螽斯
近場のコンビニで安い缶ビールを一本買い、公園のベンチに腰をかけていると、夜風が私にまとわりついた。私の今の心を投影するかのように冷え切っていて、音はしないのに妙にその存在を感じる。
周囲には誰もおらず、ただ私と闇夜が広がるばかり。
明日から休日だというのに、気分は晴れず、暗い。数年前、いや、あるいはもっと前からそんな気持ちだった。
……私は、何を求めて生きているのだろうか。
ぐちゃぐちゃとした欲と葛藤が私の中で蠢いている。単なる視覚だけでは捉えられぬそれは奇妙で恐ろしくあると同時に、生の指針を見出させる。思うに、この虫を皆飼っている。悍ましくも美しいそれは人の中で育ち、肥大化し、変容する。人それぞれその虫は異なり、勇気と逃亡をもたらす。一見、対照的なそれらが相互作用しながら我々は人生の選択をする。内在する虫が異なるのだから、その決断もまた人それぞれ異なるのだ。
そして、私にとってこの虫は螽斯であった。
勤勉な蟻とは対照的に楽な方に楽な方に楽な方にと流れてきた人生。
螽斯は怠ける勇気と嫌なことからの逃亡をもたらした。
それらは自分の首をゆっくりと絞めつけ、最低限の生活は出来るが、どれもが周りの平均以下という結果へと導いた。
努力と結果は完全には正比例しないものの、ある程度の相関関係がある。身をもってそれを実感している。
中学の頃は私より成績の悪かったAは、高校からの努力の積み重ねで今では高収入の所謂エリート。
入社したての頃ミスばかりだったBも、仕事に対する姿勢と実績が評価されて今となっては私の上司で、温かい家庭も築いている。
「どこでそんな差がついたんだろうか」
……本当は分かっていた。だけど、それを分かりたくはなかった。
受け入れてしまうと、自身の醜悪さを再認識することになるから。
下に見ていた人がどうして今では私より上なのかはもう、薄々察しはついていた。
大した才能もないと決めつけ努力を怠り、その癖して他人の才能ばかりが目に留まり、言い訳をして今日も生きる。
金も容姿も学も何もかもが下の上程度といった感じで絶望的という程ではないが、どれもが良いとは言い難い。
もう、初老を迎えるというのに一度も家庭を持ったことはなく、誇れることは何もない。
このように人生を空虚にしたのは他でもない自分だ。
才能ばかりを言い訳に最低限の努力しかせずにのらりくらりと生きてきた結果、漂着したのが今なのだ。
昔、ある教師は『人は皆、才能の鉱山を持っている。掘って磨かなければそれが石ころなのか、はたまた宝石なのかは分からない。そして、石ころでも良い加工を施せば道具になり、そこらの宝石より輝きを見せることだってある』だとか語っていたが、今になってその言葉が刺さる。
もしかしたら、私が石ころだと決めつけたものの中には宝石だってあったのかもしれない。石ころばかりでも便利な道具になり得たのかもしれない。
「もう、散々だ」
静寂の闇の中で、私の情けない声ばかりが嫌に響く。
真剣に話し合えるような友人も、家庭も何もない。
時折、自分の生に意義を見出せず、この生を終わらそうという考えが頭によぎるが、毎回そんな勇気も行動力もなく頭の中で留まる。
この国はある程度優しいから、怠けてばかりでも生かしてはくれる。螽斯のように冬を越えられない、なんてことは殆ど起こり得ない。
だが、心はやはりどの季節でも冷え切っていた。
「そろそろ飲むか……」
プシュと音が響く。
気を紛らわせる為に今日も酒精に溺れる。煩わしいことは考えたくない。これもまた、現実からの逃亡なのだろう。
酒の味が口に広がる。決して絶品という訳ではないが、気を紛らわせるには十分だった。
何より、私は酒を楽しんでいるのではなく、酔いに逃げているのだから、味なんて二の次だった。
つまるところ、酔えればなんでも良かったのだ。
「っはあ……」
ため息なのか、はたまた酒のせいなのか、妙に気分の落ち込んだ声が漏れる。
……分かってはいる。今から必死に努力すれば、この虚無な日常を変えられるかもしれないってこと。
だが、どうにも行動に移せない。行動の前に言い訳ばかりが邪魔をする。
未だに自分の下ばかりを見て安心し、この現状を嫌々受け入れている。
私の螽斯は育ちすぎたのかもしれない。
「ひっく」
酒の影響か、大きなしゃっくりが出た。
……嗚呼、なんだか頭が軽い。酔いが少しずつ回ってきたようだ。
今までの人生で幾重もの後悔を重ねてきた。その殆どが行動した結果の後悔ではなく、行動に起こさなかった故の後悔なのだから、本当に面白みがない人生なのだと我ながらに思う。
その上、私はこれからもそれを繰り返してしまうだろう。ある程度、今後するであろう後悔に気付いた上で行動できないのが私なのだ。
そして、決まってあの時に動いていればと過去ばかりを呪う。
今も、未来の自分がいつか呪うのだろう。
内なる螽斯は私が私である限り決して消えない。それが私の本質なのだから。
もし、消し去ってしまったのなら、もはやそれは別人だ。
そして、それは容易なことではない。大きな契機がない限り、そんなことは起こりえない。
だが、きっと変えることはできる。それを理解した上で変えようと行動に現れないのが私だ。
嗚呼、もう、認めてしまおう。抱えてばかりより、幾らか気が楽だろう。
私は、醜悪だ。
「……あ」
いつの間にやら、後悔をアテに飲んでいると、缶ビールの中身は空になっていた。
「……帰るか」
私は、慣れた足取りで独り帰路につく。
外は未だに闇が広がったままで、夜風はまだまだ止みそうにない。
もう深夜だからか不気味な程静かで、唯一聞こえるのはギィーという鳴き声だけだ。