流れるまま、君の隣で
牧瀬流は、いつも教室の窓際に座っていた。
特に目立つこともなく、誰かに注目されることもない。昼休みは一人で弁当を食べ、放課後は図書室か帰宅。そんな高校生活を二年の春まで続けていた。
彼は「波風を立てない」を信条にしていた。
真面目だとか、固いだとか言われるのは慣れている。だが、周囲に馴れ合う気もない。自分を曲げてまで笑うこともできなかった。妥協ができない――それが牧瀬流という人間の、長所でもあり欠点でもあった。
そんな彼の前に現れたのが、藤原灯だった。
明るい茶髪、少し人懐っこい笑顔。けれどどこか儚げな目をしている。転校してきたばかりで、クラスの中心にいるタイプではない。どちらかと言えば静かで、放課後になるとすぐ帰るような子だった。
初めて話したのは、五月の雨の日。
窓を打つ音に気を取られていた流の机の上に、灯の傘から落ちた雫が跳ねた。
「ごめん、ノート濡らしちゃった」
「……大丈夫。すぐ乾くから」
それだけの会話だったが、不思議と印象に残った。
その時、灯が小さく笑って言った。
「牧瀬くんって、いつも静かだね。嵐が来ても動かなそう」
「……それ、褒めてるの?」
「うん。たぶん、ね」
それが、彼女との最初の記憶だった。
六月のある放課後。
いつも通り帰宅途中、校門の脇の公園から怒鳴り声が聞こえた。
「おい、逃げんなよ!」
数人の男子が、誰かを囲んでいる。
その中心で、怯えたように立っていたのは――藤原灯だった。
流の胸が跳ねた。
やめた方がいい、関わるな。
頭ではそう警告していた。それが“流れるまま”の自分のやり方だ。
だが、その瞬間。
灯の目と、流の目が合った。
助けを求めるようでも、諦めたようでもない――ただ、泣きそうな目。
気づけば、足が動いていた。
「やめろよ!」
声は震えていた。
相手は三人。どう見ても喧嘩慣れしている不良だ。
「なんだテメェ?」
「ただのクラスメイトだ。やめてやれよ」
「へぇ? 正義マン気取りか」
次の瞬間、殴られた。
視界が揺れ、頬に熱が走る。倒れても、流は立ち上がった。
妥協はできなかった。逃げるという選択を、選べなかった。
殴られ、蹴られ、それでも言葉を絞り出した。
「……逃げろ……藤原」
灯は唇を噛み、涙をこらえていた。
そして、走り出した。
遠くで、パトカーのサイレンが鳴り響いたのは、それからすぐのことだった。
目を覚ますと、白い天井が見えた。
頬には包帯、腕には打撲の跡。どうやら病院らしい。
「……馬鹿だね、ほんと」
隣の椅子に座っていたのは灯だった。制服のまま、目の下に薄い隈を作っている。
「ごめん。あたし、逃げちゃって……でも警察呼んだの、あたしだから」
「……そうか。助かったよ」
流は笑おうとしたが、頬が痛んでやめた。
灯はそんな彼を見て、そっと口を開いた。
「どうして、助けに来たの?」
「……見て見ぬふり、できなかっただけだよ」
「そんなの、誰だってできたのに」
「俺は……できなかったんだ。妥協、できない性格だから」
灯はしばらく黙っていた。
そして、ぽつりとつぶやいた。
「妥協できない人、好きだよ」
その言葉が、どんな意味を持つのか。
流には、まだわからなかった。
事件から数日後、二人の距離は少しだけ近づいた。
灯は放課後になると流の机に来て、「帰ろう」と言うようになった。
放課後の坂道、並んで歩く。
灯は小さく笑って言った。
「ねぇ、牧瀬くん。あの時、本当は怖かった?」
「そりゃ、怖かったよ。心臓バクバクだった」
「でも、逃げなかった」
「……それでも、あの時の俺は間違ってなかったと思う」
灯は立ち止まり、青い空を見上げた。
その横顔が、光に透けて美しかった。
「わたしね、前の学校で……ちょっと問題起こしちゃって。だから転校してきたの」
「問題?」
「友達のことで。助けようとしたのに、裏切られちゃってさ。もう誰も信じたくないって思ったの」
「……それで、今は?」
「今は……牧瀬くんがいるから、大丈夫かな」
流は顔を赤くし、言葉を失った。
それでも、その日から灯を見るたびに胸が熱くなるようになった。
夏祭りの夜。
人混みの中、浴衣姿の灯が笑っていた。
「似合ってる?」
「……ああ。すごく」
手にはりんご飴。
花火の音が空を震わせる中、流はずっと迷っていた。
自分は目立たない人間だ。彼女のような明るい光には、似合わない。
けれど、妥協できない。
この想いだけは、伝えなければ後悔する。
「藤原、俺……」
言いかけた瞬間、灯が先に口を開いた。
「知ってるよ。牧瀬くんがわたしのこと、好きだって」
「えっ」
「わたしも、だよ」
灯は微笑んだ。
その笑顔が、打ち上がる花火の光と重なって、世界が少しだけ鮮やかになった。
夏が過ぎ、秋風が吹く季節。
教室の窓際で、灯がノートをのぞきこみながら言った。
「ねぇ、牧瀬くん。あの時みたいにまた誰かが困ってたら、助ける?」
「もちろん」
「またボコボコにされるかもよ?」
「それでも。妥協はできない」
灯は笑いながら肩をすくめた。
「ほんと、変な人。でも……そんなとこが、好き」
流は照れ隠しに窓の外を見た。
秋の空は高く、どこまでも透き通っていた。
目立たなくていい。派手な人生じゃなくていい。
ただ、自分の信じるものを守って生きていく。
その隣に、彼女がいてくれたら――それで十分だ。
春。卒業式のあと、二人で歩く校庭。
桜の花びらが舞う中、灯がつぶやいた。
「ねぇ、牧瀬くん。“流れるままに”って、悪くないね」
「どういう意味?」
「流れるままに生きてても、ちゃんと出会うべき人には出会えるってこと」
流は笑った。
そして、彼女の手を取った。
「……そうだな。でも俺は、流されるだけじゃなくて、選んだんだ。君を」
灯は顔を赤らめ、静かにうなずいた。
桜が散りゆく中、二人の影がゆっくりと並んで伸びていく。
それは、妥協を知らない少年と、心を取り戻した少女の、ひとつの未来のかたちだった。




