姉のバレンタインはローマ式 〜うちの姉ちゃんは古代文明を実践したい〜
これは俺が古代ローマに似た異世界へと転生するよりずっと前、姉と過ごした思い出の一幕―――――
※
「……はぁ。結局、今年もこれか」
二月十四日、午後五時。
西日が差し込む自室の学習机で、小学五年生の匠は深いため息をついた。
目の前には、申し訳程度にラッピングされた小さな板チョコが一つ。
今日、クラスの女子たちが「男子全員に配るから」という事務的な号令のもと、ベルトコンベア作業のように配給してくれた、正真正銘の『義理チョコ』である。
期待していなかったと言えば嘘になる。
漫画やドラマのように、放課後の校舎裏で呼び出されたり、下駄箱に手紙が入っていたり……そんな甘酸っぱい展開を夢見なかったわけではない。
だが現実は非情だ。
甘い香りとともに誰かから特別な想いを託される
――そんな現代的なイベントは、どうやら今年も匠の元を素通りしていったらしい。
「別にいいけどさ。チョコはチョコだし。味は変わらないし……」
強がりを呟きながら、匠は椅子の背もたれにぐったりと体を預けた。
「クゥ〜ン……」
そんな匠の憂鬱を察したのか、足元から濡れたような甘い鳴き声が聞こえた。
見下ろすと、ミニチュアダックスの『きなこ』が、つぶらな瞳でこちらを見上げている。首にはバレンタイン仕様なのか、真っ赤なリボンが巻かれており、茶色い毛並みによく映えていた。
「なんだよきなこ、お前も慰めてくれるのか?」
匠が手を伸ばすと、きなこは短い足を精一杯伸ばして立ち上がり「ミーアキャット」のような直立姿勢をとった。
そして、匠の太ももに前足を乗せ、冷たく湿った鼻先をズボッと手のひらに押し付けてくる。
「ハフッ、ハフッ」
温かい吐息と、柔らかい毛並みの感触。
まるで元気づけようとしてくれている無垢な愛らしさに、匠の荒んだ心が少しだけ癒やされていく。
「お前だけだよ、俺に優しくしてくれるのは……」
匠がきなこの垂れ耳を撫でようとした、その時だった。
「――――甘いわね!」
バンッ! と勢いよくドアが開き、凛とした声が部屋の空気を切り裂いた。
ビクッとして振り返ると、そこには赤い布の切れ端を何本も束ねた「何か」を手に持ち、仁王立ちしている姉・真綾の姿があった。
「姉ちゃん……ノックくらいしてよ。それに何その格好、また変なこと考えてる?」
「変なこととは失礼ね。私はただ、弟が製菓会社の商業戦略に踊らされ、男としての野生を失っているのを憂いているだけよ」
真綾は部屋に入ってくるなり、匠の机の上にある義理チョコを一瞥し、鼻で笑った。
「そんな、カカオ豆を砂糖で固めただけの物体に一喜一憂して……いい? バレンタインのルーツを知っていれば、そんなメランコリックな顔にはならないはずよ」
「……ルーツ?」
「そう。現代では愛の告白だなんだと言っているけれど、その起源は古代ローマの『ルペルカリア祭』にあるのよ!」
真綾は大仰に両手を広げ、演説を始めた。
彼女は高校受験を控えた中学三年生だが、歴史への情熱(と奇行)は留まるところを知らない。
「ルペルカリア祭とはね、二月中旬に行われていた、もっと野性的で剥き出しの生命力を祝う儀式なの。そこには甘いチョコなんて存在しない。あるのは『走る男』と『逃げる女』そして『清めの鞭』だけ!」
「……えっと、何言ってるのか全然わからないんだけど」
「つまりね、男たちがヤギの皮で作った鞭を持って街を走り回り、出会った女性を叩くの。叩かれた女性には幸運と子宝が訪れると信じられていたわ。これこそが二月の語源『フェブラリー(清め)』の由来でもある神聖な行事よ!」
真綾の瞳が狂気的な輝きを帯びる。嫌な予感がした匠は、椅子ごとじりじりと後退った。
「へ、へぇー。昔の人は過激だったんだね。勉強になったよ。じゃあ俺、宿題あるから……」
「逃がさないわよ、ルペルクス(狼の神の奉仕者)!」
真綾は手に持っていた赤い布の束を、バシッと匠の机に叩きつけた。
「さあ匠、これを持ちなさい。これはヤギの皮……じゃなくて、私が古いTシャツを裂いて作った聖なる鞭『フェブルア(代用品)』よ。これを持って、庭で私ときなこを全力で追いかけなさい!」
「はぁ!? なんで俺がそんなこと! 近所迷惑だよ!」
「失礼ね、これは由緒ある伝統よ! 現代の草食系男子に足りないのは、この狩猟本能なの。この儀式を通して、その腐った根性を叩き直してあげるわ!」
「ワンッ!」
きなこも真綾の勢いに当てられたのか、それとも赤い布を新しいオモチャだと思ったのか「バウッ! バウッ!」と太い声で吠え、やる気満々で尻尾を振っている。
「ほら、きなこも『祭りの始まりだ!』って言ってるわよ。さあ、行くわよ!」
言うが早いか、真綾は窓を開け放ち、冬の庭へと軽やかに飛び出した。
きなこも「カシャカシャカシャッ!」とフローリングで爪を鳴らし、ドリフト走行でその後を追う。
「ちょ、待てよ姉ちゃん! 寒いって!」
匠は半ばヤケクソになりながら、赤い布の束を握りしめ、二人の後を追った。
◇
二月の夕暮れ。空気は肌を刺すように冷たい。
そんな中、我が家の狭い庭で、奇妙な追いかけっこが始まった。
「遅いわよ匠! そんな足取りじゃ、ローマの市民権は得られないわ!」
真綾は中学生らしい驚異的なスタミナで、庭木の間を縫うように走り回っている。
赤いマフラーをなびかせ、時折振り返って挑発的な笑みを浮かべるその姿は、確かに古代の祭りに参加する巫女のようにも見えた。
「はぁ、はぁ……! 姉ちゃん、速すぎ……!」
匠は息を切らして追いかけるが、運動部の現役中学生にはなかなか追いつけない。
手にした「フェブルア(Tシャツの切れ端)」を振り回すが、空を切るばかりだ。
「ワンワンッ! ワフッ!」
そして、この状況を一番楽しんでいるのがきなこだ。
地面スレスレの低空飛行で庭を駆け回り、匠の足元に絡みついてくる。
時には匠が振り回す布の端に飛びつき「グルルルッ」と唸りながら引っ張り合いを挑んでくる始末だ。
「きなこ! 邪魔しないでよ! 危ないって!」
「甘いわね匠! 聖獣すらも味方につけてこそ、真の英雄よ!」
「ただ遊ばれてるだけじゃんか!」
匠はきなこのタックルを避けつつ、再び真綾を追う。
客観的に見れば、赤い布を振り回す小学生とそれを笑いながら逃げる中学生、そして狂喜乱舞する犬。通報されても文句は言えない奇行の極みだ。
だが。
(……なんか、どうでもよくなってきたな)
冷たい風を吸い込み、全力で手足を動かしているうちに、匠の胸にあった「義理チョコ一個」のモヤモヤとした悩みは、汗と一緒に蒸発していった。
単純に、体を動かすのが気持ちいい。
姉ちゃんの楽しそうな笑い声と、きなこの無邪気な鳴き声。
バレンタインだとかモテるとかモテないとか、そんな些細なことよりも、今この瞬間の「意味のわからない熱気」の方が、よほど生きている実感があった。
「よし、捕まえてやる!」
匠は最後の力を振り絞り、芝生の上を加速した。
狙うは、花壇の角を曲がろうとした真綾の背中。
「そこだぁッ!」
「きゃっ!?」
匠が大きく踏み込むと同時に興奮したきなこが真綾の足元に「テコテコテコッ」と突撃した。
不意を突かれた真綾がバランスを崩し、芝生の上に転がる。
匠はその隙を見逃さず、手にした赤い布で、真綾の背中を「ペチッ」と軽く叩いた。
「ハァ……ハァ……! 当たった! 俺の勝ちだ!」
匠は勝利の雄叫びを上げ、そのまま力尽きて真綾の横に大の字に倒れ込んだ。
◇
空には一番星が光り始めていた。
激しい運動の直後で、体中がカッカと熱い。冷たい芝生の感触が心地よかった。
「……ふふっ。やるじゃない、匠」
隣で空を見上げていた真綾が、呼吸を整えながら笑った。
乱れた髪を直そうともせず、満足げな表情をしている。
「……きなこのアシストがあったからね。反則だよ、あんなの」
「運も実力のうちよ……それにしても、いい運動になったわね」
真綾はむっくりと起き上がると、ポケットから何かを取り出した。
それは、綺麗にラッピングされた、手のひらサイズの小さな箱だった。
「……はい、これ」
ぶっきらぼうに差し出されたそれを、匠は瞬きして見つめる。
「……え、これ何?」
「言ったでしょう、叩かれた人には幸運が訪れるって……さっき、見事に一撃もらったから。その、ご利益を先渡ししてあげるわ」
真綾は少しだけ顔を赤らめて、プイッと匠から視線を逸らした。
夕闇のせいかもしれないが、その耳たぶはほんのりと赤い。
匠がおそるおそる箱を開けると、中には宝石のように艶やかなトリュフチョコレートと、オレンジピールにチョコをかけたオランジェットが並んでいた。
コンビニやスーパーで売っているものではない。カカオの芳醇な香りが漂う、明らかに手の込んだ手作りだ。
「これ……姉ちゃんが作ったの?」
驚いて尋ねると、真綾は慌てて眼鏡の位置を直した。
「か、勘違いしないでよね。これはあくまで歴史的再現実験の副産物よ! ルペルカリア祭の後に来る、キリスト教的な愛の祝祭……その変遷を味覚で理解するための『比較検証』なんだから!」
「……検証って。こんな本格的なのを?」
「それに……あんまり匠が『一個しかもらえなかった』って情けない顔をしてるから、姉として慈悲を与えただけよ。感謝しなさい」
早口で言い訳をまくし立てると、真綾は「きなこ、行くわよ! 風邪ひく前に戻るわよ!」と足早にリビングへ歩き出した。
きなこが「待ってー!」と言わんばかりに、耳をパタパタさせながらその後を追いかける。
取り残された匠は、手の中の箱を見つめ、それから一粒、トリュフを口に放り込んだ。
「……ん」
口どけは滑らかで、上品な甘さとほろ苦さが広がる。
冷え切った体に染み渡るような、深く、優しい味だった。
義理チョコの何倍も……いや、比較にならないほど美味しい。
「……普通にくれればいいのに」
匠は苦笑しながら立ち上がった。
比較検証だとか、慈悲だとか言っていたけれど、このチョコを作るのにどれだけ時間がかかったのか、想像するのは難しくない。
受験勉強の合間を縫って、弟のためにこれを用意してくれていたのだ。
そう思うと、なんだか胸の奥がくすぐったくなる。
「おーい、待ってよ姉ちゃん」
匠がリビングに戻ると、きなこが「僕のは?」とばかりに真綾の足元で飛び跳ねていた。
「はいはい、きなこにはこれね」
「ワフッ!」
真綾が犬用のボーロをあげ、きなこが良い音を立ててボーロを噛み砕く横で、匠は残りのチョコを大切に箱にしまった。
「姉ちゃん、ありがと……来年はもっと上手く逃げてよね」
「ふふん。来年はスパルタ式の障害物競走にするつもりだから、覚悟しておきなさい」
不敵に笑う姉と、しっぽをプロペラのように回す愛犬。
古代ローマの荒々しい祭りの余韻の中で匠は「ま、義理チョコ一個でも悪くないか」と、今年のバレンタインに満足するのだった。
【お知らせ】
2月13日(金)から2月22(日)までの10日間、17時30分に毎日投稿します。
スケジュール
13金曜:武器物語28話
14土曜:うちの姉ちゃん〜バレンタイン編
15日曜:うちの姉ちゃん〜ローマのプリン編
16月曜:武器物語29話
17火曜:うちの姉ちゃん〜雪玉編
18水曜:武器物語30話
19木曜:うちの姉ちゃん〜『蜻蛉切』編
20金曜:武器物語31話
21土曜:うちの姉ちゃん〜猫の日前日譚
22日曜:武器物語・特別短編
ぜひ、お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。
本作をお読みいただきありがとうございます。
お楽しみ頂けましたら★★★★★評価お願いいたします。
連作短編『うちの姉ちゃんは古代文明を実践したい』シリーズは複数公開していますので、そちらもご一読いただけましたら幸いです。
【匠の「その後」の物語はこちら!】
本作で匠が学んだ「無駄すぎる知識」が、異世界で最強の武器になる――!?
匠が古代ローマ風異世界に剣闘士として転生し、姉ちゃんの知識で成り上がる本編、『転生式異世界武器物語』も好評連載中です!
本編では実在した武器の“武器解説”、絵師様による“挿絵”付きの豪華な長編となっています。
ぜひ合わせてチェックしてみてください!
『転生式異世界武器物語』
https://ncode.syosetu.com/n3948lb/
※こちらのイラストにはAIを使用して製作しております。




