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夫が未亡人を「我が家で保護する」と言ってきました

作者: 星森 永羽
掲載日:2026/03/15




 玄関の扉が開き、外気と一緒にクロードが入ってきた。

 濃紺の外套に金糸の刺繍、整えられた黒髪に灰色の瞳。


「カタリナ、ただいま」


 私は出迎えながら、彼の後ろに立つ見知らぬ女に目を留めた。

 淡い金髪をゆるく巻き、喪服のような黒いドレスを着ている。

 肌は雪のように白く、瞳は薄紫。

 弱々しい雰囲気をまとっていた。


「おかえりなさい。そちらの方は?」


「フローレ・ミルサンジュ前侯爵夫人だ」


 見たことのない顔だ。

 どういうことなのかしら?


「夫に先立たれ婚家から追い出されたが、実家は没落していて行くところがないという。

 だから、うちで保護することにした」


「は? 保護?」


 思わず声が鋭くなる。


 女──フローレは、小さく頭を下げた。


「よろしく、お願いします」


 その声音はか細く、同情を誘うような響きがあった。


「では、応接室に──ご案内して」


 私がメイドに言うと、クロードが眉をひそめた。


「何で応接室なんだよ。

 客室でいいだろう」


「私は初対面なんだから、どういう経緯で何故うちに来たのか? 聞かなければいけないでしょう」


「そんなの俺が後で説明するから、今は彼女を休ませるんだ」


「ふうん? まあ、いいけど」


 私は、フローレを客室へ案内させた。


 彼女は小さく礼をして、静かに廊下へ消えていく。


「では、夕飯前に聞くから着替えてきて」


「わかった」


 クロードは軽く頷き、自室へ向かった。

 



 夕飯前のテラスは、春先の冷たい風が吹き抜けていた。


 私は椅子に腰を下ろし、向かいに座るクロードを見据える。


「それで?」


 私が促すとクロードは、話し始めた。


「彼女は先日、亡くなったミルサンジュ前侯爵の後妻だ。

 未亡人になった途端『出てけ』と言われたが、実家のデビス男爵家は没落していて帰るところがないんだ」


 私は眉をひそめる。


「まず、何の知り合いなの?

 社交場で会ったことないんだけど」


「見てわからないか。

 俺の学園時代の同窓生だ」


 わかるわけないだろう。


 彼は私より5つ上で、貴族学園は3年制。

 同じ時期に在籍していない。


「恋愛という意味で交際していたの?」


 クロードが学生の頃には、すでに私との婚約が決まっていた。


「そんなわけあるか。

 俺は、そんな不誠実じゃない。

 ただ、一方的に片思いしてただけだ」


 ……うん、微妙なラインね。


「で、実家が没落って何?

 貧乏ってこと? それとも取り潰しになったってこと?」


「貧乏だった」


「じゃあ、爵位を売って平民になったのね?」


 後で貴族名鑑を調べればわかることだ。


「そこまでじゃない。爵位はある。

 ただ、平民同様の貧しい生活をしてるって事だ」


「何で爵位を売らないの?」


「君は、彼女に平民になれって言うのか」


 夫は、少し怒ったように言う。


 確かに婚家から籍を抜かれたら、そうなる。


「今日会ったばかりの他人が平民になるかならないかなんて、どうでもいい」


 私は肩を竦めて、お茶を飲む。


 夕暮れの光がテラスに差し込み、彼の表情を半分だけ照らしている。


「……冷たい人間だな」


「わかった。じゃあ、私の同級生にも借金まみれの伯爵令息がいるから、その人をうちで保護するね」


「なんで俺が、赤の他人を養わないとならないんだよ」


「冷たい人間ね」


 彼は言葉を失い、唇を閉じたまま固まった。


「……」


「えっと次、追い出されるって何?

 別に出されても、良くない?

 何で婚家にいなきゃいけないの?

 私だったら秒で実家に帰るけど」


「行くところがないのに、追い出されたら可哀想だろ」


 クロードは眉を寄せ、まるで自分が守るべき弱者を抱えている英雄気取りだ。


「遺産で家を買うか、建てて住めばいいだけでしょ」


「その遺産も貰えないんだ」


 私は肩をすくめた。


「弁護士、紹介すればいいじゃない」


「……可哀想だろ」


「何で?」


 クロードは少し声を荒げた。


「心細くて、誰かに頼りたいだろう」


「だから弁護士に頼ればいいじゃん。未成年じゃあるまいし。

 逆にその程度の手続きもできないような無能な人間なら、追い出されて当たり前じゃない。貴族失格だもの。

 そんな人の親なら、実家が没落するのも自業自得」


 クロードは口を開きかけ、しかし私の反撃を察したのか、喉の奥で言葉を飲み込んだ。


 どうせ「冷たい人間だな」とでも言うつもりだろう。


「……君は……」


 やっぱり言いかけて黙った。


「で? 何で社交界に出てないのに、彼女の事情を知ってるの?

 手紙でも来たの?」


「通勤途中に倒れてたんだ」


「は?」


「朝、道に倒れてて王宮の救護室に運んだんだ。

 それで意識がしっかりしてから、事情を聞いた」


「普段から手紙のやり取りをしてたんじゃなくて?」


「ああ、学校を卒業してからは会ってない」


 その割に、ずいぶん肩入れするのね。


「ふうん? それで今後どうするの? いつまで保護するの?」


「そんなの、必要なくなるまでに決まってるじゃないか」


「必要なくなるっていうのは具体的に、どういう条件? 再婚するってこと?」


「再婚? 再婚する必要なんかないだろ。ずっと居ればいい」


 ……は?


「はあ? 客対応で死ぬまで面倒みるってこと?」


「客って……そんな、家族になればいいだろう」


 家族。

 その言葉に、私の中で何かが冷たく固まった。


「それは第2夫人ってこと?」


「彼女が望むなら、それでいいだろう」


 その瞬間、私は立ち上がった。

 怒鳴りもしない。泣きもしない。

 ただ、淡々と事務的に告げる。


「それなら、あなたが彼女と家から出てって。

 息子を次の伯爵にして、私が中継ぎとして仕事するわ。

 ──さよなら」


 クロードの顔から血の気が引いた。


 当然よ。

 私はこの家の正妻であり、ヴァルシュタイン辺境伯の娘。


 そして、レーヴェンス伯爵家の実務を支えてきた。


 彼がいなくても家は回る。

 むしろ──彼がいない方が、ずっと。


 クロードは口を開き、しかし言い返す言葉を探しているように喉が震えた。


「そんなこと言ってないだろう」


 言ったも同然よ。

 でも、いちいち答える必要ない。

 話を進める。


「それで、あなたは彼女の話どこまで調べたの?」


「調べたって?」


「ミルサンジュ侯爵家とデビス男爵家に確認したの?」


 クロードは眉をひそめ、まるで私が理不尽なことを言っているかのように返す。


「彼女が嘘つくわけないだろう」


 私は、ため息をついた。


「もういいわ」


 家に入るため、ドアノブを掴む。

 クロードが慌てて私を見る。


「言っておくけど両家の親には、すでに早馬で知らせたから」


「は? どういう……? なんで?」


「直に当主、降ろされるんじゃない?

 まだ、わかんないけど。

 今のうちに出てけば?」


 クロードの顔が真っ青になった。

 そのまま私はテラスのドアを開けた。


 ──そこには待機していた4人が立っていた。


 黒い外套を着た弁護士。

 白手袋の執事。

 帳簿を抱えた監査人。

 そして、腰に剣を下げた憲兵。


 全員が、私に軽く会釈する。


 クロードが慌てて追いかけてきて、4人を見た瞬間、目を見開いた。


「ま、待って。大袈裟だろ、こんなの。

 ただ保護するだけなのに、何でこんな……?」


 私は振り返り、イライラを隠しもせず言い放つ。


「詐欺かもしれないんだから、外敵に備えるのは当たり前でしょう」


「彼女は、そんな人じゃない!」


「だったら初対面の人が、その言葉を納得するだけの証拠を出して」


「それは……だから、同級生とかに聞いてもらえれば」


「だったら今から使いを出して、その人たちに来てもらって」


「今すぐ呼ぶなんて迷惑だろう。

 なんで、そんなに大げさなんだ?」


 私はもう1度、深く息を吐いた。


「うるさくって殴りそう」


 クロードが、ビクリと肩を震わせ後退る。


 ──当然よ。


 私は辺境伯の娘。

 剣も馬も弓も叩き込まれて育った。


 対してクロードは、ただの文官。

 腕力も胆力も、私の方が上。


 私は4人を連れて、フローレのいる客室へ向かった。




 客室前の廊下には、テラスにいたのとは別の弁護士と憲兵、そして監査人が配置されていた。


 全員が無言で直立し、私が来るのを待っている。


 ついてきたクロードは、その光景を見た瞬間に顔色を失った。

 灰色の瞳が大きく揺れ、喉がひくつく。



 客室の扉を開けると、私の従者がすぐに立ち上がった。

 栗色の髪を後ろで束ねた、冷静沈着な青年だ。


「どうだった?」


 従者は丁寧に折り畳まれた紙を差し出した。

 そこにはフローレから聞き取った内容が細かく記されている。

 クロードが先ほど語った話と、ほぼ同じだった。


 私は紙を一瞥し、フローレに告げた。


「申し訳ないのですが、事実を確認し事件性がないと判断するまで、牢屋に入って貰います」


 クロードが叫ぶように声を上げた。


「バカな! いくらなんでも! 俺の連れてきた客だぞ!」


「それは牢屋に入れるなってこと?」


「当たり前だろう!」


 私は小さく笑った。

 その笑みが、クロードには恐ろしく見えたのだろう。

 肩が震えた。


「な、んだよ?」


「私と子ども達の荷物を全部、馬車に乗せて。

 親への伝達係を残して全員、移動します」


 使用人が慌ただしく出ていく。


「はあ? なんだ、それ? 待てよ!」


 クロードが焦って、私の肩を掴んだ。

 指が食い込み、痛みが走る。


「痛い!」


 その瞬間、憲兵が前に出た。


「暴行の現行犯です。

 騎士団の詰め所まで来てください」


「は? このくらいで? そんな! 詰め所って!」


 憲兵は淡々と手錠を取り出し、クロードの手首にかけた。

 金属音が響く。


「暴行の現行犯です。

 奥様から『抵抗した場合、殴っていい』と予め許可をいただいてますので、抵抗しないでください」


「な、なんだ、それ! 待て、待てって! 俺は──!」


 クロードは叫びながら、憲兵に引きずられていった。

 その声は廊下の奥へと消えていく。


 私は客室の中央に立ち、フローレを真正面から見据えた。


 彼女は怯えたように肩を震わせ、薄紫の瞳が揺れている。


「事実を確認して嘘があった場合、詐欺や家の乗っ取り未遂で被害届を出します」


 フローレは唇を震わせ、必死に首を振った。


「いえ、そんな……私、そんなつもりじゃ……」


「決定事項です。お引き取りください。

 犯行が確定すれば、裁判所で会うこともあるでしょう。

 それ以外は関わらないでください」


 憲兵が前に出る。


「出て行かないと、不退去罪の現行犯で逮捕することになります」


 その言葉にフローレは悲鳴のような息を漏らし、慌てて荷物を掴んで逃げていった。


「害虫駆除1段階目、終了。

 さあ、2段階目の準備をしましょう」


 従者たちが無言で頷く。





 ──翌日。


 義両親が駆けつけ、応接室で私は一連の経緯を説明した。


 舅は白髪混じりの髪を撫でつけ、姑は青ざめた顔でハンカチを握りしめている。


「ミルサンジュ侯爵家とデビス男爵家に早馬で確認を取ったところ──デビス男爵家は不正により準男爵に降格しており、"フローレの現状は何も知らない"と謝罪するのみ。

 ミルサンジュ侯爵家は“フローレが長年、使用人と不貞していたため、彼女の分の遺産とペナルティーを相殺すると伝えたところ居なくなった”とのことです」


 義父母は同時に息を呑み、深く頭を下げた。


「……すまない……本当に、すまない……」


 私は淡々と続けた。


「もう、クロード要らなくないですか?

 子どもも2人いるから血が絶えるわけでもないし」


 舅は顔をしかめた。


「バカだとは思ってたけど……しかし、あれでも血が繋がってるから……」


「え、なに言ってるんですか。

 あの未亡人が“クロードの子だ”と偽って使用人の子を生み、家を乗っ取ってたかもしれないんですよ?」


 義父母は完全に言葉を失った。


 義母の手からハンカチが落ち、義父は蒼白になって椅子に沈み込む。


 私はゆっくりと姿勢を正し、淡々と告げる。


「義父様は息子をバカだとわかってて、家格が上の私に押し付けたんですよね?

 もし男爵が失敗した陶芸品を“買え”と押し付けてきたら、どうしますか?

 私なら殴りますね『要らないゴミを寄越すな』って」


 伯爵と辺境伯なら辺境伯が上だ。


 夫という名のゴミを押し付けたこと、後悔させてあげる。


 義父は顔を覆い、深く頭を垂れた。


「本当に面目ない……」


 義母も涙ぐみながら頭を下げる。


「ごめんなさい……」


 私は続けた。


「恐らく未亡人は詐欺未遂になりますから、判決が出たら──わかってますね?」


 直接金品を奪っていなくても、居候すれば生活費が発生する。

 それが詐称行為の上なら有罪である。


 義父は震える声で言った。


「……親族に当主交代の連絡を入れる」


「できれば判決前の方が、傷が浅くて済みますけどね」


 未亡人が詐欺未遂になれば、クロードは“被害者”だと本人は思うだろう。


 だが──そんなバカが当主だったという事実そのものが、家の面子を深く傷つける。


 ゆえに、家としては“処分”せざるを得ない。


 義両親は重い溜息をついた。

 その肩が、老いと疲労で沈んでいく。


「まあ、せっかく来ていただいたんで、子ども達に会って行っていいですよ。

 ただし1時間ね」


 義父母は、とぼとぼと子ども部屋へ向かった。

 背中が小さく見える。


 ──これで“2段階目”も終わり。






 後日。

 クロードの処遇が決まった。


 略式裁判で禁固1週間。


 罰金を払えば即日釈放だったが、私が入金を拒否したため、そのまま刑務所行きになった。



 ──そして、彼が牢に入っている間に、もう1つの判決が下った。


 フローレ・ミルサンジュ。

 詐欺未遂、有罪。


 憲兵と監査人が、ドアを挟んで聞いた話を証言。


 フローレも、自供した方が罪が軽くなるため口を割った。


 “嘘をついて家に入り込もうとした”ことは認めたが、“乗っ取り”は否定。

 貴族としての生活を続けたかった、と供述したらしい。


 結果、ミルサンジュ侯爵家からも、デビス準男爵家からも縁を切られた。



 ──そして私は、子ども達が成人するまでの中継ぎ当主となった。






 2週間後。


 クロードが、みすぼらしい姿のまま徒歩で帰ってきた。

 黒髪は乱れ、服は皺だらけ。


 それでも本人は“当然の帰宅”のつもりらしい。


「帰ったぞ。

 おい、何で迎えを寄越さないんだ!

 っていうか、何で俺が有罪なんだ?

 あれぐらいのことで」


 私は深くため息をついた。


「これ、牢屋に入れてちょうだい」


 使用人達が即座に動き、クロードの両腕を掴む。


「は? ちょ、待て! なんでだよ! 

 俺は帰ってきただけだぞ! 離せ!」


 わめき散らす声が屋敷に響く。


 私はその騒音を背に、執事へ視線を向けた。


「息子を引き取る気があるのか、義両親に聞いてくれる?」


 執事は恭しく頭を下げた。


「すぐ使いをやります」


 クロードの叫び声が遠ざかる。

 私は静かに目を閉じた。


 ──これで、レーヴェンス家の“清掃”は最終段階に入る。





 牢屋の中は湿った空気がこもり、鉄の匂いが鼻についた。


 薄暗い中でクロードは床に座り込み、乱れた黒髪と無精髭を放置していた。


「なんで、お前はバカなんだ?

 自分の今の状況、わかってるのか。

 どうして誠心誠意、カタリナに謝らないんだ?」


 クロードは鉄格子越しに父を見上げ、まるで自分が被害者であるかのような顔をした。


「父さん、何言ってるの。

 あれぐらいのことで当主で夫である俺を刑務所送りにするなんて、ありえないだろう。

 しかも罰金も払ってくれない、迎えも寄越してくれない」


 ……本当に、何も理解していない。


 舅が私に視線を向ける。


「まだ話してないのか?」


 私は静かに頷いた。

 すると舅が息子に告げた。


「お前は、もう当主じゃないよ。

 親族会議で決定した」


 クロードの顔から血の気が引いた。

 灰色の瞳が揺れ、口がぱくぱくと開閉する。


「そこまで……たかが愛人候補連れてきたくらいで」


「家格が上の妻を娶って、愛人を家に置けるわけないだろう。

 辺境伯に斬られたいのか、お前」


 クロードは、子どものように視線を泳がせた。


「……でも、でも、だって……」


 義母はついに泣き出し、震える手で顔を覆った。


 私は淡々と告げる。


「ここに置いておいても仕方ないので、そちらで引き取って貰えませんか?」


「孫に悪影響だものね……」


 姑は頷いたが、義父は低い声で言った。


「いや、いっそカタリナに未亡人になって貰った方がいいだろう。爵位保留で」


「……未亡人……冗談だろう?」


 震える夫を無視して、私は提案した。


「では1年、拘留して改善の見込み"なし"となれば──事故で処理しましょう」


 義父母は無言で頷いた。

 クロードは鉄格子にしがみつき、声を裏返らせて叫ぶ。


「嘘だろ?! そんな……!」


「あんなわかりやすい嘘に騙されて、得体の知れない女を家に引き入れたんだぞ?

 もし、あの女が乗っ取りを計画して孫を殺したら、どうするつもりだったんだ」


「いや、彼女はそんな悪人じゃないよ。

 追い詰められて、ちょっと嘘ついてしまっただけだよ」


 義父は、説明しても理解しない息子を見限った。


「……カタリナ、ダメだと思ったら殺してください。

 もう何も言いません」


 私は軽く頭を下げた。


「分かりました。

 では、今後のことも含めて、上で食事しながら話しましょう」


 義父母は牢屋を後にし、私は最後にクロードを一瞥した。


 鉄格子の向こうで、彼はまだ現実を理解できずに震えていた。








 両親も使用人も親族も、誰1人として助けてくれない。


 どうしてだ?

 どうして、俺だけが悪者みたいに扱われているんだ?


 確かに、フローレを愛人にしたいという下心はあった。


 だが、そもそも人助けだ。


 だいたい貴族は政略結婚で、結婚後に恋愛するのは普通だ。


 俺は伯爵で当主なんだから、愛人の1人ぐらいいたっていいはずだ。


 カタリナのことが嫌いだったわけじゃない。

 だが、特別すごく好きっていうわけでもなかった。


 過去の恋愛が手に入るなら、それは幸せなことだろう。


 妻なんだから、応援してくれたっていいのに。


 どうして、あんなに怒るんだ?

 どうして誰も理解してくれないんだ?


 ああ、何がいけなかったのかな……。


 俺はただ、少し優しくしただけだ。

 困っている人を助けただけだ。


 なのに、どうしてこんな大事になっているんだ?


 でも……改心したように見せなければ。


 このままでは、本当に“事故”に見せかけて殺されてしまう。


 使用人や妻がここに来た時は、反省しているように振る舞わないと。


 そうしないと、本当に終わる。


 ……情けないな。


 やっぱり彼女のこと、拾わなければよかった。


 こんなことになるなんて、思わなかったんだ。









 春の陽射しが差し込む庭は、よく手入れされた芝生が広がり、花壇には母上が好きな白い百合が咲いていた。


 僕は屋敷の影に身を潜め、そっと庭の端を覗き込む。


 そこには粗末な作業服を着た1人の男が、黙々と庭の草を抜いていた。

 黒髪はぼさぼさで背中は丸く、威厳なんてどこにもない。


「兄上、何してるの?」


 弟のエリオが、無邪気な顔で僕の袖を引っ張った。

 8歳になったばかりの弟は、母似の柔らかい茶髪で、瞳は明るい琥珀色だ。


「しっ。母上に、ここにいることバレたら叱られる」


「なんで? 何もしてないのに?」


「いいから黙って。あれ見ろ」


 エリオは僕の指差す先を見て、首を傾げた。


「ただの庭当番じゃないか」


「あれは昔、確かに“父上”って呼んでたはずなんだ」


 エリオは目を、ぱちぱちさせた。


「えー、そんな記憶ないけどな」


「お前は、まだ小さかったからだよ」


 5年前の騒動の時──僕はまだ5歳だったけれど、それでも覚えている。


 母上は泣きも怒りもせず、ただ静かに“処理”していった。


「うーん? 何で、あそこで働いてるの?」


「さあ? 母上に聞いたら、ただ“忘れなさい”って」


 エリオは、あっさり頷いた。


「母上が、そう言うなら間違いないんじゃない?

 母上の言う事って、いつも正しいから」


「そうだな。俺たちには、ちゃんとした父上がいるしな」


 僕の胸に温かいものが広がる。


 母の再婚相手──ベルナール・アーデルハイト元伯爵令息。

 落ち着いた青色の瞳に、柔らかい栗色の髪。


 いつも僕たちの目線に合わせて話してくれる、優しい人だ。


「そうだよ。

『学園生の頃から互いに好きだった』って、父上が言ってたよ」


 エリオが嬉しそうに笑ったその時、屋敷の方から声が響いた。


「おーい、2人とも。

 ご飯できるから早く、おいで」


 ベルナールが手を振っている。

 白いシャツに紺のベスト、穏やかな笑顔。


 僕たちは顔を見合わせた。


「「はーい」」


 2人で駆け出す。


 背後で、庭当番の男──かつての“父”が、こちらを見た気がした。


 でも、僕は振り返らなかった。


 だって、僕たちには、もう“本当の家族”がいるのだから。





□完結□







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― 新着の感想 ―
子供達が危険かも知れませんね…。 上の子はクロードを覚えていますし、ベルナールがいるとは言え常に張り付いていられるわけでもない。 変な事を吹き込まれたり、自棄になったクロードに危害を加えられたりと(ま…
途中で一瞬出て来た妻の従者は 一つ縛りの茶色の髪でしたが、 ひょっとして彼は元伯爵令息、後の夫の ベルナールでしょうか?別の人かな? 借金があるなら場合により爵位を売り 仕事をしているでしょうが、もし…
わぁあう!クロードは結婚前から嵌められる予定では?笑 頭が良く無いと生き残れない世の中ですね!世知辛い(T ^ T) でも、家のために頑張ってる人が報われる方がいいですよねぇ!
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