
声は、
はっきりしていた。
「それでは、
あなたが背負うことになります」
ヴェルゼリオは、
何も言わない。
「これは、
私の選択です」
ローザリアは、
彼を見つめる。
「聖女として、
王女として、
生きようとしている私が――」
「それでも、
あなたとここにいることを、
選んでいます」
静かな宣言。
逃げでも、
甘えでもない。
ヴェルゼリオの瞳が、
わずかに揺れた。
「……重いな」
「はい」
ローザリアは、
小さく笑った。
「それでも、
受け取ってください」
彼は、
一歩下がった。
近づかない。
だが、
拒まない。
「……分かった」
それだけ。
二人の間に、
見えない境界線が引かれる。
越えない。
でも、
離れない。
遠くで、
微かな振動が走る。
城の外。
「……近づいているな」
ヴェルゼリオが、
低く言う。
ローザリアは、
何も聞かなかった。
聞かなくても、
分かっていたから。
夜は、
まだ続いている。
けれど――
この距離が、
いつまでも保てるものではないことを、
二人とも理解していた。
それでも、
今は。
触れないまま、
ここにいる。
それが、
二人にとっての優しさだった。
(第21話・了)




