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鴻上探偵事務所  作者:
1/8

序章・釈迦戸命の憂鬱


「鬼が来る……」

 滑稽なほど真剣な表情で、デスクの表面を凝視しながら、この事務所の所長は呟いた。

 鴻上柘榴(こうがみざくろ)、二十代後半。青年がこの所長のことで知っているのはこの二点だけだ。他を聞いても、するっと上手くはぐらかされる。謎多き存在――それが自分の上司に対する青年の印象である。

 未だに独り言を呟く柘榴の前に、湯気の立つ温かいマグカップを置く。中身は何の変哲もないコーヒーだ。すると、まるでいつもの癖のように、柘榴の手がそのマグカップに伸びた。

「鬼って……柘榴さん、今度は誰に恨みを買ったんですか?」

 鬼を送って寄越すなんて、今度はどこの陰陽師か霊媒師に喧嘩を売ったのだろう。

 青年の脳裡に浮かぶのは、いつか垣間見た柘榴の宿敵(ライバル)だという陰陽師の整った顔だ。馬鹿にしたように笑う顔は、ひどく腹立たしかったのを覚えている。

 しかし、あのナルシストがわざわざ柘榴にそういった嫌がらせをしてくるのかは甚だ怪しい。自分のことで手一杯、という印象も青年は彼に持っている。

 そうなると、どこの誰が、こんな落ちぶれた探偵事務所の所長などに、鬼を送ってきたりするのだろうか? まったく見当がつかない。心当たりがなさ過ぎて。

「……釈迦戸(しゃかど)くんよ、君って時たま心にグサッとくること言うよね」

「あ、声に出てました?」

「思いっ切り駄々漏れだったよ、こん畜生!」

 これは事実だ。自分は悪くない。柘榴は認めようとはしないが、青年が言っていることはほぼ正鵠を射ている。

 青年――釈迦戸命(いぶき)は、恨めしい視線をこちらに向けてくる柘榴に満面の笑顔を浮かべた。

 作り笑いを隠そうともしない命の笑みに、柘榴の表情が情けなく固まった。この所長は、外見だけが強面で、内面はかなりのヘタレだと命はとうに見抜いている。 「じゃあ、自分で依頼でも探してきたらどうですか? もっと賑わうように、ね。俺ばっかりに働かせるんじゃなくて」

「うっ……」

 我ながら、いいこと言ったと思う。所員の鑑にならねばならない立場の所長が、所員の見つけてきたショボい依頼でしか収入を得ていないなんて、同業者には絶対悟られたくない内情だ。なんとかせねば……と命は思っていたところである。しかし、それは一筋縄ではいかないだろう。

 命が「鴻上探偵事務所」に勤め始めてもう二年が経った。最初はやる気に満ち溢れていた命だったが、如何せん、当の所長がまったくやる気がなく、ヘタレな人である。命のやる気はあっと言う間に底を尽き、今では諦観の域に達している。これでは、来る筈の依頼も来ない状態だ。コーヒーもぎりぎりのじり貧の毎日である。

 せめて、コーヒーはインスタントではなくレギュラーにしたい。そんな些細で滑稽な願いも現状では叶いそうもない。

 諦観していると言っても、すべてを諦めるには命はまだ若かった。

 ――せめて、ほんの少しでも柘榴が本気を出してくれたならば。

「で、さっきから気配を探ってるんですが、どこにも鬼の来る気配なんてないですよ?」

 ついに彼ご自慢の観察眼(せんりがん)も曇ってしまったのだろうか? 未だに怯えたように身を縮めている柘榴に肩を竦めながら、命は事務所中をぐるりと見渡す。

 古臭い雑居ビルの、防犯もなにもないボロい三階に、「鴻上探偵事務所」は存在薄く看板をかかげている。

 内装も至って平凡。天井と壁紙は茶色く変色し、床は病院のようなリノリウム。来客用の黴臭いソファと古めかしい長机がひと揃え入り口側に置かれ、所長のデスクが一番日当たりの良い場所に鎮座し、命のデスクは本棚に遮られて、陽光がまったく届かない端っこに申し訳なさそうに設置されていた。

 この机の配置は差別だと命は常々思っている。

 ――それにしても、なんとも、味気ない。

 この内装を見れば、誰だってそう感じるだろう。命だって、最初の印象は今も変わらず、質素で古臭い、だ。

 茶色く変色したシミだらけの天井……不気味な人型の黒いシミのある壁(これを見るたびに、命は鳥肌が立つ)……つるっと滑りそうな床……いつもと変わらない景色を見渡しながら、命は集中をより高めていく。じっと壁の向こう、天井の遥か上空まで感覚を伸ばして、なにかの気配を、探る。

 先刻一度試した時は、まったく、不思議なほどになんの気配も感じなかった。これは正常に命の結界が作動している証拠だ。

 所長がサボっているせいで綻ぶに任せていた「情報保護結界」も、「対悪霊結界」も、命が来たと同時にきつくかけなおした

 お粗末な防御では、すぐに同業者に足下をすくわれる。

 普通の「探偵事務所」なら問題はないが、ここは普通ではない「探偵事務所」なのだから。

「違うって、その鬼じゃない……」

「その鬼じゃないって、どの鬼なんですか?」

 柘榴の正気が本気で心配になった命だった。

 鬼は確かに何種類も存在するが、柘榴はその種類を言っている訳ではないようだ。命は一旦、触覚を引っ込めて、怪訝な表情で柘榴を見詰めた。

 

「鴻上探偵事務所」は、普段は浮気・素行・探し人調査、失せ物探しなどもこなすが、メインの仕事はオカルト現象の解決・解明である。

 鴻上柘榴はその手の世界では腕利きの人物と有名で、命は彼に憧れてこの事務所に就職を希望した(今絶賛後悔中である)。

 表向きの仕事はたまにしかやって来ない。自分で依頼を持って来ない柘榴の代わりに、命は週に一度、そういった「裏の仕事」を斡旋してくれる問屋に通っている。

 間違いなく、この事務所はブラック会社に該当するだろう。命ばかり働いて、柘榴は一日中デスクで煙草をふかしているだけなのだ。タダ飯食らいもいいところだ。

 いっそのこと、「鴻上探偵事務所」を乗っ取って、「釈迦戸探偵事務所」にしてやろうか――なんて、甘い誘惑に負けそうになる。しかし、まだ陰陽師と認められて一年足らずの命には、その資格は与えられない。個人で店を開くには、五年以上の経験が条件だ。

 それに、柘榴を二番手で操りながら仕事するのも、中々に楽しい。まるで参謀にもなった気分で命は仕事をしていた。

 失敗すれば、全部柘榴に苦情は押し付けられるという利点もある。失敗なんて、滅多にやらかさないが、念の為の用心である。

 問題があるとすれば、命が受けられる仕事の依頼は、すべて下級のものだということだ。新米の能力者は侮られ易い。馴染みの問屋であっても、上からの命令では、腕に自信があっても良い依頼はおろしてはくれない。それが、命は悔しかった。

 もし、柘榴が依頼を受けたならば、もっと割のいい仕事が回されてくる。変色した天井や壁紙を変えることだって、出来るかも知れない。もっと、雰囲気のいい事務所に移転することだって可能な筈だ。

「……なんか、視線がいつもより怖いよ釈迦戸くん? って、そんなことより! 来るんだって、鬼のような彼女が……!」

「彼女? 彼女って――」

 なんと、鬼というのは本当に比喩表現だったらしい。ややこしいから、もっと別の表現にして欲しかった。と言っても、命自身は思いつかないが。

 しかし、柘榴がこんなにも怯える「彼女」とは、一体何者なのだろう――。

 と、命の思考を遮るように、突然、凄まじい音と共に「鴻上探偵事務所」と印字されたガラスが粉々に砕け、乱暴と言うより、最早暴力的な所業でドアが蹴破られた。

 本能が危険を察知し、命の全身が総毛立つ。圧倒的な力で、ねじ伏せられたような圧力が這入ってきた人物より発せられる。

 柘榴も操り人形のような動作で、椅子から直立不動の体勢に立ち上がった。彼の身体中が震えている。こんな柘榴を、命は初めて見た。

「――相変わらず、時化たツラァしてんな、柘榴ちゃんよ」

「……お久しぶりです、天照(てんしょう)さん」

 女性のものとしては低い、掠れた声が部屋に響く。

 観念した表情で苦笑する柘榴は、命の知らない「素」の顔をしていた。

 命は侵入者から目が離せなかった。否、離すことを許されなかった。一体、この華奢な女性のどこから、この凄まじい威圧感は発せられているのか?

 鴉の濡れ羽色の髪をした女性は、凶暴な本性を隠すこともせず、萎縮する命の視線に獰猛な笑みを返した。命の背中に悪寒が走る。

 硬直したままの命に、柘榴は意外としっかりした声で声をかけた。

「――釈迦戸くん、コンビニでレギュラーコーヒー買ってきてくれない?」

「は――はい……!」

 ひらりと投げられた千円札を受け止めて、命はその場から一目散に逃げた。

 確かに、鬼だ――。恐ろしい、鬼を背負った……。呼吸が苦しい。心臓の音が煩い。

 まるで、人間ではない雰囲気を持っていた。神々しく、猛々しく、自分がちっぽけな存在であると、そばに居るだけで自覚させ続ける。

 命の自尊心(プライド)は、あの女性に出会った瞬間に、跡形もなく消失していた。

 コンビニへと疾駆しながら、命は逃げる口実をくれた柘榴を、ほんの少しだけ見直した。あの空気、そしてあの女性のそばに居る勇気は、命にはない。

 柘榴がくれた逃避の時間。命はぐっと唇を噛み締めた。


 ※ ※ ※


「あれが、新しく雇ったスケープゴートか? 柘榴ちゃん」

「失礼な、優秀な所員ですよ」

「アイツに全部仕事押し付けてんだろうが、笑わせんな」

「……」

 隠し事は逆効果だと、柘榴は長年の経験で知っている。彼女は嘘が嫌いだ。

 命が居なくなっただけで、この事務所は暗く乾燥しているような気がする。それは、柘榴がこの人物と二人きりになるのが苦手だからだろう。

 気まずい沈黙が続く。乾燥した唇がかさかさして痛い。唇をそっと湿して、柘榴は心を決めて彼女――天照と視線を合わせた。

「それで、わざわざ所長自らの来訪とは……六月一日(うりわり)探偵事務所も人手不足ですか?」

「馬鹿か。んなわけねえだろ。こっちは優秀な人材たくさんで毎日安泰だよ」

「そーですかー」

「おい、棒読みうぜえよ。本当に、相変わらずだなあ、お前」

 綺麗な舌打ちを響かせ、天照は煙草をくゆらせる。苦い薫りは、女性が吸うにはいささか重たい銘柄を感じさせる。

 シンプルなスーツを着こなした姿は、柘榴の昔の記憶となんら、変わらない。傲岸不遜な態度や、冷酷無比な言動、凍った視線。人を人とは思わない、そんな態度が滲みだしている、その神々しい姿は、まったく変化などしない。沢山の(しもべ)たちを従えて尚、孤高の獅子のように悠然と佇む。

 柘榴は、昔から天照のこの態度と性格が苦手だった。――今も、その気持ちは変わらない。 

「回りくどいのは好きじゃねえ。単刀直入に言う。俺の依頼を受けろ」

「やっぱり、そんなことだと思いましたけどね」

「理解が早い男で助かるわ。じゃ、決まりな」

「まだ受けるって言ったわけじゃ……」

「あ? 断るってえのか? この俺の依頼を?」

「……」

 柘榴は押し黙る。

 この事務所の状態で、選り好みをしている場合ではない。それくらい、柘榴だって自覚している。

 いつも、マトモな依頼が貰えないと悄然とした様子で帰ってくる命を見て、柘榴だってこのままではいけないと思っていた――矢先だ。

 やる気がない。臆病もの。そう天照に罵られ、冷笑されてきた。自覚もあり、痛感している、己の悪い癖。

「お前さ、いい加減、その信頼したニンゲンに全部“自分”をあずけちまう悪癖、なんとかしたらどうだ?」

「……貴方に言われたくないです」

「はあ? 俺はきちんと自分の仕事は自分でこなしてるっつーの! お前みてえに、助手に全権あずけてのうのうと所長の椅子に座ってるほど、落ちぶれちゃあ、いねえんだよ」

「……」

 言い返せない、自分が憎い。

 しかしそれが、紛れもない事実なのだ――。

 紫煙で曇った事務所の中で、二人は暫時、沈黙する。

 一方は余裕然として、一方は途方に暮れたように。

「……ちょっとはよ、変わったと思ってたんだがな、個人で仕事始めて」

 盛大に紫煙を吐き出しながら、ぽつりと天照が呟いた。切れ長の瞳はひたと柘榴を見つめ、離さない。

 時間は午後三時を回ったところか。外はブラインド越しでもわかるくらいに、薄暗い。これは一雨くるな、と柘榴が心中で囁いた途端、水滴が窓を叩く音が微かに聞こえた。

 安っぽい蛍光灯で照らされた室内は、再び沈黙に支配される。

 ――やがて、観念して柘榴は息を吐いた。 

「わかりました……お受けします、依頼」

「最初からそう言えばいいんだよ」

「貴方からの依頼なんて、どうせ碌でもないでしょう。だから、嫌なんですよ」

 灰色のくしゃくしゃの髪を掻き混ぜて、柘榴は嘆息する。

 こちらに回してくるほどの依頼だ。どうせ、危険な仕事か、もしくは――。

「当たり前だろ。ほら、これが書類とその他諸々の資料だ」

 ばさりと、長机の上に無造作に投げ捨てられるように、大きめの茶封筒が置かれる。ずっしりと重いそれに手を伸ばして、柘榴は顔をしかめた。

「どす黒い……やけに気味悪い気を纏ってますね」

「なんだ、鈍ってねえじゃねえか、お前の観察眼」

 にやり、そんな音を背後に背負って、天照は邪悪な笑みを浮かべた。

 もう何本目かわからない煙草を灰皿に捻じ込み、天照は柘榴の方へと身を乗り出し、不気味な甘い声で囁いた。

「本当は、俺が直々に行って終わらせたいくらい、面白いヤマなんだけどな。生憎、女は入れないんだよ、そこ」

「――やっぱりね」

 受けるんじゃなかった。今更思っても仕方ないが、改めて目の前にいる元上司の性格破綻者振りに柘榴は怒りを覚えた。

 茶封筒を皺になるほど握りしめて、柘榴は天照に引き攣った笑みを返す。

「長期なら、それなりの報酬、いただきますからね」

「おうよ、それくらい、裕福なうちの事務所が全部負担してやるってーの」

 余裕たっぷりに宣言されて、柘榴は押し黙るほか、なにも出来なかった。嫌味にもほどがある。

 その時――遠慮がちに、ガラスの吹き飛んだドアが開かれる。そこから、まるで怯えた小動物のような格好で、命が顔を覗かせた。

「あ……あの、コーヒー……」

「折角買ってきてくれたとこ悪いが、俺はそろそろお暇すんぜ」

「……っ!」

 体重を感じさせない動きで、天照は一気に椅子から立ち上がり、怯える命の前までひと呼吸の間で歩み寄った。相変わらずの神業に、傍観していた柘榴でさえ背筋をぞっと冷たい感触が駆け抜ける。命は最早思考が停止したかのように、天照を見上げて硬直している。

 凄みのある冷笑が、天照の唇を彩った。

「せいぜい、這い上がってこいよ、小僧。柘榴になんざ、潰されてんじゃねえよ」

「あ……う……」

 言葉も上手く発することが出来ない命の、艶のない黒髪の頭をぐしゃぐしゃに掻き混ぜ、天照は訪れた時と同じく、唐突に颯爽と立ち去った.

 冷えた沈黙が、命と柘榴を包む。

 ドアの前で震えて唇を噛む命に、柘榴はゆっくりと苦笑した。そして茶封筒をひらひらと振ってみせる。

「釈迦戸くん――お仕事、来たよ」

「――え?」

 仕事、の言葉に、やっと命の表情から強張りが溶けていく。

 そろそろとソファの近くまで寄ってくる命に、柘榴は苦笑を顔に貼り付けたまま、ゆっくりと言った。

「釈迦戸くん、悪いけど、学生に戻ってね?」

「は――えええ……?」

 命の両目が一気に点になった。

 思考がついてこない。混乱は続いている。靄がかかったように、柘榴の言葉がこもって聞こえる。

 愚鈍な脳が、さっきから反乱を起こしている。

「ごめん……今回は、僕も参加するから――」


 久しぶりに聞いた柘榴の積極的な言葉も、今の命にはまったく現実味のない響きで通り過ぎていった……。



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