第九話 きさらぎ駅のコインロッカーベイビー⑨
賽銭箱がなかったので、あや香は二礼二拍手だけしてから、少し離れた平らなところにバッグを置き、少しだけ休むことにした。電車での移動中、途中下車しておむつは一度代えたが、ミルクをあげ損ねていた。今日は大わらわだったから、間違いなくお腹をすかせている。けれど、我が子は事態の深刻さを察知しているかのように大人しくしている。いつもは、キャッキャッと賑やかなのだが……どこを、見つめているんだろう?
元は整えられていただろう、石の敷き詰められた参道や参拝のためのスペースは、そこかしこに雑草が蔓延っていたが、不思議と居心地が良かった。
あや香は地べたに座り込み、バッグの中から液体ミルクのパッケージを取り出し、アタッチメントの飲み口をつけて、赤ちゃんの口に含ませる。まあるい瞳でなにか見ていた我が子は、途端に一心不乱にミルクを飲み始めた。やはり、とてもお腹をすかせていたようだ。
「ごめんね…」
あや香の口から謝罪が、両目からは涙が溢れ落ちる。だが、すぐに袖口で涙をぬぐい、垂れそうになった洟をすすりあげる。
泣いていても、だれも助けてはくれない。
行動しなければ、気付いて貰えないし、訴えて届けでなければ法も福祉も助けてくれない。
あや香はそれを、痛いくらいに知っている。
わたしが、この子を守るんだ。
決意を新たに固めたそのとき、バッグの中身が不自然に動いた気がした。
いや、光った?
よく見ると、乱雑に放り込んできた物のなかに、淡い光を放つものがある。薄暗いこの小さな森の中では、目映いほどだ。だが、光るようなものを持ってきた覚えはない。
あや香は、手を伸ばして確かめる。
それは、毛糸で編んだちっちゃなくつ下。あや香が赤ちゃんのために初めて作ったもの。それが、なぜかほんわかと光っている。
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「え?」
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「? な、なに?」
こえなき声を、あや香は聞けない。だが、何かがあや香に向かって「はなしている」と感じた。
気付けば、周囲のそこかしこにホワホワと優しい光が灯っている。人工の光ではない。
「ホタル…?」
確かに一番近い光はそれかもしれない。だが、ホタルを見たことがあれば、これがホタルの光でないことはすぐ分かる。
ほんわか光るくつ下に、ホワホワした光が集う。
いつのまにかミルクを飲み終えた我が子が、光に手を伸ばし、キャッキャッと笑い始めた。大人に声をかけられると、この子は素直によく笑い、はしゃぐ。医者の診察でも怯えたりせず、キャッキャッするので産院では溺愛されていた。
ウキャー! と、一番ハイテンションな笑い声をあげる。なにがなんだか全く分からないが、めっちゃ楽しいらしい。
我が子のその様子に、疲れきっていたあや香は、魅乃島が来たとき以来、数時間ぶりに緊張をほどいた。ふうっと、少し呆れたような笑顔と共に。同時に疲れと空腹も襲いかかってきたものの、それは、なんというか慣れたものだ。疲労困憊でお腹が空いていても、動かねばならない人生だったから。
この時、いわゆるトランス状態というべきものにあや香は陥っていたのだろう。
だから、導きに従ってーー目覚めた古き女神に請われるまま、手製のくつ下を祠に捧げ、赤ちゃんを守ってほしい、と魂の全てで願った。
だから神は応えた。
この後に待つ残酷な運命に抗えるように。
ほんの少しでも、救われる可能性を、その糸口を掴めるように。
人事は尽くした。
天命は導いた。
けれど。
悪意の前に、力及ばず、母子に夜明けは来なかった。
状況にもよるわけですが
私は、苦難にある本人が己を鼓舞するために「明けない夜はない」「止まない雨はない」というのは、かっこいいと思いますし、そのとおりだと思います
でも
いままさに、雨に打たれて震えてる人にかける言葉ではない、すべきことは傘をもって駆けつけること
安全で明るく、暖かい屋根のしたからのんきに言う人の多いこと……窓から雨のなかへ引きずり出してあげたいですね
止むんだから、文句は言わないですよね?




