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<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

私はお姉様から何も奪いません

作者: 三里志野

よろしくお願いいたします。

 大勢の方々が見ている前で、ルシアン王太子殿下はアデライドに冷たく言い放った。


「アデライド、私は君との婚約を破棄する。君はリゼットが平民育ちだからと彼女を虐げていたそうだな。そんな女を将来の国母にはできない」


 殿下の隣に立つのはアデライドの妹リゼット。アデライドに怯えるように殿下の腕に縋りついたリゼットの瞳は潤んでいた。


「お姉様、ごめんなさい。だけどあんなことまでされたらもう耐えられません」


 ふたりの周囲には宰相の息子パトリスや騎士団長の息子レイモンなど、ルシアン殿下の側近たちがふたりを守るように立っていた。彼らもアデライドに蔑みの視線を向け、あるいは罵る一方で、リゼットには優しい言葉をかけた。


 殿下はアデライドをまっすぐに見据えた。


「私はリゼットを新しい婚約者にする。アデライド、最後に何か言うことはあるか?」


 言いたいことは山ほどある。だけど、無様な真似はしたくない。

 それが将来の王妃として教育を受けてきたアデライドの、最後の矜持だった。


「ルシアン殿下、長い間お世話になりありがとうございました。今後は妹をどうぞよろしくお願いいたします」


 アデライドは微笑み、ゆっくりと淑女の礼をした。生涯でもっとも美しく優雅に見えるように。

 しかし、逆にそれが気に障ったのか、殿下は顔を顰めてアデライドを睨んだ。


「連れて行け」


 殿下の命でアデライドは王宮騎士たちに捕らえられ、そのまま牢に入れられた。


 おそらくリゼットを虐げたとの罪で裁かれるのだろう。

 殿下がリゼットを信じきっているのだから、これから行われるであろう取調べでアデライドが何を言っても殿下には届かないに違いない。

 降る罰は国外追放だろうか。修道院送致だろうか。少なくとも貴族令嬢でなくなるのは確実だ。


 そんな風に呑気に考えていたなんて、まったく愚かだった。


 アデライドは牢から出されることも取調べを受けることもないまま、その日のうちに死んだ。




  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆




 私が14歳の時、両親と兄が馬車の事故で亡くなった。当然、私は大きな衝撃を受けた。

 同時に、ずっと以前にも似たような強い悲しみを経験したことを思い出した。それは私自身ではなく、アデライドが母を亡くした時のものだった。


 もちろん私がすぐにアデライドの記憶を自分の前世と認識できたわけではなかったし、その時はまだアデライドのほんの一部を思い出したにすぎなかった。

 自分の中のアデライドに戸惑いながらも、やはり私には自分自身の悲しみのほうがずっと重大事だった。


 私の生家の伯爵家は父の従弟が継ぎ、私は侯爵である母の兄に養女として引き取られることになった。

 伯父夫婦にはひとり娘のクラリスお姉様がいた。

 もともと3歳上のお姉様は私をとても可愛がってくれていたし、私もお姉様に懐いていた。会えばいつも手を繋いで庭を歩いたり、本を読んでもらったり、お気に入りの髪飾りやお人形をもらったりしていた。


 従姉妹から姉妹になった直後、亡くなった両親のことを思い出しては泣く私を、お姉様は泣き止むまで抱きしめてくれ、時には同じベッドで寝てくれた。

 おかげで少しずつ私の気持ちは落ち着き、新しい生活に慣れることができた。


 伯父夫婦も私を本当の娘のように大切にしてくれた。

 私には生家よりも広い部屋が与えられた。クローゼットにはお姉様が以前に着ていたドレスと新しいドレスとが並んだ。優秀な家庭教師たちから勉強を教わることになった。


 しばらくは私の傍にいてくれたお姉様だったが、元の生活に戻らなければならなかった。お姉様は王太子殿下の婚約者であり、ほぼ毎日、妃教育のために王宮に通われていたのだ。

 お姉様と一緒に過ごす時間が少なくなってしまった私は、寂しさのあまりまだ見ぬ王太子殿下を密かに恨んだものだった。


 私がお姉様から王太子殿下を紹介されたのは、半年ほど経ってから。15歳になった私が初めて参加した王宮のパーティーでのことだった。


「マリエル、こちらがエドワール殿下よ」


「初めてまして。よろしく、マリエル嬢」


「初めてお目にかかります。クラリスの妹マリエルにございます」


 私は緊張しながらもお姉様直伝の淑女の礼をして、ゆっくりと顔をあげた。そしてエドワール殿下と目が合った瞬間、私は呼吸も瞬きも忘れた。


 しかし、私の中でアデライドが冷静に「それは駄目よ」と呟いた。

 私がアデライドの記憶をすべて取り戻したのはこの時だった。


 一度に湧き出したアデライドと自分自身の感情に混乱しながらも、私がパーティーの終わりまで表面上は落ち着いた態度を崩さず帰宅の途に着けたのは、やはり将来の王妃として教育を受けたアデライドのおかげだったと思う。




 私はアデライドが実在する人物かどうかを調べてみた。


 アデライドの婚約者だったルシアン殿下はエドワール殿下と同じ「グランジュ」を名乗っていた。だけど、私が家庭教師から教わった我が国の代々の国王陛下の中に「ルシアン」はいなかったはず。


 私は伯父様の書斎で我が国の歴史の本を捲った。

 そこに書かれていた王家の家系図の中に、「ルシアン」はいくつか見つかったが、どれがあのルシアン殿下なのかはわからなかった。ただ、やはりルシアン陛下はひとりもいなかった。


 さらに詳しく本を読むと、ある「ルシアン」についての短い記述が見つかった。

 200年ほど前、ルシアンという名前の王太子がいたが、彼は王族から除籍され、都からも追放された。理由は毒婦に誑かされて淑女の鑑だった婚約者を死に追いやったこと。

 毒婦や婚約者の名は書かれていないが、おそらく間違いないだろう。


 てっきりアデライドのほうが悪女として名を馳せているかと予想していたのに、あれから真相が解明されたようだ。

 死後に名誉が回復され、「淑女の鑑」なんて賞賛されたところでどうにもならないけど。


 そう言えば、リゼットはどうなったのかしら。少なくとも「幸せに暮らしました」、なんていう結末ではないだろう。




  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆




 アデライドは公爵家のひとり娘だった。

 幼いうちに1つ歳上のルシアン殿下の婚約者に選ばれ、厳しい妃教育を受け、将来の国母に相応しい淑女になるべく努力していた。


 アデライドが母を病で亡くしたのは12歳の時。父がひとりの女の子をお屋敷に連れてきたのはそれから2年後のことだった。

 父はアデライドに対して、その女の子を「おまえの妹リゼットだ」と紹介した。

 アデライドは突然現われた同じ歳の妹に複雑な気持ちはあったものの、仲良くなろうと決めた。


 リゼットは平民として育ったために貴族社会のことはまったくわからず、最低限のマナーや礼儀も知らないようだった。だから、アデライドはリゼットにそれらを優しく教えてあげようとした。

 しかし、リゼットはアデライドのその種の親切をきっぱり撥ね退けた。


「私を庶民だと馬鹿にするのはやめて」


 そう言って涙目で自分を睨みつけるリゼットに、アデライドはただただ驚いた。


 代わりにリゼットが強請ったのはアデライドの持ち物だった。


「このドレス私のほうが似合いそう」


「このネックレス素敵」


「このオルゴール可愛い」


 そう言って、「私にちょうだい」と続くのだ。

 アデライドは困惑しながらも「大切なものだから」とやんわり断っていたが、ある日、父に苛立たしそうに言われた。


「アデライド、おまえにはずっと贅沢な暮らしをさせてやってきただろう。だが、リゼットは違う。おまえには少しくらいリゼットを憐れむ気持ちはないのか?」


 ずっと父は娘に無関心なのだと信じていたアデライドには、父からそんな風に言ってもらえるリゼットのほうが贅沢に思えた。


 アデライドはリゼットの望むまま、持ち物を譲るようになった。リゼットの言葉は「私が持つほうが相応しい」になった。

 その後、実際にリゼットが身につけていたものもあったが、時には破かれたり壊されたりして捨てられているのを目にすることもあった。


 物だけでは済まなかった。


「生まれた時から貴族令嬢のお姉様には私の気持ちなんてわかるわけないわ」


「どうして私にそんな酷いことをするの」


 リゼットはアデライドにそんなことを言うようになった。それも、必ず父やメイドがいる目の前で、涙を流しながら。


「もっとリゼットに優しくできないのか」


「おまえがそんな娘だったとはがっかりだ」


 父は当然リゼットの肩を持ち、アデライドが何もしていないと訴えても信じてくれなかった。

 メイドたちもアデライドから距離を置くようになっていった。


 気がつけば屋敷の中で孤立していたアデライドに対して、リゼットはさらに精神的にも肉体的にも暴力を振るった。


 いつしかアデライドにとって、妃教育のために王宮で過ごす時間が貴重なものになっていた。婚約者のルシアン殿下との仲は良好で、国王陛下と王妃様も優しかった。


 だが、それもリゼットが社交界デビューするまでのことだった。

 初めてルシアン殿下に会ったリゼットの瞳は妖しく煌めき、姉の婚約者に対するにしては不適切すぎる距離までスルリと近づいた。

 リゼットがアデライドの婚約者であるルシアン殿下を欲しがるのは自然な流れだと、もっと早くに気づくべきだった。


 さすがにこればかりは父も「リゼットに譲れ」などと言うことはなかった。

 しかし、徐々にルシアン殿下と会う回数が減り、贈り物が届かなくなり、社交の場で婚約者である自分ではなくリゼットをそばに置くのを見て、アデライドは覚悟を決めたのだ。




  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆




 なぜ自分がそこまでリゼットに嫌われていたのか、いくら考えてみてもアデライドには最期までわからなかった。

 もちろん、アデライドの記憶を思い出した私にだってわからない。


 ただ言えるのは、私は大好きなクラリスお姉様を絶対にアデライドにはしたくない、私はリゼットにはならないということだ。

 すでに私はお姉様からたくさんのものを貰っていた。だけど、私から強請ったことはなかったはず。それとも、無意識のうちに欲しがっていたのだろうか。

 とにかく、今後はすべて断ろう。私はお姉様から何も奪いたくない。ドレスやアクセサリーも、家族も、そして婚約者も。


 お姉様とエドワール殿下はまさにお似合いだった。私が余計な心配をする必要もなく、ふたりの間には誰かが割り込む余地などないに違いない。

 そう考えると、私の胸がツキリと痛んだ。


 ああ、駄目だ。

 こうなったらアデライド、いやリゼットのことをもっと調べよう。


 そう決めた私は伯母様の許可を得て、馬車で王宮の隣にある王立図書館へ向かった。


 図書館にはいつもお姉様と一緒に来ていたので、ひとりで来たのは初めてだった。

 しばらく本棚の間を歩いてみたが、伯父様の書斎とは比べ物にならない膨大な量の本の中から私の求める本を探し出すのは不可能に思えた。


「おや、マリエル嬢?」


 ふいに聞こえてきた声に、私は思わず固まった。どうして一度挨拶を交わしただけなのに、誰なのかわかってしまうの。

 気づかぬふりで立ち去るなんて不敬ができるはずもなく、私はゆっくりと振り返った。


「まあ、殿下」


 私はしっかりと礼をした。


「やはり君だったか」


 エドワール殿下は精悍なお顔に穏やかな笑みを浮かべながら、私のすぐそばまで歩いていらっしゃった。


「何か探しもの?」


「少し調べたいことがあったのですが……」


「どこに行けば見つかるのかわからない、ってところかな?」


「はい、仰るとおりです」


 私は情けない気持ちで答えた。


「ここは広いから、慣れないとそうなっても仕方ない。そんな時は司書に尋ねればたいてい解決してくれる。それで、マリエル嬢は何を調べたいの?」


 何と答えるべきか、少し迷った。だけど、殿下を前にして上手い嘘は思いつきそうにないし、適当に誤魔化せそうな気もしなかった。


「実は、200年ほど前に都を追放されたルシアン殿下という方のことなんですが」


「廃太子ルシアンについてなんて、珍しい課題だね」


 どうやら殿下は私が家庭教師から出された課題のために調べていると勘違いなさっているようだ。


「ご存知なのですか?」


「まあ、私たちにとっては反面教師といったところだからね」


 私は反応に困ったが、殿下に気にした様子はなかった。


「廃太子ルシアンか……」


 そう呟きながら、殿下は本棚の間を進んでいった。司書に引き合わせてくれるのだろうと思い、私は殿下の後をついて行った。

 しかし殿下が向かった先には読書用の机と椅子が並んでいて、殿下はそのうちの一つに腰を下ろした。殿下に促されて私もその隣に座る。


「さて、どのあたりを話せばいいかな?」


「あの……?」


「ルシアンのことならある程度は私が教えてあげられると思うよ」


「そんな、お忙しい殿下を煩わせるようなこと」


「大丈夫。今はちょうど時間が空いたからここに来たんだ」


 殿下の好意をきっぱりと断ることは私にはできなかった。


「私が知りたいのは、ルシアン殿下が婚約者を断罪した後のことです」


「その事件に関わった他の人物も知っている前提で話していいかな?」


「はい。アデライドやリゼットのことですよね」


 私が答えると、殿下は少しだけ不思議そうな表情をされた。


「ああ、そう言えば稀代の毒婦はリゼットという名前だったね」


 伯父様の本にも「毒婦」と書かれていたから、リゼットは本名よりもその呼称のほうで知られているのだろうか。


 殿下がゆっくりと語り始めた。


「ルシアンはアデライドが罪を犯したとして牢に入れてから、彼女との婚約を破棄してリゼットを新しい婚約者にすることを父である国王に願い出た。だが、もちろんそれは認められず、国王はアデライドを牢から出すよう命じた」


 少なくとも陛下はアデライドを信じてくださったのだ。そのことに私の胸が小さく震えた。


「ところがその時にはアデライドは殺されていた。犯人であるルシアンの側近の騎士レイモンはその場で捕まった。彼は実行犯で教唆したのはリゼットと考えられたが、証拠も証言も出てこず、王太子の婚約者殺害の罪で裁かれたのはレイモンだけだった」


 嫌でもアデライドが最期に見た光景が頭に浮かんだ。

 牢に入ってきて、「リゼットのために死ね」という言葉とともに無慈悲に剣を振るったレイモン。自分の体から散った赤い飛沫。痛みを感じたのは一瞬で、すぐに何もわからなくなった。


「それから、ルシアンがアデライドとの婚約破棄の理由とした、彼女がリゼットを虐げていたという件についても調べられた。その結果、屋敷の使用人たちの証言から明らかになったのはリゼットこそアデライドを虐げていたという事実だった。国王はルシアンを王族からも都からも追放した。その後は国境警備隊に所属したらしいけれど、20代のうちに亡くなった。最期の言葉は『これでアデライドに謝りに行ける』だったというのが定説のようだ」


 それを聞いてもアデライドの心は冷えたままで、動かなかった。

 もちろんアデライドがルシアン殿下に謝られた覚えはないし、謝ってもらったところで赦せるものでもない。


「死んでからでは遅すぎます」


 私は思わず呟いた。


「同感だ。そもそも長い間厳しい妃教育に耐え、自分を支えてくれていた婚約者がいながら、妃どころか淑女としてさえ無能な毒婦の罠に嵌るなんて、同じ立場にあるものとして恥ずかしい」


 殿下の言葉はアデライドの口惜しさや悲しみを救ってくれるものだった。それなのに、私の中に別の苦しみが生まれた。

 エドワール殿下は、決してお姉様を裏切らない。リゼットになりたくない私はそれを喜ぶべきなのに。


「リゼットはどうなったのですか?」


 私は殿下に尋ねた。

 リゼットが悲惨な最期を迎えていれば、私はこの気持ちを諦められるのではないだろうか。


 だが、殿下は懐中時計を確認すると立ち上がった。


「すまない。そろそろ政務に戻らないと。続きはまた今度」


 私も慌てて立ち上がった。


「殿下の貴重なお時間を、申し訳ございませんでした」


「私から言い出したことだ。気にしなくていい」


 王宮に戻られる殿下をお見送りし、私も帰宅した。


 リゼットのことを調べようと思ったのは、エドワール殿下のことを考えてしまわないよう他のことで気を紛らわせるためだったのに、さらに殿下に囚われてしまった気がしていた。


 だけど、私は嬉しかったのだ。図書館で殿下と偶然お会いできたことが。殿下から声をかけてくださったことが。殿下に親切にしていただいたことが。

 すべて私が婚約者の妹だからだとしても。


 


「マリエル、ただいま」


「おかえりなさいませ、お姉様」


「ほら、あなたにお土産よ。お茶の時間にいただいたお菓子が美味しかったから、少しもらってきたの」


「……まあ、ありがとうございます」


 王宮から帰宅したお姉様が私へのお土産を手にされていることはたびたびあった。この日のようにお菓子だったり、庭園に咲く花だったり。

 先日までの私はただ喜んで受け取っていたのだけれど。


「お姉様、このように王宮からお土産をいただいてきてくだらなくてもよろしいのですよ。私は伯父様や伯母様、もちろんお姉様からも十分すぎるものをいただいているのですから、あまり王宮で無理を仰らないでくださいね」


 お姉様が瞬きした。


「美味しいお菓子を可愛い妹にも食べさせたいと思うのは自然なことではないかしら? それに、王妃様にマリエルのことを話したらとても気にかけてくださって、近いうちに連れていらっしゃいとも仰ってくださったのよ」


 私の頭の中に、「私もお姉様と一緒に王宮へ行く」とお願いするでなく、すでに決まっていたことのように宣言したリゼットの声が響いた。


「私などが王宮に行く理由がありません」


「王妃様のお招きなのよ。むしろ断る理由がないわ。そう言えば、今日、図書館でエドワール殿下に会ったのでしょう? 何か教えてあげるのが途中になってしまったから申し訳なかったと仰っていたわ」


 エドワール殿下はお姉様に隠し事をされないようだ。それは安堵すべきこと。


「殿下にご面倒をおかけしてしまったことは反省しております。続きはまた図書館に行って自分で調べます」


「殿下はマリエルが王宮に来たら是非その続きをとも仰っていたから、甘えればいいのよ」


 お姉様はそう言ってにっこり笑った。私のことを何も疑っていないようだった。




 流されるまま、私はお姉様と一緒に王宮を訪れた。


 パーティーの会場は庭園だったので、私が王宮の建物の中に入るのは初めてだった。が、改めて王宮の外観を見上げた時から私は何とも言えない感慨に襲われ、それは屋内に入るとますます強まった。


 調度品や壁紙などはほとんど変わっていたけれど、王宮自体は200年前と同じだった。アデライドがお妃教育を受け、ルシアン殿下から婚約破棄された場所。

 アデライドが最期を迎えたあの貴賓牢もまだあるのだろうか? そう考えて体が震えそうになった。


 王妃様は凛とした立ち姿の美しい方だった。お茶をいただきながらの会話では、聡明さと優しさも感じられた。まさにアデライドが目指していた王妃像だ。


 そんな王妃様が仰った。


「マリエルは所作がとても綺麗ね。クラリスが教えたの? それとも優秀な講師がついているのかしら?」


「大して教えてもいないのに、いつの間にかすっかり淑女らしい振る舞いをするようになって、私も驚いております」


 お姉様にも言われて、私は慌てて首を振った。


「私などまだまだ未熟ですが、少しは見られるものになっていたとしたらお姉様のおかげです」


「未熟だなんて。クラリスに負けないくらい綺麗よ。自信をお持ちなさい」


 本当に王妃様にそう思っていただけたのだとしたら、それは間違いなくアデライドの影響だ。


「王妃様にお褒めいただき光栄にございます」


 アデライドが、私の頭を丁寧に下げさせた。




 王妃様とのお茶の時間が終わると、私はお姉様に案内されてエドワール殿下の執務室に伺った。

 そこはアデライドが何度も訪れたルシアン殿下の執務室とまったく同じ場所で、扉の前に立った時、嫌な汗が流れた。

 室内に通されてからも、ルシアン殿下がいるような錯覚がして、必死にそれを振り払った。


「やあ、いらっしゃい。よく来たね」


 エドワール殿下は柔らかい笑みで私たちを迎えてくださった。リゼットと出会う前のルシアン殿下のように。


「本日はお招きいただきありがとうございます」


「そこに座って。お茶はいらないかな」


 私とお姉様が並んで腰を下ろし、私の向かいに殿下がお座りになった。さすがにソファは新しいもののようだ。


 最初は世間話などをしていたが、ふいに殿下が私を見て仰った。


「そう言えば、この前の続きを話す約束だったね」


「あれは、もう忘れていただいても……」


 隣にお姉様がいるところで殿下からリゼットのことを聞くなんて、変に思われないだろうか。


「遠慮しなくても大丈夫よ。それで、いったい何の話でしたの?」


 お姉様が興味深そうに身を乗り出した。


「廃太子ルシアンのことを話していたんだが、コロンヌ公爵夫人がどうなったのかも知りたいってことだったよね」


 私は目を瞬いた。

 殿下の口から出た「コロンヌ」というのはアデライドの家名であり、だから私にとって「コロンヌ公爵夫人」とはアデライドの母のことだ。


「いえ、私が知りたいと申したのはリゼットのことです」


 思わず私が訂正すると、殿下は頷いた。


「そう、リゼット・コロンヌ公爵夫人だ」


 リゼットがコロンヌ公爵夫人? アデライドからすべてを奪ったリゼットが罪を問われず、父の跡を継ぐ婿を迎えたということ? リゼットの結末は「幸せに暮らしました」だったの?


「どうしてリゼットが赦されるの?」


 私の中でたくさんの疑問とともに、アデライドの悲しみや怒りや口惜しさや絶望が渦巻いた。


「マリエル?」


「マリエル嬢?」


 お姉様とエドワール殿下の声が遠くに聞こえた。

 息が苦しい。体が震える。


「マリエル、落ち着いて。稀代の毒婦が赦されたはずないでしょう」


 私の体が抱き寄せられ、今度はお姉様の穏やかな声が耳元でした。

 ゆっくりと視線を巡らすと、すぐそばに見慣れたお姉様の瞳があった。


「大丈夫か、マリエル嬢? 具合が悪いなら部屋を用意させるからしばらく休むといい」


 殿下の心配そうな声に、私はそちらを向いて首を振った。


「いえ、もう大丈夫です。申し訳ございませんでした。それよりも、お話を聞かせていただけますか?」


「君がそう言うなら……」


 そこで、まだ私の肩を抱いてくれていたお姉様が遮った。


「殿下のお話の前に一つだけよろしいですか」


 殿下は少し驚いた様子ながら頷いた。


「ああ」


 私は再びお姉様の顔を見つめた。


「もしかして、マリエルはまだリゼットがアデライドの妹だと思っているのではない?」


 一瞬、私にはお姉様の言った言葉の意味がわからなかった。


「だって、妹、でしょう?」


 殿下が腑に落ちたような表情で口を開かれた。


「そこを勘違いしていたのか。確かにリゼットはコロンヌ公爵の娘を名乗っていたらしいけど、本当は妻だ。つまり、アデライドにとっては継母だな」


 私はますます混乱しそうになった。私の中のアデライドも。

 リゼットを「妹」だと言ったのはアデライドの父だ。あれは嘘だったの?


「娘と同じ歳の後妻では世間体が悪いとコロンヌ公爵が偽ったのが先だったようだが、人妻でありながら王太子の婚約者に収まろうなんて、毒婦以外の何物でもない」


「リゼット自身は知っていたということですか?」


「もちろん。貴族の婚姻証明書のサインは本人が書かなければならないだろう。コロンヌ公爵夫人は教育を受けたことがなくて、唯一書けたのが自分の名前だったらしいね」


 リゼットのために雇われた家庭教師はすぐに姿を見なくなった。

 アデライドのお気に入りの羽根ペンは、リゼットに奪われた翌日には折られて捨てられていた。何冊もの本がボロボロに破かれていた。

 彼女が結婚前に教育を受けられなかったのは生まれ育った境遇のせいかもしれないけれど……。


「リゼットは父親ほど歳の離れた相手と結婚してでも貧しい生活から抜け出して、贅沢な暮らしをしたかった。だけど、貴族や王族が贅沢な暮らしをできるのはそれだけの責任を果たしているからだということは理解できず、公爵夫人になっても必要な礼儀作法も教養も何一つ身につけようとはしなかった。それどころか淑女の鑑と言われる義理の娘を妬み、貶めることに心血を注いだ」


 お姉様が聞いたことのない冷淡な声で言った。


「そのあたりはコロンヌ公爵の罪も大きい。おそらくは当時の国王もそう考えたのだろう。コロンヌ家は取り潰され、元公爵夫妻は都から追放されたそうだ。その後どうなったのかまではわからない」


 殿下の仰る夫妻というのはアデライドの父とリゼットのことだとわかっても、やはり巧く飲み込めない。


「父……、コロンヌ公爵はリゼットと離縁しなかったのでしょうか?」


「公爵はそれを望んだけれど、国王が認めなかった。娘の命を奪った女と生涯添い遂げること、それが公爵への最大の罰だったのね」


「それにしても、王太子や公爵を落とした稀代の毒婦というのはどんな女だったんだろうな。肖像画も残っていないようだか、余程の美人だったのか」


「単純に美醜を言うならアデライドのほうがずっと美しかった。ただアデライドは妃教育で一人で立つことを教えられていた。逆にリゼットは男の庇護欲を刺激して『彼女は自分が支えないと駄目だ』と思い込ませるのが巧みだった。実際にはリゼットほど強かな人間はいないでしょうけど」


「なるほど。だが、なぜクラリスはそこまで知っているんだ?」


「……おそらくそんなところだろう、という想像です」


 いまいち納得できないような表情の殿下に向かい、お姉様は微笑を浮かべた。




 お姉様と帰宅の途についた。

 私は馬車の中で黙り込んで何とか気持ちを整理しようとしていたが、お姉様も何も言わなかった。まるで、私の心中を察しているように。


 着替えを済ませてからお姉様の部屋に行こうかと考えていると、お姉様のほうが私の部屋にやって来た。

 いつものようにソファに並んで腰を下ろしたけれど、自分の体が強張っているように感じた。


 お姉様がゆっくりと言った。


「まだ訊きたいことがあるのではない?」


 訊きたいことはあった。答えを得られるという確信も。

 少し迷ったが、私は口を開いた。


「お姉様、あなたは誰ですか?」


 お姉様の顔がわずかに歪んだ。


「やはり君も思い出したんだね、アデライド」


 その口調は普段のお姉様のものではなく、だけどアデライドには覚えのあるものだった。

 最後に会った時の彼の冷たい言葉と表情がお姉様に重なった。


「ルシアン殿下……?」


 私は無意識のうちに膝の上で両手をきつく握り締めていた。

 お姉様の体がソファから滑るように動いたかと思うと、床に膝をついて私を見上げた。


「ずっと君に謝りたかった。だが、私の罪が謝って赦されるようなものでないことも理解している」


「……その通りです。謝るなら、最後に顔を合わせたあの場でなさるべきでした」


「あれが最後になるなんて想像もしていなかった。私は君に婚約破棄を告げながらも、自分の妃になるのは君だと信じていたのだから」


「仰っている意味がわかりません」


「リゼットはとても王太子妃になれるような女じゃなかった。陛下が絶対に認めるはずがないからこそ、私はあんなことをしたんだ」


「そんな、いったい何のために?」


「君の気を引くためだ。婚約者になったばかりの頃、君は私の前で無邪気に笑っていた。怒ったり拗ねたりもしてくれた。だけど、いつの間にか君の気持ちが見えなくなってしまった。私はそれが不満で、不安だった。そんな時にリゼットが付き纏うようになって、彼女を利用しようと考えた。だが結局、君は私の望んでいた反応を一度も返してはくれなかった」


 大真面目な顔でそんなことを言われても、納得できるわけがない。気づけば私は声を荒げていた。


「あれで私がどんなに傷ついたか知りもせずに勝手なことを言わないでください。将来あなたの妃になるのだからと、醜い感情は必死に隠していたんです。私はあなたの隣に立つのに相応しい人間になりたかった。死んでから『淑女の鑑』なんて称えられたかったのではありません」


「わかっている。私は本当に愚かだった。リゼットのことも、本性を理解できなかった。君が彼女を虐げているなんて信じていなかったけれど、彼女が君にしていたことには気づいていなかった。ましてやレイモンに君を殺させるなんて……」


「私の殺害にリゼットが関わったことは証明されていないと聞きました」


「だが、そうとしか考えられない。彼女は君の死を聞いて笑っていたんだからな。私が君を地下牢ではなく貴賓牢に入れたことも気に入らないようだった」


 そう、私も地下牢に入れられていれば命の心配をしていたかもしれない。貴賓牢だったから、レイモンが剣を抜くまで呑気でいられたし、私を殺したのはルシアン殿下の意志でなかったことだけは信じられたのだ。


「コロンヌ公爵も、私と同意見だったはずだ」


「父が?」


 確かリゼットとの離縁を望んで認められなかったのだったか。


「公爵夫妻が都を追い出されて後はわからない、とエドワールが言うのは記録が残されなかったからだ。二人は死んだよ。公爵がリゼットを殺して、自害したんだ。都からすぐの森の中で」


 私は両手で顔を覆った。気持ちが追いつかない。


「公爵がそうしていなければ、私がしていたかもしれない」


 ルシアン殿下の言葉に、私は恐る恐る顔を上げた。


「私が怖い?」


 私はゆるゆると首を振った。


「先ほども言ったとおり、本当の私は醜い人間です。リゼットが憎くて憎くてたまらなかった。彼女の結末を気の毒になんて思えない」


「それでいい。もちろん、公爵のしたことで君が罪の意識を持つ必要もない」


「それなら、あなたも同じです。私の死にルシアン殿下が責任を感じることはありません」


「いや、君を殺したのは私の愚かさだ。だから、今度こそ君には幸せになってほしい。できれば私の手で幸せにしてあげたかったが、もう私にその資格はない。君は君の望む男の手を取ればいい」


 ルシアン殿下が私の手にそっと触れた。そこで、ようやく私は我に返った。


「ルシアン殿下、アデライドはもういません。ここにいるのはマリエルという別の人間です。あなたに気にかけていただく義理はありません。それに、お姉様があなたの代わりに償う必要もありません」


「ええ、そうね」


 お姉様の口調と表情も本来のものに戻った。お姉様は立ち上がり、私の隣に座り直した。


「前世を思い出した人間がそれにまったく影響を受けないことは難しいかもしれない。だけど、マリエルはマリエルとして幸せになるべきだわ。エドワール殿下と一緒に」


 私は目を瞠った。


「エドワール殿下はお姉様の婚約者ではありませんか。私はリゼットのようにお姉様から奪ったりしません」


 お姉様はフッと笑った。


「言ったそばから前世に引きずられてるじゃない。どちらにせよ、マリエルは到底リゼットにはなれないわ。あなたは『淑女の鑑』アデライドだったのだもの。『廃太子』ルシアンだった私より、ずっと王太子妃に相応しいはずよ」


「ですが……」


「それに、正直に言うと、私にはエドワール殿下は弟のようにしか思えないのよね。ルシアンの弟の子孫だからかもしれないけれど。もちろん私だって貴族の娘として育ったのだから、決められた相手との結婚を大人しく受け入れるつもりだった。だけど、私の目の前で可愛い妹が恋に落ちた相手では無理よ」


 私は息を呑んだ。私の気持ちはお姉様には気づかれていたのだ。


「エドワール殿下は普段はもっと女性に淡白よ。私も含めてね。まだ本人は自覚してないようだけど。私からすれば、マリエルをエドワール殿下に奪われる感覚だわ」


 そう言って微笑んだお姉様の顔に、再びルシアン殿下が重なって見えた気がした。

お読みいただきありがとうございます。

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