1.阿武梨々亜の逆鱗
「おねがいっ! たすけてたすけてたすけてっ!」
少女の必死な叫びがビル街の片隅に響いたのは深夜11時を過ぎたころだった。
指定された荷物を受け取るため、阿武梨々亜は路上にネイキッドバイクを停めて客が来るのを待っていた。
梨々亜の仕事はバイク便のライダーだ。
肩を越える長さの茶髪。170近い長身。ライダースジャケットにダメージジーンズ、ブーツ。
ダメージジーンズと言えば聞こえはいいが、履き古して自然と破れてしまったのをそのまま使い続けているだけだった。
つり目がコンプレックスなのでそれを隠すようなメイクを心掛けている。
いつも通りであれば、これから受け取る荷物もA4サイズの封筒ひとつだろう。
それをボロい雑居ビルにいる外国人に届けるだけだ。
常連客ではあるが、相手の事情は知らない。
知る必要もない。
荷物の受け渡しに深夜の道端を指定してくる時点でわけありなのは明白だからだ。
ヤバそうなことには首を突っ込まないのがこの仕事を長く続ける秘訣、というのが社長の口癖だった。
梨々亜は途中で買った缶コーヒーを開けて一口飲む。
辺りは深夜特有の静けさに包まれていた。
人の気配はなく、建物の明かりもほとんどついていない。
そんな静寂を打ち破って騒々しい足音が聞こえてきた。
ビルの間の路地から、リュックを背負った少女が飛び出してくる。
栗色のミディアム。パーカーにスキニー。
見た目の印象では高校生くらいだろう。
ひどく慌てている様子だった。
少女は梨々亜の姿を見つけると、まっしぐらに走ってきてすがりついた。
「おねがいっ! たすけてたすけてたすけてっ!」
ヤバそうなことが向こうから突っ込んできたときはどうすればいいのか。
それも社長に聞いておかなくてはと思った。
「悪いけど、誰か他の人に頼みなよ」
「えぇっ!? 助けてくれないの? ウソでしよ!?」
梨々亜のそっけない返答が予想外だったのか、少女は大きな目を何度もぱちくりさせた。
「普通助けてくれるパターンじゃないの!?」
「困るんだよね、こういうの。私仕事中だから暇じゃないんだけど」
「わ、わたしも今すごく困ってて……できたら助けてほしいんですけど……」
「嫌。関わりたくない。どっか行って」
「完全に断わられたっ!」
しかし少女はあきらめず必死に詰め寄る。
「おねがいっ! このバイクで安全なとこまで連れてって! おねえさんのでしょ、これ! おねがいだから! わけは後で話すから……!」
「やっぱ、わけありかぁ」
梨々亜はうんざりしながら缶コーヒーを飲み干した。
と、やり取りをしている間に、同じ路地裏からスーツ姿の男女二人が走ってくるのが見えた。
ほっそりしたキツネ顔の女と、ガタイの良いタヌキ顔の男だ。
まとう雰囲気からアウトローの匂いを感じ取り、尚更関わりたくないなと梨々亜は思った。
「手間かけさせるなよ、おい!」
少女が逃げる間もなく、タヌキ顔の男が強引にその腕をつかみ上げる。
短い悲鳴と共に少女が梨々亜から引き剥がされた。
「は、はなしてっ……!」
振りほどこうとする少女に向かってタヌキ顔は迷いなく平手打ちをあびせる。
問答無用の暴力に、少女が一瞬で萎縮したのがわかった。
「こっちが何もできないと思ったか? 多少手荒なことは許可されてるんだよ。これ以上痛い目見たくなかったら大人しくしてろ!」
そのまま力づくで連れて行こうとする。
少女にはもはや声を上げる気勢も無いようだった。
唇を噛んで、潤んだ瞳で梨々亜を見る。
それが精一杯の抵抗のようだった。
「……あのさぁ。そういうの、よくないと思うんだよね」
梨々亜は反射的に挑発的な声を発していた。
危険に近寄らない分別は持っているつもりだ。
しかし、頭にきた。
抑えられる感情ではなかった。
「事情は知らないけど、無理矢理連れてくのはダメでしょ。本人の意志ってもんもあるだろうし。まず話し合いから始めたほうがいいんじゃない?」
「事情を知らないなら黙ってたほうが身のためよ、お嬢ちゃん」
キツネ顔の女が細い目で睨む。
「あなたも痛い目に遭わせられたい? ビンタだけじゃ済まないわよ」
口調は穏やかだが、刃のような鋭さを含んだ声だった。
彼女の発する言葉は威嚇ではなく警告だ。
しかし梨々亜は退かない。
「へぇ、どんな目に遭わせられんの? ちょっとやってみせてよ」
「威勢が良いわね」
キツネ顔の女が上着に手を突っ込む。
黒光りする拳銃が抜き出され、銃口が梨々亜の眉間に合わせられた。
「けどそういうのは世間知らずって言うのよ。覚えといてね」
人差し指が引き金にかけられる。
その指にもう少しだけ力が込められたら梨々亜は死ぬだろう。
だが梨々亜の目に怯えはなかった。
逆に攻撃的な光がぎらりと灯る。
「――向けたね」
梨々亜は持っていたコーヒー缶をキツネ顔の頭上に投げた。
反射的にキツネ顔の視線が上を向く。
一瞬の隙。それで充分だった。
梨々亜は身を低くして素早くふところに飛び込み、鳩尾に膝蹴りを叩き込む。
そして間髪を入れずに足払いをかけた。
缶がアスファルトに落ちて甲高い音を響かせたのと同時に、キツネ顔の女も背中から倒れて鈍い音を立てた。
少女を掴んでいたタヌキ顔の男はその光景に驚いて目を見開く。
動揺している隙を見逃さず、梨々亜はタヌキ顔の股間を容赦なく蹴り上げた。
タヌキ顔の男は苦悶の声を上げて力なく倒れ込む。
どんな場合でも、男を無力化させるにはこの方法に限るのだった。
梨々亜は乱れた髪をかき上げる。
「あんたらも覚えときなよ。私に銃を向けて無事だった奴はいないってことをね」
突発的とはいえ、手を出してしまったものはしょうがない。
梨々亜は呆然としている少女へ、予備のヘルメットを出して投げ渡した。
「えっ……?」
「お望み通り。乗って」
自分もヘルメットを被って250のネイキッドバイクに跨る。
エンジンの爆音が夜の静けさをかき乱した。
「早く!」
「い、いいの? やった!」
少女は目元を拭ってヘルメットを被り、タンデムシートに尻を沈める。
梨々亜の腰にほっそりした腕が抱きついた。
「行くよ」
スロットルを開けて夜の街へ走り出す。
その際――うずくまった男がスマートフォンを取り出す姿が一瞬だけサイドミラーに映った。
◆
「あ、ありがとうございます、たすかっ――」
「あんたいったいなんなの? 何者? 何したの? あいつら何? アウトローでしょ? なんで追いかけられてたの? 手出しちゃって私大丈夫?」
うす暗い路地から大通りに向かいながら梨々亜は早口でまくしたてる。
けたたましいエンジン音の中にあっても、ヘルメットに内臓されている無線でしっかり聞こえているはずだ。
「そんないっぺんに聞かれても……!」
「わけは話すって言ったじゃない。……じゃあ、まず、あんた名前は?」
「琴美です」
「なんなの、あいつら」
「たぶん、パパの雇った人たちだと思う……」
「はぁ……? なんで追われてたの?」
「それは……」
と、露骨に口ごもった。
言いたくないのかもしれないが、ここまで巻き込んだ以上きっちり聞いておかなくてはならない。
琴美はおずおずと二の句を継いだ。
「わたしが、パパのもとから逃げ出したからです」
「単なる家出ってこと? 助けるんじゃなかった!」
言い捨ててから、梨々亜はすぐに思い直す。
連れ戻すために銃まで持ち出してくる連中がいる家はどう考えても普通じゃない。
単なる家出と断定するのは早計だろう。
片側二車線の道路に合流する。
深夜なので車通りは皆無だった。
「あの、わたしも名前聞いていいですか?」
「梨々亜」
「何歳?」
「19」
「あっ、なんだぁ、大人っぽく見えたけどタメだったんだぁ!」
琴美の声がウソみたいに明るくなった。
「たすけてくれてありがとね。梨々亜ちゃんって呼んでいい? わたしのことはコトミンでいいからね? なんかSNSやってる? 友達登録していい? そうだ、あとでツーショット撮ろ?」
「いや、距離の詰め方えぐくない?」
急激に緊張感が失われていく気がした。
「えへへ、ごめんね。同じくらいの年の子と会ったの久しぶりだからちょっと嬉しくなっちゃって」
「第一こっちの質問はまだ終わってないんだけど……と、その前に」
梨々亜のバイクには、メーターの横にナビ用のスマートフォンが取り付けられている。
アイドリング状態で路肩に停車させ、画面を電話帳に切り替えた。
「どうしたの?」
「会社に連絡。仕事中だって言ったでしょ? ぶっちしちゃったから、代わりにやってくれる人おねがいしとかないと」
「あっ、そうだったんだ。それは……ほんとにごめんなさい」
琴美は急激にしゅんとなった。
感情の豊かさが幼い印象を強くしているのかもしれない。
『ハレダ急便』の文字をタッチして電話をかける。
ヘルメット内蔵のインカムと同期させてあるので、ハンズフリーで通話できるようになっている。
呼び出し音が聞こえ始めた。
「……なんのお仕事してるの?」
「配送業」
「はいそう?」
「それより、さっきの、大丈夫?」
「さっきの?」
「ぶたれてたでしょ、さっき」
「ううん。なんともないよ」
琴美は、ふふ、とくすぐったい笑みをこぼした。
《はいよ。どうしたんだい、梨々亜》
ハスキーな声の女が電話に出る。
社長の晴田美都だ。
「ごめんボス、ちょっと厄介なことになって……」
梨々亜が事情を説明しようとしたとき。
「あの車やばっ! 梨々亜ちゃん、逃げて逃げてっ!」
後ろを振り返った琴美が切羽詰まった声で割り込んだ。
梨々亜も振り向く。
後方から一台のSUVが走ってきていた。
SUVは梨々亜たちの進路を塞ぐように斜めに突っ込んできて急ブレーキをかける。
後部座席のドアミラーが下り、ライフルの銃口が突き出されるのが見えた。