2話「堕ちた先は、音が魔法に変わる世界!?」
——目を開けると、世界が白かった。
光が全方向から降り注ぎ、空も地面も存在しない。まるで、どこまでも広がる霧の中に閉じ込められたようだった。
ユナは瞬きを繰り返したが、何も変わらない。
(……ここ、どこ?)
さっきまで、確かにスタジオで演奏していた。
最後の練習。解散前の演奏。終わるはずだった音楽。
それが、なぜ——?
ユナはギターの感触を確かめた。間違いなく、手の中にある。
けれど、それ以外は何もない。
音も、匂いも、重力すらも感じない。
まるで世界の概念そのものが消えてしまったかのような感覚。
ユナは無意識に息を呑んだ。
音がない、世界がない
ユナは口を開いた。
「……誰かいる?」
——無音。
耳を疑う。
自分の声が、まったく聞こえなかった。
喉が震え、口が動いたはずなのに、音がしない。
怖くなって、ギターの弦をかき鳴らしてみる。
——何の音も響かない。
「っ……!」
心臓が早鐘を打つ。
ユナにとって、音楽は生きる証だった。
兄のギターに憧れ、手にした楽器。
仲間たちと音を合わせ、形にしてきたバンドの音。
それが、いま——完全に無くなった。
ユナは、音のない世界で、自分が存在しているのかすら分からなくなる。
(これって……夢? それとも、死んだ?)
ユナは必死に考えるが、答えは出ない。
そのとき——
白の世界に落ちる“黒”
視界の端に、影が差した。
真っ白な空間の中に、突如として現れた黒いひび割れ。
それはまるで、空間そのものに傷がついたかのようだった。
最初は小さかった。髪の毛一本分ほどの、かすかな傷。
だが、それがみるみるうちに広がっていく。
ピキ……ピキ……ッ
まるでガラスが砕けるような音が、この無音の世界で唯一響いた。
ユナは息を呑む。
その音が、どれほど異質なものか、本能が察知していた。
(ヤバい……何か来る……!)
全身の毛が逆立つような感覚。
心臓が警鐘を鳴らしている。
だが、ユナは動けなかった。
目の前で起こる異常な現象を、ただ呆然と見つめるしかなかった。
黒のひび割れの向こう側
ひび割れは広がり、ついには大きな裂け目となる。
その向こうに——何かが見えた。
青い空。緑の大地。白い雲。
一瞬、それは見慣れた地球の景色に思えた。
しかし、すぐに違うと分かる。
——空に、二つの月が浮かんでいた。
ユナは息を呑む。
(……え?)
頭が追いつかない。
ここは、どこなのか。
裂け目の向こう側に広がる世界は、明らかに「自分がいた場所」とは違っていた。
それは、もしかすると——
「向こう側」へ引きずり込まれる
——突然、重力が戻った。
ユナの身体が、ずるっと下に引っ張られる。
「え、ちょっ……!? 何これ、ヤバ……!」
ようやく声が出た。
音が戻った。
それは、無音の世界が終わりを迎えた証拠だった。
「待って、待って!!」
ユナは必死にギターを抱え、足を踏ん張ろうとする。
しかし、支える地面など存在しなかった。
裂け目の向こう側へ、ユナの身体は吸い込まれていく。
「いや、マジで待って!!!」
叫びながら、ユナは無理やりギターのストラップを掴んだ。
何かにしがみつこうとするが、掴むものがない。
一瞬、視界が歪む。
めまいがする。
そして——。
ユナは、光の海から放り出された。
真っ逆さまに、裂け目の向こう側へ——。
そこは、見知らぬ空だった。
ユナは、重力に引っ張られる感覚を全身で味わっていた。
「え、ちょ、待って、これヤバいやつ!!」
喉から悲鳴が漏れる。
風が容赦なく顔を叩きつけ、耳元で唸りを上げている。髪が激しく乱れ、ギターのストラップが肩に食い込んだ。
(落ちてる……!? え、空!?)
目を見開くと、視界が一気に広がる。
——青空。
白い雲が遠くにたなびいている。太陽はさっき見たものよりも、少し赤みを帯びていた。
さらに、空の端には二つの月。
ひとつは銀色で、もうひとつは青白く光っていた。
ユナは、肺が絞られるような感覚に陥った。
(ここ、どこ!? いや、それ以前に、私……死ぬ!?)
加速する落下速度。下を見れば、大地がどんどん近づいてくる。
見慣れない地形。広大な草原、遠くに見える城壁都市。そして、点のように見える何かの群れ。
ユナの脳が恐怖で麻痺しかけたそのとき——
「ユナァァァァァァァァ!!」
叫び声が響いた。
その声に、ユナはハッとして視線を動かす。
すると——すぐ近くに、見慣れた影が三つ。
同じように空を落ちている。
仲間たちとの墜落
ユナのすぐ右側。桐島レンが、ベースケースを抱きしめながら必死に足をバタつかせていた。
「なにこれ!? どういうこと!?!? なんで私、空落ちてんの!?」
レンは、普段は冷静なのに、今は完全にパニックだった。
そりゃそうだ。
彼女は、この世で何よりも高所が苦手だった。
「嫌だ嫌だ嫌だぁぁぁぁ!!! マジ無理無理無理ぃ!!!」
「落ち着けレン!! 私も無理だけど!!」
ユナが叫び返す。
レンは普段、クールを装っているが、極端に苦手なことがあるとすぐに取り乱す。その典型が、今目の前で繰り広げられていた。
——そして、もう一人。
左側には、ドラムスティックを必死に握りしめながら、全身を硬直させている藤堂ミサキ。
彼女は、歯を食いしばりながら叫んだ。
「いやいやいやいや、マジでヤバいって!! なんかパラシュートとかないの!? ってか、なんで私スティックだけ持ってんの!? ギターとかベースはしっかり持ってるのに!?」
「知らねぇよ!!」
ミサキは、普段は豪快な性格だが、今ばかりはどうしようもない。完全に運に身を任せるしかない状況が大嫌いだった。
「クソッ!! どうすんのこれ!? マジで死ぬ!? 死ぬやつ!? ねぇ、死ぬやつぅぅ!?!?」
叫びながら、無意味に手足をバタつかせる。
——そして、三人の中で最も異常だったのは、エリカだった。
ユナのすぐ近く、一ノ瀬エリカは、なんと——
ほぼ無表情で落下していた。
まるで何かを考えているかのように、冷静に空を見つめている。
「……」
「エリカ、なんか言えよ!!」
ユナが叫ぶと、エリカはゆっくりと視線をユナに向けた。
そして、たった一言。
「……落ちてるね」
「見りゃ分かるわぁぁぁ!!!」
もはや、この状況でその感想はおかしい。
「ってか、お前なんでそんな冷静なの!? 落ち着いてる場合じゃなくない!?」
「……落ちたらどうなるか、考えてただけ」
「考えた結果どうなるんだよ!?」
「……普通に、死ぬね」
「それが結論かよ!? もうちょい希望を持て!!!」
ユナが半泣きになりながら叫ぶと、エリカは静かにギターケースを胸に抱えた。
「でも、まだ落ちる途中」
「だから何!?」
「……だから、どうにかなるかもしれない」
「どうにかならなかったら!?!?」
「そのときは、ユナがどうにかして」
「無理無理無理無理無理無理無理!!!」
ユナの絶叫が、空に響く。
だが、そのやり取りをしているうちに——彼女たちは着実に地面に近づいていた。
そして、目を凝らすと、下には何かがいた。
着地点の異変
「ねぇ、ユナ……」
レンが震える声で呟いた。
「下……あれ、人?」
ユナはハッとして目を凝らした。
確かに、下には人の姿が見える。
剣を構えた兵士たちが、何かに向かって並んでいた。
その先にいるのは——
「……え、魔物?」
巨大な黒い影が、兵士たちを威嚇するように唸っていた。
牙を持ち、獣のような姿をした怪物。
「ねぇ、もしかしてさ」
ミサキが青ざめた顔で呟いた。
「……私たち、あの真上に落ちてない?」
「…………」
ユナは、目を見開いたまま、何も言えなかった。
彼女たちは今、戦場のど真ん中に落下しようとしていた。
「ユナァァァァァァァ!!!」
レンの絶叫が風に引き裂かれながら響く。
ユナは全身にまとわりつく風圧に耐えながら、必死に身体を捻った。周囲を見回し、落下している仲間たちを確認する。
レンはベースケースを抱えながら、パニック状態で足をバタつかせていた。
ミサキはスティックを両手で握りしめ、完全に硬直している。
エリカは、まるで何かの観察者のように落ち着き払った表情で、ギターケースを抱えたまま静かに落下していた。
(こいつら全員、まともじゃない……!)
いや、そんなことを考えているユナ自身も、この異常事態をまともに受け止められているとは言えなかった。
「な、なにこれ!? どういうこと!?」
レンの声が震えている。彼女は冷静な性格に見えて、こういう突発的なアクシデントには弱い。特に、「自分の意思でどうにもならない状況」が最も苦手だった。
その点、ミサキは違う。彼女はどんな場面でも感情を隠さないし、やばい時はやばいとはっきり言うタイプだった。
「ねぇ、誰か説明して!! なんで私たち、こんな空から落ちてるの!?!?!?」
しかし、今の彼女の声には、普段の豪快さがなかった。いつもは適当に流したり、冗談めかして言うようなことも、今はそうはいかない。
(そりゃそうだ、こんな状況でふざけてられるわけがない)
ユナは必死に頭を回転させるが、答えは見つからない。
エリカがポツリと呟いた。
「……スタジオから飛ばされた?」
「いや、そんなの分かってるわ!! その先の話!! なんで異世界っぽいところにいるのかって話!!」
ユナが叫ぶと、エリカは「異世界」という言葉に眉をひそめた。
「……異世界、か」
「違うの!? だって、空に月二つあるじゃん!」
「確かに……」
エリカは少し考えたあと、静かに頷いた。
「つまり、私たちは異世界転生……いや、転移?」
「いやいやいや!! 転生ってことは死んでるじゃん!! 私、まだ死んでないよね!?」
レンが半泣きになりながら叫ぶ。
「転移でもなんでもいいけどさ!! それよりも!!」
ミサキが叫びながら、指を差した。
「地面、近づきすぎじゃね!?!?!?」
その言葉に、全員が下を向いた。
——そこには、地面と、そして……人々の姿があった。
着地点の異変
「ねぇ……あれ、人間……?」
レンが震えた声で呟く。
目を凝らすと、そこには剣と鎧を身に着けた集団がいた。
兵士たちだった。
彼らは長剣や槍を手に、何かと対峙していた。
「……うそ、戦ってる?」
ミサキが呆然とした声を漏らす。
彼女たちの視線の先——そこには、巨大な影があった。
全身を黒い鱗で覆われた、牙をむき出しにした魔物。
その巨体は、並ぶ兵士たちをはるかに超えていた。
「待って待って待って、なにあれ!? あのモンスターなに!?」
「……おそらく、異世界だから、魔物……」
エリカが冷静に答える。
「いや、異世界って決めつけるのもどうなの!?」
「普通に考えて、地球にあんなのいないでしょ」
「た、確かに……!」
レンが顔を青ざめさせる。
しかし、そんな会話をしている間にも、彼女たちはその魔物と兵士たちのど真ん中へと落下し続けていた。
「ねぇ……もしかしてさ」
ミサキが青ざめた顔で呟いた。
「私たち、あの魔物の真上に落ちてない?」
「いや、ちょ、ちょっと待って!?!」
ユナが必死に体勢を立て直そうとするが、どうすることもできない。
「やばいやばいやばい!!!」
ユナは空中で必死に手足を動かしたが、重力には逆らえない。
落下速度はますます上がり、すぐ目の前には巨大な魔物の背中が迫っていた。
黒い鱗が鈍く光を反射し、筋肉のうねりが見て取れる。背中の中央には、長く鋭利な棘のような突起が並んでいた。
「おい、あれに落ちたら終わるぞ!!」
レンが叫びながら、必死にベースケースを盾のように構えた。
「そんなこと言われなくても分かってる!!!」
ユナが絶叫する。
「何か掴めるもの——いや、ねぇよな!? これどうすんの!?」
ミサキが必死にスティックを握りしめ、空中でバタバタと暴れる。
エリカは冷静にギターケースを胸に抱えたまま、すっと目を細めた。
「……落ちるね」
「だからそれは分かってるっての!!!」
落下の勢いのまま、ユナたちは魔物の背中へと激突した。
衝撃の瞬間、そして生存
ドガァァァァァァァン!!!
衝撃が全身を貫く。
ユナは息が詰まり、一瞬だけ意識が飛んだ。
(……やば、死ぬ……?)
脳裏をよぎった瞬間——奇跡が起こる。
魔物の背中の棘が、衝撃を吸収するようにしなり、跳ね返した。
「うおおおおおお!!?」
ユナは空中に再び弾かれ、今度は地面に向かって投げ出された。
(いったぁぁぁ!! でも、まだ死んでない!?)
視界の端で、レンが地面を転がる。
エリカは器用に着地し、膝をついて衝撃を逃していた。
ミサキは完全に制御不能のまま、ゴロゴロと土煙を上げながら転がっていく。
そして——。
「痛ぇぇぇぇぇぇ!!!!」
ミサキが転がった先には、戦闘態勢をとっていた兵士たち。
「な、なんだ貴様ら!!??」
「上空から……降ってきた!?」
兵士たちは突然降ってきたユナたちを見て、完全に混乱していた。
兵士たちの動揺、異世界の現実
ユナは膝をつき、荒い息を吐く。
痛みはあるが、骨が折れた感じはない。奇跡的に生きていた。
(落下して無事って……どういうこと!?)
そう思いながら周囲を見渡すと、十数人の兵士たちが、剣や槍を持って自分たちを囲んでいた。
「貴様ら、何者だ!?」
全身を鎧で固めた隊長らしき男が、鋭い声で問いかける。
ユナはとっさに答えられなかった。
何をどう説明すればいい?
——私は、さっきまで日本の地下スタジオにいて、突然空から落ちてきたんです。
そんなこと言っても、信じてもらえるわけがない。
「……」
ユナが言葉を失っていると、横からレンが助け舟を出す。
「え、えっと……私たち、通りすがりの……?」
「通りすがりの何だよ!!?」
ミサキがすかさずツッコむ。
「上から降ってきたやつが通りすがりなわけねぇだろ!!!」
「だ、だって、どう説明すればいいのよ!!!」
兵士たちはますます困惑していた。
その中で、エリカだけは静かに周囲を観察していた。
「……状況、分かった」
「何が?」
「見て」
エリカが顎で指した方向を見て、ユナは息を呑んだ。
先ほど彼女たちが落ちてきた魔物。
あの巨大な獣が、こちらを見ている。
そして、唸り声を上げた。
「おいおいおいおい……」
ミサキが真っ青になりながら呟く。
「これってさ、つまり……私たち、完全にあいつの敵認定されてね!?!?」
「いやいやいや、勘弁してよ!!」
レンが悲鳴を上げる。
兵士たちも慌てて武器を構え直す。
ユナは、汗を滲ませながらギターを強く握った。
「どうすんの……?」
「どうするって、戦うしかないでしょ……」
「いや、でも、どうやって!?」
その時——
ユナの手の中のギターが、微かに光を放った。
異世界の力、そして戦いの始まり
「……え?」
ユナは、ギターを見下ろす。
すると、弦がわずかに光を帯びているのが見えた。
それは、今まで見たことのない現象だった。
「ユナ、それ……」
エリカが低く呟く。
ユナは思わず、ギターのネックを握り直した。
「……分かんないけど、もしかしたら」
彼女の頭の中に、一つの考えがよぎる。
(もしかして、このギター……この世界の何かと関係してる?)
ユナは、試しにギターの弦を弾いた。
——その瞬間。
閃光が走った。
音が空間を震わせた。
兵士たちが驚愕し、魔物が一瞬ひるむ。
ミサキ、レン、エリカも言葉を失った。
ユナは、自分の指先から放たれた「音」の余韻を感じながら、喉の奥が震えるのを感じていた。
(これ……なんだ?)
分からない。でも——
確かに、音が魔法になった。
ユナは、ゆっくりと顔を上げる。
目の前には、牙を剥いた魔物。
その背後には、驚愕する兵士たち。
そして——横には、仲間たち。
ユナは、ギターを強く握りしめた。
「……戦えるかもしれない」
その言葉を聞き、レンが苦笑いを浮かべる。
「マジかよ……」
ミサキはスティックを構え、エリカは無言でギターを肩に担いだ。
そして——
異世界での、最初の戦いが始まる。