空の法
空港を飛び立ち、一時間ほど経過しただろうか。
窓の外は変わり映えのない景色。それでいい。空の旅とはそういうもの。エンジンから火が噴いているのが見えたら卒倒ものだ。機内も平穏そのもの。耳障りな音はあるが
「うるさいんだよっ!」
「あ、なにするんですか!」
おれは腰を浮かし、突然したその声の方を向いた。
通路に立つ男。その横には泣き叫ぶ子供と、それをかばうように隣の席から身を乗り出す母親の姿があった。
「さっきからずっとビービービービーうるさいんだよ! おまけに足がこっちの席にガンガン当たってたんだよ!」
そうだ。確かにさっきからあの辺りで子供の泣き声がしていた。あの子で間違いないだろう。口ぶりからしてあの男は子供の前の席に座っていたようだ。ついに我慢の限界が来たというわけか。
「だ、だからって頭を叩くことないじゃないですかっ! け、警察に言いますよ!」
と、母親も負けじと応戦。当然だ。周りの乗客たちも男に対し、軽蔑するような眼を向けている。だが男は余裕そうだ。腕を組んでふふん、と笑い、いやなんだ? あの自信は……。
「はははは! 警察? いいか、今この機はなぁ、あの国の上空にいるんだよ! ん? はははは! 知らないって顔だな。無知だな無知! 最近分裂したあの国さ! 知らんはずがない、ニュースで見たことがあるだろう! この機もそうだが、戦争中で飛行機を飛ばせなかったのが、ようやくこうして旅行できるようになったわけだからな!」
確かに男の言う通りであった。内戦が勃発、いや内戦などとは生ぬるい。周辺諸国を巻き込んだ一大戦争により、この辺りは飛行機を飛ばせなくなった。それがようやく一応の収まりを見せ、ほとんど関係のないうちの国にまで漂っていた自粛ムードも終わり、最近こうしてなんの懸念もなく皆、我慢していた旅行を楽しめるようにと、まあ、おれは商談のため乗っているわけだが。
「で、その分裂した新しい国の法律さ。『子供を殴っても罪にはならない!』郷に入っては郷に従え。あんたらも旅行は初めてというわけじゃないだろう? 外国人だろうとその国の法律が適応されるんだ! わかったか!」
高らかに笑う男。いや、機内で何かトラブルが起きた際、適応される法はその飛行機が所属している国のもののはず。領空だろうと今、下にある国の法が適応されることなど……だが、ああも自信満々に言われるとそうなのかな、と思わないでもない。しかし、やっぱり無理が――
「いってぇ! 何すんだよクソオヤ、いってぇ! 痛いよ!」
「あなた、なにしてんの!」
「だ、だまれ! せ、せっかくの旅行なのに不貞腐れた態度でずっと、ため息なんか、家でも、もう、この、この、クソッ!」
急に揉めだしたのは中学生らしき男の子とその両親だろうか。相当鬱憤が溜まっていたのか真っ赤な顔、あるいは酒のせいかも知らないが、どうやらあの男に触発され、たかが外れてしまったらしい。
「いやっ! なに、やめてよ!」
「うるさい! せ、せ、洗濯物! お父さんと一緒は嫌って何だ! この! 一緒にお風呂入るって言え! 言えよ!」
「あの、さすがに自分の家の子を殴るのは気が引けるので……」
「ええ、お宅もですか。では交換して殴り合いましょう」
と、他の家族連れも不満が噴出したらしい。あちこちで悲鳴と怒声が鳴り響いている。機内という密閉空間のせいでこの空気が伝播するのが早いのか、それともこれまで旅行を、あの大混雑だった空港も我慢し、たまりにたまったストレスが発露の瞬間を求めていたのか何にせよ、おれには関係のないことか。どうせすぐに、ああ、ほら。彼女が、キャビンアテンダントがこの場を収め――
「きゃ! な、なにするの!」
「ふはははは! 今この機はさっきの国からその隣へと入った! そしてその国は女に何しようが罪には問われないんだよ! 男尊女卑最高! 神に感謝!」
と、これにはさすがのおれも完全に立ち上がり、そして気になっていたキャビンアテンダントを目で探した。
が、残念。早々に奥に引っ込んだらしい。乗客の女たちが次々と服を毟られ、機内はまるでお祭り騒ぎだ。
「あの、さすがに妻を犯すのは気が乗らないので……」
「ええ、お宅もですか。では交換しましょう」
乱交乱交。嬌声奇声が飛び交う。これはおれもぜひ参加したいが、しかし……
「全員静まれーい!」
約一名。胸を揉みしだく手以外、機内にいる全員が動きを止めた。
その理由。声を上げた男の手には銃があったのだ。
「今、この機はある国の上空へと入った。その国では殺人は合法……まあ、俺にはもともと関係ないが。あのクソのアメリカがしゃしゃり出てきたせいで我が国は分裂し、この機のように混乱を深めたのだ! この機を爆破し、声明を発表す、なんだ、なんだ、お前ら、やめろ、やめろ!」
「うーん、なんか騒がしいなぁ……もう着いたかぁ?」
「……まだですよ部長。もう少しお眠りになって、そうそう、あ、ちょっと前、通りますね、よっと」
おれは座席の上に立ち、肥満体の上司を跨ぎ、通路に出た。
上司はまた鼾をかき始めた。もうすぐ聞けなくなると思うと不思議と耳障りに感じないものだ。
おれはネクタイを緩め、拳銃争奪戦に参加するのだった。