第六話 きさらぎ駅のコインロッカーベイビー⑥
天翠羽神。その昔、この辺り一帯には蚕を育てる家が多くあり、また豊かな原始の森ではヤママユガの繭も得られたことから、近隣のいくつもの村が崇めていた、養蚕の神だ。
紆余曲折を経て養蚕が廃れ、村がなくなり、あるいは変わり、今はこのひとにぎりの杜と祠を残すのみ。自然消滅を待つばかりだったこの女神が、一体なぜ、こんなにも力を取り戻しているのだろう。
いくら浮草の方が「みえる・きこえる・さわれる質」とはいえ、女神の方からこんなに物理的に撫で回せるほどとなると、最盛期の力に等しい。
見上げる浮草の顔が、深紅の複眼に映り込んでいる。若葉色の膚は瑞々しく輝き、萌黄色の翅からは鱗粉のように光の粉が舞い散り、腰から連なる焦げ茶色の胴体は丸々としている。
すると、赤ちゃんのおくるみを直し終えた一対の腕が、小さなものを浮草に見せてきた。
とても嬉しそうに。
宝物を自慢する子どものように。
大きく嫋やかな手のひらにのっているのは、毛糸の靴下。羊毛製。でも、手作りだ。ちっちゃなちっちゃな、手作りの、赤ちゃんのための靴下。
「すごい………ああ、そっか。そのために、あなたはおくるみをつくってあげたんだね」
浮草は、珍しく感激して、声を震わせた。このちっちゃな、初心者が一生懸命作った毛糸の靴下にこめられた、願いの尊さが直に浮草の魂を揺さぶったからだ。神を甦らせるほどの、純粋な慈しみと愛を、浮草は「みた」。同時に全ての事情も。
「良かった、追いついた」
突然背後からした声に、女神も浮草もぎょっとした。原始の森まで軽くざわついた。
いつのまにか、そこには青年がひとり立っていた。
「あ、鶺鴒だ」
「こんばんは、みどりは様。うちの子が夜分にすみません。浮草、心配したよ」
青年は女神に向かって丁寧に一礼してから、やんわりと諌める声音で浮草を見た。
青年は浮草をそのまま20代の大人にしたかのように、よく似ていた。細身で、平均からいえば小柄な体躯。闇夜の黒髪と、同じく黒い両目。面貌には、柔らかな微笑み。
防人鶺鴒。
浮草と同じ名字を持つ、浮草の家族のひとり。
「おれ悪くないもん」
「まあそうなんだけど。電話口で管理人さんがめちゃくちゃ謝ってたしね。でも、ひとりでここへ来ないで一度帰ってくれば良かったのに。薔薇と幸広の殺気が凄まじくて、お客さんたちが巻き込まれるのを恐れて帰るくらい怒り狂ってたんだよ。スマホも通じないしさ」
「それは…なんかゴメンナサイ」
薔薇も幸広も、防人家の家族の一員であり、何より買い物帰りに両脇にいたのはこの二人だ。そりゃあ、驚き慌て心配したに違いない。薔薇は基本的に、身内に手を出されたら相手がなんであろうと襲いかかるし、ふだんはブレーキ役の幸広まで一緒に怒りだしたなら、それはもう、えらい空気になっていただろう。「こっち」に戻ったときに、スマホの電源をいれて浮草からも連絡すべきだったかもしれない。帰ったら、素直に謝った上で、改めて管理人さんに責任を擦り付けよう。そんなことを浮草が算段していると、鶺鴒が言った。
「まあ、引き受けてしまったものは仕方ないね。かなり「あっち」と「こっち」が入り乱れてるから、浮草に“運命の糸”が繋がったのも必然かなあ」
優しく微笑んで女神を見上げる鶺鴒。蚕の女神は、ずっとご機嫌そうにニコニコしている。
「今回はなんとかなるだろう。管理人さんたちが総力でバックアップしてくれるってさ。薔薇の殺気が電話口から伝わったみたいだよ」
さすが薔薇。殺意が時空を越えるとは。
「代わってあげたいけど、既にいろいろこんがらがってるから…浮草、最後までやれるかい?」
「うん!」
鶺鴒の問いに浮草は即答した。あらかたの事情は「みた」。だから、途中で放り出すつもりはない。必ず、この赤ちゃんと、靴下を編んだ赤ちゃんのお母さんを助ける。
「じゃあいつまでも手で抱っこは危ないから、これを使って」
鶺鴒が差し出したのは、抱っこにもおんぶにも使えるおぶい紐ーー浮草が赤ん坊だった頃に使っていたものだ。
女神が興味津々で手を伸ばしてくるので、女神の手も借りて赤ちゃんをおくるみごと浮草の背にくくりつけた。
浮草もこうして浮寝や鶺鴒、隼におぶわれて、薔薇や幸広にほっぺをぷにぷにされたのだろう。
「みどりは様、この子のお母さんがどこにいるか知らない?」
おぶい紐とスマホポーチの紐がこんがらがってしまわないように引っ張って位置を動かしたりしつつ、世間話の口調で神と話す浮草。蚕の女神も、子どもから道を聞かれたひとのようにニッコリ笑って、おもむろに、大きな手のひらを差し出してくる。指先はスマホポーチに向いている。
「あ、そうだよね。でも特に良いものも面白いものも持ってないんだよなあ。ツケにしてもらうか管理人さんに払ってもらうか…ほら、お塩と、幸広くんが魔除けの薬草の汁を染み込ませた特製の紙マッチと、御神酒のビンと……え? こ、これ?!」
女神の深紅の複眼に映り込むのは、大きめのスマホポーチから手品のように次々出てくる物ではなく、浮草手縫いのサカバンバスピスのぬいぐるみだった。一番出来が良いものは薔薇にプレゼントしていて、浮草がスマホポーチから下げているのはちょっと全体的にヘタクソだ。
「これでいいの?」
これがいいの! と言わんばかりに、女神は六本の手、全部をグッと握ってガッツポーズをしてみせる。どこで覚えたのだろうか。思わず浮草は鶺鴒を見上げる。鶺鴒は、いつもどおりの穏やかな微笑みのまま頷く。
「神様直々にご所望だから、いいんだよ」
「それなら……うん。え、でも、次はもっと気合いいれて作ったのあげるね。アンドリューサルクスとか」
スマホポーチからフェルト製のサカバンバスピスのぬいぐるみが外され、養蚕の女神の手に渡される。その昔、絹織物のために崇められ、誰かのために編まれ縫われたものを慈しんだ神の御手に。
わーい!と女神は腕を頭上にあげて、ばっさばっさと萌黄色の翅を羽ばたかせる。光の粉がめっちゃ舞う中、おくるみから萌黄色の糸が一本、ぴんっと張られて、なにもない空中で途切れている。
浮草と鶺鴒は、糸の繋がる「先」を「みて」から、お互いの顔を見る。
「えっ、こわいんだけど…」
「神様の紹介だし、管理人さんたちも全面協力するって言ってたから、安全だよ。たぶん」
「えええ…。でも、だって、このひとたちスゲエ怖いやつじゃん!」
「怪異や神々は、子ども好きだし、特に今回は赤ちゃんと浮草だし」
「好きの意味がさあ……まあ行くけどさあ……えー、ほんとにだいじょぶかなあコレェ…」
はしゃいでいた女神がハッと我に返ったらしい。深紅の複眼を鮮やかに輝かせ、今度はサムズアップしてみせる。本当に誰が教えたんだこのジェスチャー。
「おれの知識だと、ひたすら怖いんだけど、みどりは様がそういうなら」
「オレは、近代的なボディランゲージも気になるし、どうしてみどりは様が、このひとたちにツテがあるのか知りたいね」
「た、たしかに…うー、わかった、じゃあいってきます!」
「がんばってね」
手を振る鶺鴒。萌黄色の翅をバサバサしながら、毛糸の靴下とフェルト製のぬいぐるみを抱き締めてニッコニコの女神に見送られて、浮草は糸に手を添える。糸は、浮草が進むとスルスルおくるみにもどっていく。空中の、糸が消え失せているところへ浮草がたどり着いた瞬間、糸も浮草と赤ちゃんも、ふっと消えた。
浮草の消えた空中を見つめている鶺鴒の肩を、女神の指先がちょんとつついた。
「はい、なんでしょう?」
蚕の女神は全身を輝かせていた。その手には、ひとの手により、ひとへの想いをこめて作られたものが二つ、宝物のように抱かれている。
「なるほど。この仕事を続けたい、と?」
ふんすっ! と女神は全身で頷く。光が舞い飛ぶ。周囲の木々までも、なんとなく頷いてるように感じる。
鶺鴒は眩しいものでも見るかのように黒い両目を細めた。久しぶりに、こんなに清しく、活き活きしたモノをみて、鶺鴒自身も少し楽しくなってきた。
「あなたが、そういう存在でありたいと望むのなら」
靴下とぬいぐるみを差し出す女神の手に、鶺鴒の手が重ねられる。
「とても素敵だとオレも思います。嬰児を守り、良き縁の糸をつなぎ、よりあわせる神。あなたは、あなたのなりたいモノになるといい、天翠羽神」
なにかが変わった。
ひとつかみの原始の森が震える。
ちいさな古い祠が震える。
女神の巨大な翅が、空間を覆わんばかりに広がり、深紅の複眼は火を噴く寸前のように赤く輝き、若草色の膚も、焦げ茶色の胴体も瑞々しさを増す。
天翠羽神という女神は、今宵、己が望んだ存在に成った。鶺鴒の「ことば」に導かれて、蚕を守る神から、赤ちゃんを守る神へ。
新たなる神の誕生を寿ぐべく、原始の森が古い歌を歌いだし、見えざる気配が次々に目を覚まし、集まり始める。お祭りの明かりを見つけたように。こんなに嬉しく、楽しい出来事、物見高い人ならざるモノどもが見逃すはずがない。
沸き立つパーティー会場のような空気の中、鶺鴒だけは冷静に言った。
「でも、みどりは様。毎回あんな凄い神具を授けてはダメですよ。今回はいろいろこんがらがってますし、久々のことだから、まあ開店祝いの大サービスってことでいいですけど。もうダメですからね、昔ぐらいの力加減でご利益を…ダメです。ダメ、ダーメーでーす。そんなふうにほっぺた膨らませてぷりぷりしてみせてもダメなものはダーメ。ああもう、これだから神様は……」
浮草がドン引きしている「あっちがわ」で待つのは、現代っ子(?)怪異にして、みどりは様のお友達
ガッツポーズとかサムズアップを教えたのは、このひとたちです




