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1話「終わるはずだった音、鳴り響く未来」

湿った空気が肌に張り付く。壁には数年前のライブポスターが無造作に貼られ、くたびれたスピーカーからはかすかにハウリング音が漏れていた。地下スタジオの床は、無数の足跡とアンプの跡で傷だらけだ。


「NO FUTURE」——それが、彼女たちのバンドの名前だった。


「はー……」


ミサキがスティックを指先で回しながら、長いため息をつく。いつもの癖だった。スタジオの隅で体育座りをしているレンは、ベースのネックを見つめたままピクリとも動かない。エリカは無言でチューニングを続け、ユナはピックを指で転がしながらアンプの電源が入っていないことに気づき、なんとなくスイッチを入れた。


誰もが言葉を発しなかった。


それぞれが思いを抱えていた。


このスタジオでの最後の練習。


この場所には思い出が詰まっていた。結成当初は下手くそで、まともな演奏すらできなかった。スタジオ代を払うためにバイトを掛け持ちし、ライブハウスに出演するたびに「客がいない」と嘆いた夜もあった。それでも、楽しかった。


——少なくとも、最初の頃は。


天音あまねユナはブラウンの瞳を曇らせてギターのボディを撫でながら、今までのライブの光景を思い返していた。


彼女が音楽を始めたのは、兄の影響だった。幼い頃、ロック好きだった兄が弾くギターに憧れた。兄が家を出るときに「お前もいつか弾けよ」と言って置いていったボロボロのギター。それが、ユナのすべてだった。


バンドを始めたのも、何かを証明したかったからだ。自分には音楽があるんだ、と。


でも、その音楽で何も掴めなかった。


デビューできなかった。

ファンが増えなかった。

ステージに立っても、客はまばらだった。


その現実を、ユナは誰よりも知っていた。


「……やっぱ、解散って感じの音だな」


ミサキがスティックを弄びながら呟いた。ユナはギターの弦を軽く弾いたが、何も言えなかった。


藤堂とうどうミサキは、バンドのムードメーカーだった。見た目は金髪のボーイッシュで、口調はいつも軽い。けれど、彼女が一番メンバーのことを気にかけていた。誰かが落ち込んでいると、何気ない冗談で場を和ませようとする。


——でも、今日は違った。


ミサキの声には、どこか乾いた響きがあった。


「しゃーねぇよな、結局売れなかったし」


言い方は乱暴だったが、彼女なりの優しさでもあった。バンドを続ける理由を見つけられないことに、ミサキは気づいていた。


「……」


無言のまま、桐島きりしまレンは

ショートボブの髪を触りながらベースのヘッドを見つめていた。


レンは、メンバーの中で最も冷静だった。彼女のベースラインは、バンドの屋台骨だった。淡々としたプレイスタイルは、無駄がなくて、しなやかだった。


でも、レンが音楽を始めた理由は、どこか淡白だった。


「ただ、なんとなく続けてた」


そう言っていた。


音楽が好きだった。でも、それだけだった。音楽を仕事にしようとは思っていなかったし、バンドが成功しなくても別に構わなかった。


だから、解散も「仕方ないこと」として、静かに受け入れていた。


ただ、一つだけ気がかりだったのは——。


「……エリカ、何か言わないの?」


レンがボソリと呟く。


「別に」


一ノいちのせエリカは、黒髪を揺らしながらギターを調整する手を止めなかった。


彼女は無口だった。バンドの中で最も寡黙で、感情をあまり表に出さないタイプだった。けれど、誰よりも音楽に対して真剣だった。プロになりたかった。成功したかった。でも、その夢が叶わなかった。


エリカは、ユナとは違う意味で悔しがっていた。


「もう、いいでしょ」


それだけ言うと、エリカはピックを拾い、無造作に弦を弾いた。


音が、スタジオの空気を震わせる。


誰もが、それぞれの理由でバンドを始め、そして、同じようにバンドを終えようとしていた。



「……レクイエムみたいになれたらな」


ミサキがぼそりと呟いた。


誰もがその名前を知っていた。完璧な音楽、圧倒的なカリスマ性、誰もが惹かれるライブパフォーマンス——「レクイエム」は、ユナたちが目指していたバンドの象徴だった。


ユナはギターのストラップを握りしめたまま、静かに呟いた。


「クロエちゃん……」


その名前を口にした瞬間、幼い頃の記憶が蘇る。


——いつも一緒に歌っていた。

——二人で夢を語り合った。

——「私たち、いつか世界一の音楽を奏でようね」


けれど、クロエはいつの間にか遠い存在になった。ユナが届かないほどの高みへと登り、今や「レクイエム」のボーカルとして、圧巻の音楽を奏でていたが、突如として姿を消した幻のバンド。


(私たちは、あそこに行けなかった——)



「……じゃ、最後にやる?」


ユナが静かに言った。


返事はなかった。


だけど、レンがゆっくりとアンプのスイッチを入れる音がした。


最後の演奏が、始まろうとしていた。


——彼女たちは知らない。


この演奏が、すべてを変える運命の演奏になることを。



ユナがゆっくりと指を動かし、弦に触れる。


かすれた音がアンプを通じて響いた。


それは、いつもと変わらない演奏の始まりだったはずだった。


「NO FUTURE」の最後のオリジナル曲。


タイトルは決まらなかった。歌詞も未完成だった。


それでも、この曲は彼女たちが一緒に作った最後の証だった。


ユナが爪弾くコードの上に、エリカのリードギターが重なる。


レンのベースが、ゆるやかに鳴り響く。


ミサキのスティックがハイハットを叩き、リズムが刻まれる。


音楽が始まると、そこには言葉は必要なかった。


彼女たちにとって、音こそが会話だった。


だけど——その音は、どこかバラバラだった。


いつもの一体感がない。


リズムは合っている。コードも合っている。


でも、音が「離れて」いる。


それはまるで、バンドが解散することを示しているようだった。


——いや、違う。


彼女たちは、すでに「バラバラ」になっていた。


音楽は、もう響かない


ユナはギターを弾きながら、思った。


「……やっぱ、ダメだな」


自分たちの音が、心に響かない。


この曲を作ったのは半年前だった。


いつものスタジオで、深夜まで何度も繰り返し練習した。


最初は形にならなかった。AメロとBメロのつなぎがぎこちなくて、サビのメロディが弱いと何度もやり直した。


だけど、彼女たちはバンドを続けたくて、この曲を完成させようとしていた。


——「まだ、やれる」って思ってた。


でも、現実は違った。


ライブをやっても観客は増えなかった。


SNSに投稿しても、反応はほとんどなかった。


いつか有名になれるかもしれない——そんな幻想も、現実に押し潰された。


だから、レンが「もう解散しよう」と言い出したとき、誰も反対しなかった。


……それなのに。


今、ユナの指は震えていた。


「やっぱ、解散って感じの音だな」


ミサキの呟きが、やけに冷たく聞こえた。


心が乗らない演奏


レンは、ベースの指板を見つめながら、静かに弦を弾いた。


彼女にとって、音楽は「情熱」ではなかった。


ただ、好きだからやっていた。


プロを目指していたわけじゃないし、バンドを続けることに固執していたわけでもない。


でも、そんな自分が、最後の演奏をしている今——


胸の奥が、妙にザワつくのを感じていた。


(……なんで、こんな気持ち悪いんだろ)


バンドが終わることに、後悔はないはずだった。


でも、ユナの背中が、今にも折れそうなほど小さく見えて。


エリカの指が、ほんの少し迷っているのが分かって。


ミサキが、わざと軽口を叩いていることにも気づいて。


レンは、知らず知らずのうちに、ベースの音を強くしていた。


まるで、バンドが本当に終わってしまうことを拒むように。


未完成のままの曲


「もっと……カッコよく弾けば?」


突然、エリカが口を開いた。


ユナが驚いて彼女を見ると、エリカは真剣な表情をしていた。


「……何?」


「サビ。音が弱い」


「……」


ユナは何も言えなかった。


解散するのに、そんなこと言われても。


もう、この曲は完成しないのに。


でも、エリカは「未完成のままで終わること」に納得していなかった。


彼女は、心のどこかでこの曲を「完成させたい」と思っていた。


それは、まだバンドを終わらせたくないという証拠だった。


止まらないスティック


ミサキは、スティックを軽く回しながら、ユナとエリカのやり取りを聞いていた。


(……まだ、終わりたくないんじゃん)


ミサキは、そんな二人を見て思った。


本当に終わりなら、エリカは「音が弱い」なんて言わない。


レンだって、妙にベースを強く鳴らしたりしない。


ユナは未練を口に出さないけど、ギターを手放していない。


そして、自分は——


(こんな音で終わるの、気に食わねぇな)


ミサキは、スネアを一発強く叩いた。


それは、まるで「まだ終わりじゃねぇぞ」と言うように。


未練が弦に宿る


ユナはギターを持つ手に力を込めた。


「……もう一回、やる?」


ミサキが言った。


ユナがゆっくりと頷く。


エリカも黙って、ギターを握り直した。


レンは、ため息をつきながらも、ベースのボリュームを少しだけ上げた。


もう、バンドは解散する。


それでも、最後に「納得のいく音」を鳴らしたかった。


——知らない。


これが、運命の「始まり」になるなんて。




ユナはギターのネックを握りしめたまま、視線を落とした。


「……本当に、これで終わりなの?」


誰に向けた問いだったのか、自分でも分からない。


言葉が空気に溶ける。重たい沈黙が、スタジオを満たしていく。


ユナは指先でピックをくるくると回しながら、答えを待った。


だけど、誰も返事をしなかった。


だって、解散は決まっていた。


バンドを続ける理由はもうない。


それなのに、なぜ——心の奥がざわつくのか。


未練。


それは、バンドにしがみつくみっともない執着だった。


プロになる夢はもう破れた。音楽だけでは食っていけない。現実を見ろと、何度も言い聞かせた。


でも、どうしても……まだ弾きたかった。


「……終わりでしょ」


エリカが低く呟いた。


ユナは彼女を見た。


エリカはギターを膝に置いたまま、ネックを指でなぞっていた。


その表情はいつもと同じ、感情の読めない無表情。


でも、ユナには分かる。


——エリカは、未練がないわけじゃない。


エリカの夢、そして敗北


エリカは、バンドの中で唯一、本気でプロを目指していた。


高校生になってすぐ、彼女はプロのギタリストを目指して、猛練習を重ねた。


名の知れた音楽スクールに通い、セッションに参加し、音楽理論も学んだ。


ギターの技術なら、誰にも負けない自信があった。


でも——現実は甘くなかった。


オーディションを受けても、受けても、結果は「不合格」。


ライブをやっても、観客は増えなかった。


同世代のバンド仲間たちは、次々と有名になっていく。


エリカは、その背中を見送りながら、自分が取り残されていく感覚を抱えていた。


「才能がなかったんだよ、私には」


エリカは自嘲するように笑った。


その声に、レンがぼそりと呟いた。


「……そんな簡単に言うなよ」


レンの矛盾


レンは、ベースのボディを指で弾きながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「エリカはプロになりたかったんだろ」


「でも、なれなかった」


「だから終わるしかないって?」


レンは少しだけ眉をひそめた。


「なんか、違くね?」


エリカが目を細めた。


「違くないよ。結果がすべてでしょ」


「……」


レンは、それ以上何も言えなかった。


エリカの言うことは正しい。


夢が叶わなかったなら、諦めるしかない。


……でも、それを言葉にするのは簡単だった。


レンは音楽に対して情熱がなかった。


「なんとなく好きだから」という理由で、ベースを弾いてきた。


でも、それだけの自分でも、このバンドを終わらせることが、こんなにも喉に引っかかる。


結局、私はどうしたいんだ?


レンは自分の心の奥にある違和感の正体を探しながら、ゆっくりとベースの弦を弾いた。


その音が、静寂を揺らした。


ミサキの苛立ち


「……あー、めんどくせぇ」


ミサキがスティックを床に転がした。


「もうさ、やるの?やらねぇの?はっきりしてよ」


苛立ったような声だった。


ミサキは感情を隠さない。


でも、それはただの怒りじゃない。


「……どうせ終わるんでしょ?」


ミサキはそう言いながら、スティックを拾い上げた。


彼女は、何よりも「中途半端」が嫌いだった。


「やるならやる、やめるならやめる。それだけじゃね?」


ミサキはそう言ったけど、その目はどこか寂しそうだった。


本当は、まだ叩きたいんだろ?


ユナはそう思った。


ユナの決意


ユナは、ギターを持ち直した。


「……もうちょい、やろうよ」


ユナの言葉に、レンが驚いたように顔を上げた。


エリカは目を伏せ、ミサキはため息をついた。


「……まだやんの?」


ミサキの声には、ほんの少しだけ期待が混ざっていた。


「納得して終わりたいんだ」


「納得?」


「こんなバラバラな音で終わるのは、嫌だ」


ユナは、そう言った。


エリカが、ギターの弦を軽く弾いた。


「……最後まで、やる?」


レンが、アンプのボリュームを上げた。


ミサキが、スティックを握り直した。


——バンドは終わる。


それでも、最後に「納得のいく音」を鳴らしたい。


ユナは、ギターを弾く準備をした。


その瞬間——


時計の針は、0時に近づいていた。



「……しゃーねぇな、最後くらいはちゃんとやるか」


ミサキがスティックを握り直す。


スタジオにはまだ、沈んだ空気が漂っていた。でも、それは絶望ではなく、わずかな未練と期待の混じった、奇妙な空気だった。


レンが黙ってアンプのボリュームを少しだけ上げる。エリカがチューニングを再確認する。ユナがギターを構え、静かに弦を押さえた。


「……せーの」


ユナの小さな合図とともに、音が鳴った。


最後の演奏、そして違和感


ユナのギターが響く。エリカのギターがそれに絡み、レンのベースが重みを加える。ミサキのドラムが、それらを支えていく。


最初は違和感があった。


でも——少しずつ、音がまとまり始めた。


これが最後の演奏だと分かっているからこそ、彼女たちは心を込めた。


何も考えずに、ただ音に身を委ねる。


だけど。


何かが違った。


異様な空気


レンがふと、妙な感覚に気づいた。


(……なんか、音が、響きすぎてる?)


地下のスタジオは、吸音材が貼られていて、音の反響は抑えられているはずだった。


それなのに——今の演奏は、妙に広がりを持っていた。


まるで、ライブハウスの大きなホールで演奏しているみたいに。


ミサキも、違和感を覚えた。


(なんか……鼓膜に圧がかかってる?)


彼女は何百回、いや何千回もこのスタジオでドラムを叩いてきた。だから、音の跳ね返りや響き方には敏感だった。


なのに、今の音は違う。


まるで、音がどこか別の空間に吸い込まれていくような——


「ちょっと待って」


エリカが急に演奏を止めた。


「……なんか、おかしくない?」


彼女が指摘すると、他のメンバーも演奏を止め、スタジオの空気に耳を澄ませた。


——シーン。


一瞬の静寂。


その直後——


光の裂け目


——ゴゴゴゴゴゴッ!!!!


スタジオの床が震えた。


「え?」


ユナが驚いて後ずさる。


エリカがギターを抱え、警戒するように周囲を見渡す。


レンは、アンプが微かに揺れていることに気づいた。


ミサキは、スティックを握ったまま動けなかった。


「なに……これ?」


次の瞬間。


パキンッ!!


鋭い音とともに、スタジオの天井に亀裂が走った。


細かいヒビが、まるで蜘蛛の巣のように広がっていく。


——いや、違う。


ヒビじゃない、「裂け目」だ。


そこから、眩い光が漏れ出している。


「っ、なんだよこれ!?やばくね!?」


ミサキが叫ぶ。


レンは呆然と天井を見上げ、エリカは無言でギターを抱えたまま固まっている。


ユナは、恐る恐る裂け目に手を伸ばした。


——触れた瞬間、


視界が、一気に光に包まれた。


意識の崩壊


世界が揺れる。


ユナは、自分がどこにいるのか分からなくなった。


音が消えた。


重力がなくなったみたいに、体がふわりと浮く感覚。


レンが、声を出そうとしても、何も聞こえない。


ミサキが動こうとしても、体が言うことを聞かない。


エリカが必死に目を開けようとしても、視界は光で埋め尽くされていた。


時計の針、0時


——カチリ。


どこからか、時計の針が動く音がした。


最後にユナが見たのは、


スタジオの壁にかかった、0時ちょうどを指す時計だった。


そして、すべてが崩れ落ちた——。



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