あべしさんとひでぶさんと旅人
むかしむかし、あるところに、あべしさんとひでぶさんが住んでいました。あべしさんは荒れ地を耕して野菜を作り、ひでぶさんは川で魚を獲って暮らしていました。あべしさんとひでぶさんはお隣同士で、暮らしは決して楽ではありませんでしたが、互いに助け合い、仲良く暮らしていました。
――ピシャ、ゴロゴロゴロ、ドーン!
窓の外が鋭く光り、近くで雷鳴が轟きます。あべしさんとひでぶさんは肩をすくめ、互いの顔を見合わせました。
「落ちたね」
「近いねぇ」
まだ日没は遠いというのに外は薄暗く、激しい雨が屋根を叩いています。黒雲が厚く空を覆い、雨は当分止みそうにありませんでした。
「帰れるかなぁ?」
ひでぶさんは困ったように腕を組みます。魚の干物を手土産に、ひでぶさんはあべしさんの家に遊びに来ていたのです。ひでぶさんの心配を拭うように、あべしさんは笑って言いました。
「泊っていったらいいよ。実は、いいお酒が手に入ったんだ」
「本当に? 悪いねぇ」
お酒、という言葉にひでぶさんの表情が和らぎます。独りで飲んでも仕方ないからね、と応え、あべしさんは窓の外に目を遣りました。
「朝は晴れていたのにね」
「最近は天気がコロコロと変わるねぇ」
昔は、雨というものはもっと、しとしとと降るものでした。でも最近は、降るとなったらバケツをひっくり返したような激しい雨ばかりです。あべしさんは困ったようにつぶやきました。
「畑は大丈夫かな?」
「見に行ったらだめだよ。命が大事」
釘を刺すようにひでぶさんが言って、あべしさんは苦笑いと共に「はい」と答えます。ひでぶさんは「よろしい」と仰々しくうなずき、二人は吹き出すように笑いました。
――コン、コン
雨音に紛れて玄関の戸を叩く音が聞こえ、あべしさんとひでぶさんは驚いたように顔を見合わせました。
「……もし、どなたかいらっしゃいますか?」
どうやら玄関の外に誰かがいるようです。こんな豪雨の中、いったい誰が、ほとんど誰も住まないこんな場所を訪れたというのでしょうか? 声の主は切実な声音で言葉を続けます。
「突然の雨で難儀しております。どうか、軒先をお借りできませんでしょうか? 雨が止めばすぐに出ていきますから」
あべしさんは慌てて玄関に駆け寄ると、ガラガラと引き戸を開きました。ひでぶさんもあべしさんの後を追います。玄関先には、ぼろ布のような外套に身を包んだ大柄な男性が、ずぶ濡れの姿で立っていました。
「それは大変でしたね。さあさあ、どうぞ中へ。すぐに身体を拭くものをお持ちしますね」
あべしさんは旅人を玄関の中に招き入れると、すまなさそうにひでぶさんに言いました。
「悪いけど、奥のタンスから着替えを持ってきてくれる?」
「お安い御用だ」
「すまないね。お客様を使ってしまって」
気にするな、と言うように笑って、ひでぶさんは軽やかに身を翻します。旅人は慌てたように言いました。
「いえ、そんな、御迷惑をおかけするわけには。雨さえしのげればそれで」
遠慮する旅人に、あべしさんはたしなめるように言いました。
「そんな格好のままでは風邪を引いてしまいますよ。こういうときは、お互い様です」
旅人の返事を待たず、あべしさんはタオルを取りにお風呂場に向かいます。旅人はあべしさんの背に深くお辞儀をしました。
あべしさんからタオルを受け取り、旅人は水滴が散らないよう慎重に外套を脱ぐと、濡れた髪を拭きます。旅人は、あべしさんより少し若いでしょうか、服の上からでもわかる引き締まった体つきの、精悍な男性でした。ひでぶさんが手に着替えを持ってどたどたと走ってきます。着替えを差し出すひでぶさんに丁寧にお礼を言って、旅人は服を脱ぎました。
「それは――」
上半身を露わにした旅人の姿を見て、ひでぶさんが目を見開きます。旅人の胸には、まるでひしゃく星のような形の傷がありました。ハッと表情を強張らせ、旅人は手早く身体を拭うと、着替えに袖を通しました。
「お見苦しいものを」
固い口調で旅人が頭を下げます。ひでぶさんは「いえ」と短く答えました。どこか重苦しい緊張が辺りを包みます。あべしさんはパチンと手を叩き、明るい声で言いました。
「そうだ! 少し早いけれど、食事にしませんか? 実は彼――ひでぶさんが美味しい干物を持ってきてくれて、一緒に飲もうと言っていたところだったんですよ」
旅人は驚いたように目を丸くします。
「い、いえ。そこまでしていただくわけには――」
「いいお酒が偶然、手に入ったんです。いいものは、分かち合わないとね」
朗らかに笑って、あべしさんは招くように手で奥の部屋を示しました。
「ようこそ、旅人さん。何もないところですけど、上がってください」
企みも打算もないあべしさんの笑顔に毒気を抜かれたように小さく笑って、旅人は軽く頭を下げました。
「……では、お言葉に甘えて」
旅人をリビングに通すと、あべしさんは七輪の準備を始めます。ひでぶさんは、旅人の胸の傷を見てからずっと、何か考えているように黙っていました。あべしさんは炭袋から炭を取り出しながら旅人に話しかけます。
「差し支えなければ、お名前を伺っても?」
旅人は居住まいを正し、背を伸ばして、一瞬だけ言いよどみ、答えました。
「……ケンシロウ、と申します」
ひでぶさんはハッと、何か違和感を覚えたような顔でケンシロウと名乗った旅人を見つめました。あべしさんはマッチを擦って藁に火を点け、七輪の炭に火を移します。
「私はあべし、彼はひでぶさんです。この辺りは私とひでぶさんしか住んでいないから、突然雨に降られて大変だったでしょう? 雨宿りする建物もない」
炭が上げる炎を見つめ、旅人は「ええ」と短く答えました。陽が落ち着くのを待ちながらあべしさんは話を続けます。
「どちらまで行かれる予定ですか? こんな辺鄙な場所に旅の方が訪れるなんて、珍しいから」
ケンシロウは言葉を吟味するようにゆっくりと答えました。
「どこ、という当てはないのです。各地を巡り――医者の真似事のようなことを、させてもらっています」
「なんと! お医者様でしたか!」
あべしさんは尊敬の眼差しをケンシロウに向けました。ひでぶさんの表情が少し険しくなります。ケンシロウは痛みに耐えるように顔を歪ませ、首を横に振りました。
「真似事です。正規に学んだわけじゃない。でも――」
ケンシロウは目を伏せ、呻くように言いました。
「――償わねば、なりませんから」
その切実な声音に、あべしさんの手が止まります。ケンシロウをじっと見つめていたひでぶさんは、重い口をゆっくりと開きました。
「――あなたは、本当にケンシロウという名前ですか?」
弾かれたように顔を上げ、ケンシロウはひでぶさんを見つめます。
「……なぜ、そんなことを?」
ひでぶさんはわずかに視線を揺らせ、覚悟を決めたようにまっすぐにケンシロウを見据えました。
「あなたは、本当はジャギという名前ではありませんか?」
ケンシロウはビクリと肩を震わせます。その顔から血の気が引き、呼吸が少し浅くなりました。何も答えられないケンシロウに、ひでぶさんは背を伸ばし、はっきりと言いました。
「私は十年前の戦争の、あの最後の突撃作戦に参加した者です、ジャギ大尉」
十年前、大きな戦争がありました。世界を巻き込んだ戦争でした。たくさんの人が命を落としました。兵士も、市民も。戦争は、世界の国々に大きな爆弾が落ちて終わりました。そして、文明は滅びました。
ケンシロウ――ジャギは固く目を閉じ、大きく息を吐くと、床に手を突いてひでぶさんに頭を下げます。
「――申し訳ございません」
ひでぶさんは首を横に振りました。
「頭を上げてください。謝罪が欲しいわけじゃない」
「いいえ。作戦本部の人間として、私は謝る以外に術がありません」
床に額を付けるジャギの肩にひでぶさんはそっと手を添えます。
「あなた以外の人間であったら、私は怒りをぶちまけていたでしょう。でもあなたは、最後まであの突撃作戦に反対していたと聞いています。それが原因で前線送りになったとも」
肩を掴み、やや強引にひでぶさんはジャギの身体を起こしました。
「あなたは私たちの救いでした。あのバカげた突撃作戦に反対する人がいた。あの作戦は、やはり最初からバカげたものだったのだと、私たちが間違っていたわけではないと、信じられた。だから、謝らないでください」
ジャギはひでぶさんの顔を見つめ、拳を握ります。
「私にもっと力があれば、皆を死なせることはなかった!」
唇を噛み、ジャギはうなだれました。強く握った拳が白く震えています。ひでぶさんもまた、何かを思い出すように目を伏せます。二人の様子を見ていたあべしさんが、静かに口を開きました。
「……おふたりは、大陸だったんですね」
ジャギは顔を上げ、「あなたは?」と尋ねます。小さく笑って、あべしさんは答えました。
「私は、南でした」
ジャギとひでぶさんは息を飲み、目を見開きます。
「大変な、ご苦労を――」
あべしさんは遠くを見るように視線を上げました。
「ひどいものでした。でも、それはお二人も同じでしょう? ひどくないものなんてなかった。戦争にひどくないものなんてなかった」
十年前、大陸では敵の戦力を過少に、味方の戦力を過大に評価した作戦本部が妄想によって立案した軍事作戦によって前線の兵士たちが消費財のように命を落としていきました。
――我が軍の威容を目の当たりにすれば、敵は戦う前から慄き、武器を手放して命を乞うであろう
――強き意志と気高き精神があれば銃弾は自ずから軌道を変える。怖れるな!
そんな妄言が大真面目に飛び交っていました。そして、その妄言を発するのは、決して銃弾に身を晒さない人々でした。
南の戦線では、陸軍と海軍の不和によって連携がままならず、作戦行動はことごとく失敗し、補給線を断たれ、物資の調達に失敗し、兵士たちは敵と見えることもなく、飢えと南国の病気によって次々と倒れていきました。責任を問われることを怖れ、上級将校たちは誰も自らの意志で改善に動かず、状況の悪化を漫然と見ているだけでした。
――病気など怠惰の証!
――空腹など気合で克服せよ!
そんなバカげた命令によって、南方戦線に送られた部隊のおよそ六割が戦う前に命を落としたのです。
「でもね」
あべしさんはジャギに顔を向け、透き通った瞳で言いました。
「恨みも、憎しみも、痛みも全部、忘れました。忘れなければ生きていけなかった。私は、不誠実な人間ですから」
あべしさんの乾いた笑顔に、ジャギもひでぶさんも、何も言うことができません。あべしさんは七輪の炭に目を向けると、立ち上がって言いました。
「炭もいい感じになりましたね。さあ、焼きましょうか。ひでぶさんの魚の干物は絶品だし――」
手でおちょこを形作り、あべしさんは茶目っ気たっぷりに笑います。
「――外は嵐だ。飲み明かすにはちょうどいい」
ふっと力が抜けたように、ジャギとひでぶさんは小さく笑いました。
夜が明け、嵐は止んでいました。床には空の一升瓶が転がっています。三人で飲み明かすには足りないお酒を、三人はちびちびと舐めながら夜通し話をしました。戦争が終わって十年。互いがどうやって生きて来たのか。これからどうやって生きていくのか。気づいたもの、忘れたこと。本当に大切なものは、何なのか――そんな話を。
乾かしていた服をまといジャギは玄関先に立っていました。ジャギを見送るためにあべしさんとひでぶさんも外に出ています。あべしさんは空を見上げます。昨日の雨が嘘のように、空は澄んだ青色をしていました。廃墟となりツタに覆われたビル群が雨粒をまとって朝の光をキラキラと反射しています。
「旅を続けられるのですね」
ひでぶさんはジャギに言いました。ジャギは静かにうなずきます。
「それが、私にできる償いだと思っています」
ひでぶさんはジャギの目をまっすぐに見つめます。
「私はあなたを尊敬します。忘れることも、逃げることもできた。それでも、あなたはそれをしなかったのだから」
ジャギは目を伏せ、首を横に振りました。
「私は、そんなに大層な人間ではありません」
その顔に、苦悩と後悔が滲みます。
「私は未だに分からないのです。私は戦争に加担したのに、あの戦争が何だったのか、皆は何のために戦い、何のために死んだのか、何も分からないのです。あの戦争は、いったい何を得るための戦いだったのか、分からないのです」
あべしさんはジャギに顔を向けて微笑みました。
「戦争で得られるものなど、ありません」
ジャギは驚いたようにあべしさんを見つめます。そして、すとん、と腑に落ちたようにうなずきました。ひでぶさんも同意するようにうなずきます。ジャギは小さく笑って、澄んだ空を見上げました。
「……ケンシロウ、という名前」
ジャギはつぶやくように言います。
「私の、弟の名前なんです。きっとあいつなら、こうするだろうと思ったから」
あべしさんはジャギの視線を追い、顔の前に手をかざして、
「……生きていることを喜ぶ時間は、もうとっくに過ぎてしまったけれど」
まぶしそうに朝の太陽を見上げました。
「私たちは生きていくんです。明日も、明後日も」
ジャギは「はい」とうなずき、二人に向かって深く頭を下げました。
「お世話になりました。昨夜のことを、私は生涯忘れないでしょう」
ひでぶさんはジャギに右手を差し出します。
「お元気で」
「あなたも」
ジャギはひでぶさんの手を強く握り返し、もう一度礼をして、二人に背を向けて去っていきました。
ジャギの背が見えなくなるまで見送ったあと、ひでぶさんは視線を前に向けたまま言いました。
「あべしさんが南方に行っていたなんて、知らなかった」
「私も、ひでぶさんが大陸で戦っていたなんて知らなかったよ」
二人は顔を見合わせます。相手のことを何でも知っているわけではない――そんな当たり前のことに気付いて、二人は同時に破顔しました。
「また飲もう」
「うん、飲もう」
未来の約束をして、あべしさんは大きく伸びをします。
「さあ、片付けようかな。畑の様子も見に行かないとね」
「手伝うよ」
あべしさんがひでぶさんの申し出にお礼を言って、二人は玄関の中に入っていったのでした。




