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流れるまま、君の隣で

作者: 海鳴雫
掲載日:2025/11/10

牧瀬流は、いつも教室の窓際に座っていた。

 特に目立つこともなく、誰かに注目されることもない。昼休みは一人で弁当を食べ、放課後は図書室か帰宅。そんな高校生活を二年の春まで続けていた。


 彼は「波風を立てない」を信条にしていた。

 真面目だとか、固いだとか言われるのは慣れている。だが、周囲に馴れ合う気もない。自分を曲げてまで笑うこともできなかった。妥協ができない――それが牧瀬流という人間の、長所でもあり欠点でもあった。


 そんな彼の前に現れたのが、藤原灯だった。

 明るい茶髪、少し人懐っこい笑顔。けれどどこか儚げな目をしている。転校してきたばかりで、クラスの中心にいるタイプではない。どちらかと言えば静かで、放課後になるとすぐ帰るような子だった。


 初めて話したのは、五月の雨の日。

 窓を打つ音に気を取られていた流の机の上に、灯の傘から落ちた雫が跳ねた。


「ごめん、ノート濡らしちゃった」


「……大丈夫。すぐ乾くから」


 それだけの会話だったが、不思議と印象に残った。

 その時、灯が小さく笑って言った。


「牧瀬くんって、いつも静かだね。嵐が来ても動かなそう」


「……それ、褒めてるの?」


「うん。たぶん、ね」


 それが、彼女との最初の記憶だった。


六月のある放課後。

 いつも通り帰宅途中、校門の脇の公園から怒鳴り声が聞こえた。


「おい、逃げんなよ!」


 数人の男子が、誰かを囲んでいる。

 その中心で、怯えたように立っていたのは――藤原灯だった。


 流の胸が跳ねた。

 やめた方がいい、関わるな。

 頭ではそう警告していた。それが“流れるまま”の自分のやり方だ。


 だが、その瞬間。

 灯の目と、流の目が合った。

 助けを求めるようでも、諦めたようでもない――ただ、泣きそうな目。


 気づけば、足が動いていた。


「やめろよ!」


 声は震えていた。

 相手は三人。どう見ても喧嘩慣れしている不良だ。


「なんだテメェ?」


「ただのクラスメイトだ。やめてやれよ」


「へぇ? 正義マン気取りか」


 次の瞬間、殴られた。

 視界が揺れ、頬に熱が走る。倒れても、流は立ち上がった。

 妥協はできなかった。逃げるという選択を、選べなかった。


 殴られ、蹴られ、それでも言葉を絞り出した。


「……逃げろ……藤原」


 灯は唇を噛み、涙をこらえていた。

 そして、走り出した。


 遠くで、パトカーのサイレンが鳴り響いたのは、それからすぐのことだった。

目を覚ますと、白い天井が見えた。

 頬には包帯、腕には打撲の跡。どうやら病院らしい。


「……馬鹿だね、ほんと」


 隣の椅子に座っていたのは灯だった。制服のまま、目の下に薄い隈を作っている。


「ごめん。あたし、逃げちゃって……でも警察呼んだの、あたしだから」


「……そうか。助かったよ」


 流は笑おうとしたが、頬が痛んでやめた。

 灯はそんな彼を見て、そっと口を開いた。


「どうして、助けに来たの?」


「……見て見ぬふり、できなかっただけだよ」


「そんなの、誰だってできたのに」


「俺は……できなかったんだ。妥協、できない性格だから」


 灯はしばらく黙っていた。

 そして、ぽつりとつぶやいた。


「妥協できない人、好きだよ」


 その言葉が、どんな意味を持つのか。

 流には、まだわからなかった。

事件から数日後、二人の距離は少しだけ近づいた。

 灯は放課後になると流の机に来て、「帰ろう」と言うようになった。


 放課後の坂道、並んで歩く。

 灯は小さく笑って言った。


「ねぇ、牧瀬くん。あの時、本当は怖かった?」


「そりゃ、怖かったよ。心臓バクバクだった」


「でも、逃げなかった」


「……それでも、あの時の俺は間違ってなかったと思う」


 灯は立ち止まり、青い空を見上げた。

 その横顔が、光に透けて美しかった。


「わたしね、前の学校で……ちょっと問題起こしちゃって。だから転校してきたの」


「問題?」


「友達のことで。助けようとしたのに、裏切られちゃってさ。もう誰も信じたくないって思ったの」


「……それで、今は?」


「今は……牧瀬くんがいるから、大丈夫かな」


 流は顔を赤くし、言葉を失った。

 それでも、その日から灯を見るたびに胸が熱くなるようになった。


夏祭りの夜。

 人混みの中、浴衣姿の灯が笑っていた。


「似合ってる?」


「……ああ。すごく」


 手にはりんご飴。

 花火の音が空を震わせる中、流はずっと迷っていた。

 自分は目立たない人間だ。彼女のような明るい光には、似合わない。


 けれど、妥協できない。

 この想いだけは、伝えなければ後悔する。


「藤原、俺……」


 言いかけた瞬間、灯が先に口を開いた。


「知ってるよ。牧瀬くんがわたしのこと、好きだって」


「えっ」


「わたしも、だよ」


 灯は微笑んだ。

 その笑顔が、打ち上がる花火の光と重なって、世界が少しだけ鮮やかになった。

夏が過ぎ、秋風が吹く季節。

 教室の窓際で、灯がノートをのぞきこみながら言った。


「ねぇ、牧瀬くん。あの時みたいにまた誰かが困ってたら、助ける?」


「もちろん」


「またボコボコにされるかもよ?」


「それでも。妥協はできない」


 灯は笑いながら肩をすくめた。


「ほんと、変な人。でも……そんなとこが、好き」


 流は照れ隠しに窓の外を見た。

 秋の空は高く、どこまでも透き通っていた。


 目立たなくていい。派手な人生じゃなくていい。

 ただ、自分の信じるものを守って生きていく。

 その隣に、彼女がいてくれたら――それで十分だ。

春。卒業式のあと、二人で歩く校庭。

 桜の花びらが舞う中、灯がつぶやいた。


「ねぇ、牧瀬くん。“流れるままに”って、悪くないね」


「どういう意味?」


「流れるままに生きてても、ちゃんと出会うべき人には出会えるってこと」


 流は笑った。

 そして、彼女の手を取った。


「……そうだな。でも俺は、流されるだけじゃなくて、選んだんだ。君を」


 灯は顔を赤らめ、静かにうなずいた。


 桜が散りゆく中、二人の影がゆっくりと並んで伸びていく。

 それは、妥協を知らない少年と、心を取り戻した少女の、ひとつの未来のかたちだった。


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