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うちの姉ちゃんは古代文明を実践したい

姉のバレンタインはローマ式 〜うちの姉ちゃんは古代文明を実践したい〜

作者: 尾白景
掲載日:2026/02/14

 これは俺が古代ローマに似た異世界へと転生するよりずっと前、姉と過ごした思い出の一幕―――――



挿絵(By みてみん)


「……はぁ。結局、今年もこれか」


 二月十四日、午後五時。

 西日が差し込む自室の学習机で、小学五年生の匠は深いため息をついた。


 目の前には、申し訳程度にラッピングされた小さな板チョコが一つ。

 今日、クラスの女子たちが「男子全員に配るから」という事務的な号令のもと、ベルトコンベア作業のように配給してくれた、正真正銘の『義理チョコ』である。


 期待していなかったと言えば嘘になる。


 漫画やドラマのように、放課後の校舎裏で呼び出されたり、下駄箱に手紙が入っていたり……そんな甘酸っぱい展開を夢見なかったわけではない。


 だが現実は非情だ。

 甘い香りとともに誰かから特別な想いを託される

 ――そんな現代的なイベントは、どうやら今年も匠の元を素通りしていったらしい。


「別にいいけどさ。チョコはチョコだし。味は変わらないし……」


 強がりを呟きながら、匠は椅子の背もたれにぐったりと体を預けた。


「クゥ〜ン……」


 そんな匠の憂鬱を察したのか、足元から濡れたような甘い鳴き声が聞こえた。


 見下ろすと、ミニチュアダックスの『きなこ』が、つぶらな瞳でこちらを見上げている。首にはバレンタイン仕様なのか、真っ赤なリボンが巻かれており、茶色い毛並みによく映えていた。


「なんだよきなこ、お前も慰めてくれるのか?」


 匠が手を伸ばすと、きなこは短い足を精一杯伸ばして立ち上がり「ミーアキャット」のような直立姿勢をとった。

 そして、匠の太ももに前足を乗せ、冷たく湿った鼻先をズボッと手のひらに押し付けてくる。


「ハフッ、ハフッ」


 温かい吐息と、柔らかい毛並みの感触。

 まるで元気づけようとしてくれている無垢な愛らしさに、匠の荒んだ心が少しだけ癒やされていく。


「お前だけだよ、俺に優しくしてくれるのは……」

 匠がきなこの垂れ耳を撫でようとした、その時だった。


「――――甘いわね!」


 バンッ! と勢いよくドアが開き、凛とした声が部屋の空気を切り裂いた。

 ビクッとして振り返ると、そこには赤い布の切れ端を何本も束ねた「何か」を手に持ち、仁王立ちしている姉・真綾の姿があった。


「姉ちゃん……ノックくらいしてよ。それに何その格好、また変なこと考えてる?」


「変なこととは失礼ね。私はただ、弟が製菓会社の商業戦略に踊らされ、男としての野生を失っているのを憂いているだけよ」


 真綾は部屋に入ってくるなり、匠の机の上にある義理チョコを一瞥し、鼻で笑った。


「そんな、カカオ豆を砂糖で固めただけの物体に一喜一憂して……いい? バレンタインのルーツを知っていれば、そんなメランコリックな顔にはならないはずよ」


「……ルーツ?」


「そう。現代では愛の告白だなんだと言っているけれど、その起源は古代ローマの『ルペルカリア祭』にあるのよ!」


 真綾は大仰に両手を広げ、演説を始めた。

 彼女は高校受験を控えた中学三年生だが、歴史への情熱(と奇行)は留まるところを知らない。


「ルペルカリア祭とはね、二月中旬に行われていた、もっと野性的で剥き出しの生命力を祝う儀式なの。そこには甘いチョコなんて存在しない。あるのは『走る男』と『逃げる女』そして『清めの鞭』だけ!」


「……えっと、何言ってるのか全然わからないんだけど」


「つまりね、男たちがヤギの皮で作った鞭を持って街を走り回り、出会った女性を叩くの。叩かれた女性には幸運と子宝が訪れると信じられていたわ。これこそが二月の語源『フェブラリー(清め)』の由来でもある神聖な行事よ!」


 真綾の瞳が狂気的な輝きを帯びる。嫌な予感がした匠は、椅子ごとじりじりと後退った。


「へ、へぇー。昔の人は過激だったんだね。勉強になったよ。じゃあ俺、宿題あるから……」


「逃がさないわよ、ルペルクス(狼の神の奉仕者)!」


 真綾は手に持っていた赤い布の束を、バシッと匠の机に叩きつけた。


「さあ匠、これを持ちなさい。これはヤギの皮……じゃなくて、私が古いTシャツを裂いて作った聖なる鞭『フェブルア(代用品)』よ。これを持って、庭で私ときなこを全力で追いかけなさい!」


「はぁ!? なんで俺がそんなこと! 近所迷惑だよ!」


「失礼ね、これは由緒ある伝統よ! 現代の草食系男子に足りないのは、この狩猟本能なの。この儀式を通して、その腐った根性を叩き直してあげるわ!」


「ワンッ!」


 きなこも真綾の勢いに当てられたのか、それとも赤い布を新しいオモチャだと思ったのか「バウッ! バウッ!」と太い声で吠え、やる気満々で尻尾を振っている。


「ほら、きなこも『祭りの始まりだ!』って言ってるわよ。さあ、行くわよ!」


 言うが早いか、真綾は窓を開け放ち、冬の庭へと軽やかに飛び出した。

 きなこも「カシャカシャカシャッ!」とフローリングで爪を鳴らし、ドリフト走行でその後を追う。


「ちょ、待てよ姉ちゃん! 寒いって!」


 匠は半ばヤケクソになりながら、赤い布の束を握りしめ、二人の後を追った。


 ◇


 二月の夕暮れ。空気は肌を刺すように冷たい。

 そんな中、我が家の狭い庭で、奇妙な追いかけっこが始まった。


「遅いわよ匠! そんな足取りじゃ、ローマの市民権は得られないわ!」


 真綾は中学生らしい驚異的なスタミナで、庭木の間を縫うように走り回っている。

 赤いマフラーをなびかせ、時折振り返って挑発的な笑みを浮かべるその姿は、確かに古代の祭りに参加する巫女のようにも見えた。


「はぁ、はぁ……! 姉ちゃん、速すぎ……!」


 匠は息を切らして追いかけるが、運動部の現役中学生にはなかなか追いつけない。

 手にした「フェブルア(Tシャツの切れ端)」を振り回すが、空を切るばかりだ。


「ワンワンッ! ワフッ!」


 そして、この状況を一番楽しんでいるのがきなこだ。


 地面スレスレの低空飛行で庭を駆け回り、匠の足元に絡みついてくる。

 時には匠が振り回す布の端に飛びつき「グルルルッ」と唸りながら引っ張り合いを挑んでくる始末だ。


「きなこ! 邪魔しないでよ! 危ないって!」


「甘いわね匠!  聖獣すらも味方につけてこそ、真の英雄よ!」


「ただ遊ばれてるだけじゃんか!」


 匠はきなこのタックルを避けつつ、再び真綾を追う。

 客観的に見れば、赤い布を振り回す小学生とそれを笑いながら逃げる中学生、そして狂喜乱舞する犬。通報されても文句は言えない奇行の極みだ。

 だが。


(……なんか、どうでもよくなってきたな)


 冷たい風を吸い込み、全力で手足を動かしているうちに、匠の胸にあった「義理チョコ一個」のモヤモヤとした悩みは、汗と一緒に蒸発していった。


 単純に、体を動かすのが気持ちいい。


 姉ちゃんの楽しそうな笑い声と、きなこの無邪気な鳴き声。

 バレンタインだとかモテるとかモテないとか、そんな些細なことよりも、今この瞬間の「意味のわからない熱気」の方が、よほど生きている実感があった。


「よし、捕まえてやる!」


 匠は最後の力を振り絞り、芝生の上を加速した。

 狙うは、花壇の角を曲がろうとした真綾の背中。


「そこだぁッ!」

「きゃっ!?」


 匠が大きく踏み込むと同時に興奮したきなこが真綾の足元に「テコテコテコッ」と突撃した。


 不意を突かれた真綾がバランスを崩し、芝生の上に転がる。


 匠はその隙を見逃さず、手にした赤い布で、真綾の背中を「ペチッ」と軽く叩いた。


「ハァ……ハァ……! 当たった! 俺の勝ちだ!」


 匠は勝利の雄叫びを上げ、そのまま力尽きて真綾の横に大の字に倒れ込んだ。


 ◇


 空には一番星が光り始めていた。

 激しい運動の直後で、体中がカッカと熱い。冷たい芝生の感触が心地よかった。


「……ふふっ。やるじゃない、匠」


 隣で空を見上げていた真綾が、呼吸を整えながら笑った。

 乱れた髪を直そうともせず、満足げな表情をしている。


「……きなこのアシストがあったからね。反則だよ、あんなの」


「運も実力のうちよ……それにしても、いい運動になったわね」


 真綾はむっくりと起き上がると、ポケットから何かを取り出した。

 それは、綺麗にラッピングされた、手のひらサイズの小さな箱だった。


「……はい、これ」


 ぶっきらぼうに差し出されたそれを、匠は瞬きして見つめる。


「……え、これ何?」

「言ったでしょう、叩かれた人には幸運が訪れるって……さっき、見事に一撃もらったから。その、ご利益を先渡ししてあげるわ」


 真綾は少しだけ顔を赤らめて、プイッと匠から視線を逸らした。


 夕闇のせいかもしれないが、その耳たぶはほんのりと赤い。

 匠がおそるおそる箱を開けると、中には宝石のように艶やかなトリュフチョコレートと、オレンジピールにチョコをかけたオランジェットが並んでいた。


 コンビニやスーパーで売っているものではない。カカオの芳醇な香りが漂う、明らかに手の込んだ手作りだ。


「これ……姉ちゃんが作ったの?」

 驚いて尋ねると、真綾は慌てて眼鏡の位置を直した。


「か、勘違いしないでよね。これはあくまで歴史的再現実験の副産物よ! ルペルカリア祭の後に来る、キリスト教的な愛の祝祭……その変遷を味覚で理解するための『比較検証』なんだから!」


「……検証って。こんな本格的なのを?」


「それに……あんまり匠が『一個しかもらえなかった』って情けない顔をしてるから、姉として慈悲を与えただけよ。感謝しなさい」


 早口で言い訳をまくし立てると、真綾は「きなこ、行くわよ!  風邪ひく前に戻るわよ!」と足早にリビングへ歩き出した。


 きなこが「待ってー!」と言わんばかりに、耳をパタパタさせながらその後を追いかける。


 取り残された匠は、手の中の箱を見つめ、それから一粒、トリュフを口に放り込んだ。


「……ん」


 口どけは滑らかで、上品な甘さとほろ苦さが広がる。

 冷え切った体に染み渡るような、深く、優しい味だった。

 義理チョコの何倍も……いや、比較にならないほど美味しい。


「……普通にくれればいいのに」


 匠は苦笑しながら立ち上がった。

 比較検証だとか、慈悲だとか言っていたけれど、このチョコを作るのにどれだけ時間がかかったのか、想像するのは難しくない。

 受験勉強の合間を縫って、弟のためにこれを用意してくれていたのだ。


 そう思うと、なんだか胸の奥がくすぐったくなる。


「おーい、待ってよ姉ちゃん」


 匠がリビングに戻ると、きなこが「僕のは?」とばかりに真綾の足元で飛び跳ねていた。


「はいはい、きなこにはこれね」


「ワフッ!」


 真綾が犬用のボーロをあげ、きなこが良い音を立ててボーロを噛み砕く横で、匠は残りのチョコを大切に箱にしまった。


「姉ちゃん、ありがと……来年はもっと上手く逃げてよね」


「ふふん。来年はスパルタ式の障害物競走にするつもりだから、覚悟しておきなさい」


 不敵に笑う姉と、しっぽをプロペラのように回す愛犬。

 古代ローマの荒々しい祭りの余韻の中で匠は「ま、義理チョコ一個でも悪くないか」と、今年のバレンタインに満足するのだった。

 

【お知らせ】

2月13日(金)から2月22(日)までの10日間、17時30分に毎日投稿します。

スケジュール

13金曜:武器物語28話

14土曜:うちの姉ちゃん〜バレンタイン編

15日曜:うちの姉ちゃん〜ローマのプリン編

16月曜:武器物語29話

17火曜:うちの姉ちゃん〜雪玉編

18水曜:武器物語30話

19木曜:うちの姉ちゃん〜『蜻蛉切』編

20金曜:武器物語31話

21土曜:うちの姉ちゃん〜猫の日前日譚

22日曜:武器物語・特別短編

ぜひ、お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。



本作をお読みいただきありがとうございます。

お楽しみ頂けましたら★★★★★評価お願いいたします。


連作短編『うちの姉ちゃんは古代文明を実践したい』シリーズは複数公開していますので、そちらもご一読いただけましたら幸いです。



【匠の「その後」の物語はこちら!】

本作で匠が学んだ「無駄すぎる知識」が、異世界で最強の武器になる――!?


匠が古代ローマ風異世界に剣闘士として転生し、姉ちゃんの知識で成り上がる本編、『転生式異世界武器物語』も好評連載中です!


本編では実在した武器の“武器解説”、絵師様による“挿絵”付きの豪華な長編となっています。

ぜひ合わせてチェックしてみてください!

『転生式異世界武器物語』

https://ncode.syosetu.com/n3948lb/



※こちらのイラストにはAIを使用して製作しております。

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― 新着の感想 ―
お姉様……相変わらずツンデレの鏡すぎる……! また「か、勘違いしないでよね」をいただいてしまいました☺️ 本当にご馳走様です! ぜひ武器物語でもバレンタイン企画を…… いやでも、ヘリオンさんが叩いた…
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