一章 十一話 改名
永仁6年 (1297) 2月 一色頼行
「可愛いんだよ、可愛いんだけどさぁ」
今年の一月の始めごろ、俺の弟が生まれた。この子は一色次郎と名付けられた。
普通ならかなり歳が離れた弟可愛くて仕方ないはずなのだが、俺は複雑な心境だった。なぜなら私は庶子、この子は嫡子なのである。
現代なら、それがどうしたとでもいうようなものかもしれないが、この鎌倉時代後期はほかの時代に比べても正室との間に生まれた子が家督を継ぐことが多かった。
もともと惣領が亡くなった後の相続も分割相続が基本だ。
分割相続は、何かのルールに基づいて行われているものではなく、武士たちの間で、自然と分割相続の習慣が現れてきた。
多くの武士がひしめいていた鎌倉時代初期は未開の地が多く、開墾するのに多くの労働力を必要としていました。
さらには、平安時代末期頃から武士たちによる所領争いが激しくなり、土地を守るための兵力を増強する必要にも迫られていました。
だが、このころになると開発がひと段落し土地不足になっていった。これにより嫡子相続が盛んになる。
さらに俺にとって不幸なことがある、母の後ろ盾がない、そして一色家は小さいのだ。ここから導き出されるのは、家督の相続は不可能、分家を作るほど余力はない、よって婿入りか、養子にならなければ路頭に迷うことになってしまうのだ。
「戦でも起きたらなぁ」
永仁6年 (1297) 3月 一色公深
三河は膠着状態から動こうとしていた。
吉良荘に私は訪れていた。
「吉良殿、いったいどうなされましたか⁉」
「ここだけの話ぞ、守護が倒れたらしい」
「誠か!」
「屋敷に入れておる、女中からの話じゃ、裏も取ってある」
「なんと、では一体どうなされますか?」
吉良殿はニヤリと笑い、
「今噂を流しておる、守護が亡くなったとな」
「しかしまだ亡くなったわけではないのでは?」
「なぁに、一度味方に付ければこっちのものよ、館を取り囲んで皆で武装し喪に服せばいいのだよ、それにこの前の工事にもかかわった、宗片殿にこれまでの問題行動をまとめて送りつけた、我らが官軍よ」
そういうと彼は高笑いをし始めた。
下卑た笑みは気持ち悪かった
永仁6年 (1297) 5月 一色頼行
この一か月は激動のひと月と言っていいだろう。
この月の初めに守護が倒れたという噂が流れ始め、吉良殿が書状を三河の豪族に送り付け、味方につけるそして葬式をすると偽り館の周りを兵で固め、ありったけの坊主を集め、お経を三日三晩唱えさせた。
これにより、守護の体調は見る見るうちに悪化していき、そこに止めとして、今までの守護なら許されてきた問題行動を幕府が取り上げ、これにより免職という罰を食らい、守護は本当に亡くなってしまった。
代わりの守護として吉良殿が就任し、三河守護吉良貞義が誕生した。
武を直接行使せず、威嚇としてここまでうまく使ったことにより、三河は内戦がなく、好景気を保ったまま吉良政権に移った。
そして吉良殿が最初に行ったのが、一族の血縁強化である。実は、一色家は真っ先に吉良側についたことにより、褒美をもらいだいたい五万石ほどになった。
大きくなった一色、守護になった吉良、本家足利の間で三国同盟のようなものを結んび、その証として、私一色頼行は、足利家の養子となり、足利頼行となった。
ちなみに、宗方殿から幕府に出仕しないかと誘われたが、かなり悩んだ挙句、お断りした。
正直、北条家の勢力が強すぎて、あんまり出世できそうにないんだよな。
こんにちは梟町です。
今回の話どうだったでしょうか?
ちょっと、どこをどう詳しく描写したらいいとかわかんないので、いろんな意見が欲しいです。
今回は俳句どこから調べたらいいかわかんなかったのでなしです。




