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第五話 きさらぎ駅のコインロッカーベイビー⑤

 磨き上げられた漆黒のタクシーの運転席には誰もいない。けれどドアはひとりでにゆっくりと開き、頼んだ通りにチャイルドシートが設置されている。浮草は、かなり苦労しつつ、()()()()()()()()()、赤ちゃんをしっかりとチャイルドシートに固定した。自分もシートベルトを装着し、無人に見える運転席に向かって告げる。

「阿惜夜市織幡区羽衣南のみどりは様の(もり)の前までお願いします」

 タクシーは音もなく滑らかに走り出した。


 荒廃した空き地を抜け、夕暮れ時に通過した住宅街に入る。家並みに変化はないのだが、暗く沈んだ現在の方が、なぜか気配を感じる。タクシー越しにも関わらず、だ。

 浮草は、見たり、「みたり」、しないように赤ちゃんに目を向けた。くっついてこられたら困る。このタクシーは、管理人さんが手配してくれたものだから、100%安全だが、()()()()()()()()。窓の向こうに一瞬、ごちゃごちゃした赤い肉みたいな、多肉植物にも似た何かがいたが、全力でみなかったことにする。


 ほどなくタクシーは住宅地を抜けた。古びた石の橋を渡る。浮草の知っている橋だ。二年前の台風で壊れてなくなった橋だが、「こっち」ではまだ現役のようだ。

 橋を渡りきると、世界に色彩が戻ってきた。ふだん浮草が生きている世界、現し世、この世、人間の生きる世界に戻ってきたのだ。

 「あっち」と同様に陽はとっぷりと暮れているが、まだまだ人間は活発に動いている。ほっと息をついてから、赤ちゃんを見ると、相変わらずスヤスヤと眠っている。眠り続けている。消え失せてコインロッカーに戻る様子はない。これで消えられたら、流石に浮草の手には負えなくなるところだったが、なんとかしてあげられそうだ。


 阿惜夜市は、霧呼(きりよび)山脈から流れ下る天狼川(てんろうがわ)で、ざっくり二つに分かれている。

 隣接する深緋市(こきひし)のように、都市開発が進み、様々な商業施設、企業の本社・支社の入るビル群、私鉄、高層住宅、戸建ての住宅地がにょきにょき増えゆく通称・新市街。

 浮草が住むのは、その反対側。国有であり、全体が天然記念物に指定されているため開発されることのない日本有数の原始林である霧呼山脈と天狼川の源泉を有し、温泉も湧き、豊かな水で古くから田畑を守る古い家々が元気いっぱい残り続ける通称・旧市街。

 新旧と呼ばれてはいるが、新市街に住み旧市街で農家をする人もいれば、旧市街から新市街の大企業の支社で勤めている者もいる。旧市街にも新しい家は建つし、新市街にも古い家や原始林を残した公園がぽこぽこ残っている。新しいものと古いものが活発に行き交って、お互いに豊かにしあっているちょっと不可思議な街、それが阿惜夜市。


 タクシーは天狼川ぞいの新市街を走り始めた。キラキラガヤガヤ賑やかな気配が、すぐそこにあるが、川沿いは闇の色が重い。

 雄大な天狼川を遡り、たどり着いたのは原始林の小さなかたまり。まわりは、新しい道や建物がすぐそばにあるが、ここだけひとにぎりの太古の森が生きている。

 蛙と虫の音が沸き立つ中にタクシーは止まった。

 名もなき、ひとつかみの小さな杜の入り口には、朽ちかけた石の鳥居。

「ありがとうございます」

 浮草は、お礼を無人の運転席に告げて、やっぱり四苦八苦しながら赤ちゃんをチャイルドシートから抱き上げて、タクシーを降りた。

 タクシーは少しの間エンジンを切ったまま止まっていたが、浮草と赤ちゃんが鳥居の下へ入ると、挨拶のようにヘッドライトをチカチカッと光らせて、音もなく深い闇の中へ走り去っていった。

 浮草はタクシーに向かって頭を下げてから、向き直り鳥居にも一礼して、その下をくぐった。


 音にならない囁きが、辺りじゅうから「きこえる」。古い森ではよく「きく」「こえ」だ。家族のひとり、幸広ならなんと喋っているのか具体的に分かるだろうが、浮草は植物の「こえ」を「きく」のは苦手だ。けれど、悪意・敵意のあるなしはわかる。ひとにぎり、古い神のために残された太古から続く森は、()()()()()、浮草たちを見下ろしている。

 石で整えられていただろう参道は、手入れをされなくなって久しいのだろう、ガタガタで雑草も生えているが、まだ獣道にまではなっていない。小さな杜なので、最奥の神の住み処はすぐだった。

 背後に二本の大きなクヌギの木を従えた木製の祠。

「こんばんは、夜中にお邪魔します」

 浮草が頭を下げる。赤ちゃんをだっこしているので、かしわ手は打てないが、神様は全く気にならないようで、むしろ嬉しそうに手を伸ばしてきた(ぼうてん)。

 頭を上げた浮草や頬を包むのは、ひとによく似た二本の手と腕。薄く発光していて、女性的でありながら、男性よりも遥かに大柄なだけだ。

 その二本の腕が繋がるのは、ひとに似た胴体であり、首でありーーひとに似ているのは顎までだ。鼻のあたりからの上半分は昆虫の頭。巨大な深紅の複眼、櫛のような触角ーーヤママユガの成虫の頭部に似ている。ひとに似た口は、嬉しそうな笑顔のかたちに弧を描いている。

 ひとの胴体、というか背中からは萌黄色にさんざめく巨大なヤママユガの翅が広がり、ひとに似たなよやかな腰から下は、ヤママユガの腹に変じる。

 腕は、浮草の顔を優しく撫でる一対を含めた三対六本。いずれもひとの腕に似る。ちなみに、一対の腕、というか手は赤ちゃんの髪を撫でつつほっぺをぷにぷにし、残る一対はおくるみを直している。

 全身から緑や白っぽい光の粉を振り撒く大きなモノは、古くからこの祠に祀られる女神。

「お会いできて嬉しいです、天翠羽神(あまのみどりはのかみ)

 久方ぶりに名前を呼ばれ、古き神はよりいっそう嬉しそうに笑みを深め、巨大な翅をばっさばっさ羽ばたかせて、光の粉を振り撒いた。

これを書いているとき、ふと横路にそれた場所に小さな蚕の神様の神社を見つけたときは、ちょっと、だいぶ、震えてしまいました

まあ、私が回りを見ずに歩いているだけなんでしょうが、タイミングが凄すぎて、大いなる意思を感じたような気がしました

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