第二十話 彼女と彼の高校デビュー⑥
今日、夕映の指導役の塚越陸は休みだ。急な休みではなく元から分かっていたことなので、夕映は既に一人でもできることを粛々とこなしていく。
すでにルーティンと化している業務。不測の事態はインカムで店長に助けを求め、あるいは近くにいる先輩方に教えて貰う。みな親切で、平和だ。
平和だった。
閉店間際の大量注文。店頭にあったぶんたけでは足りず、夕映が急ぎ倉庫へ向かう。こんなに大量のネジを何に使うんだよあの客、という雑念が夕映が常に抱いている警戒心を薄れさせた。
夕映はひとり、日の落ちた後の倉庫に入った。
入ってしまった。
空気がズシンと重くなった。
やらかした。
思ったときには、もう遅い。なぜか背後で、ドアが自動で閉まり、つけた明かりがバチィッと鳴って消える。
広い密閉された人工の闇のなかに、夕映は閉じ込められた。
めったに来ないこともあって、完全に油断してしまっていた。
ここには、ナニカがいることは分かっていたのに。
すぐに振り返り、ドアを探ってドアノブにすがり付き、ガチャガチャ回すが開かない。
これは、久しぶりに最悪の大当たりを引いてしまったらしい。
積み上げられた在庫の迷路の奥に「なにか」がいる。
それは、超常の力でドアを封じ、明かりを消して、夕映を閉じ込めた。
頼れるバイトリーダー、休みがちの塚越のぶんまで面倒を見てくれる人格者の境が、つい薔薇に仕事を頼んでしまったり、「日が沈んでから入りたがらない」のはコレのせいだ。
きっと境も、多少「わかるひと」なのだろう。
夕映も、わかってはいた。その存在は、明るい時間帯でも隠れているだけでたしかにいる。
でも、こういうのは無視するのが一番有効だ。
だから、みないようにしていたのに。
こういうの…ヒトならざるモノが「みえる」。これが夕映の誰にも言えない幼い頃からの悩み。
脳裏を、手よりも口を動かすのが得意な塚越から聞いた怪談が過る。
観葉植物に食われた男。
かつて、現店長・松郷よりも前、ホームセンター・ワシントンができて、すぐのころ。熱心に通ってくる常連客がいた。花や植物が好きで、休日は庭木の手入れや家の中の観葉植物の世話が趣味。肥料や土、園芸道具、花の種や苗を買い求めにホームセンターに足繁く通っていた。店員とも顔見知りとなり、ふだんは置いていない薬剤や特殊な肥料を取り寄せて、倉庫に入って貰うことまであったという。
その彼が、急死した。
自宅での突然死。
彼は、富裕な独身で、新市街の開発が始まった中でも最も優雅で広い豪邸が並ぶ地域で悠々自適に暮らしていた。ひとりで住むにはだいぶ広すぎる豪邸を緑で埋め尽くしていた。
当時はまだ少し珍しい在宅の仕事だったことも、彼の遺体発見の遅れに拍車をかけた。
しかし、一ヶ月以上連絡が取れない仕事関連から緊急連絡先になっていた親類が連絡を受け、彼の屋敷を訪れた時、彼は、愛するみどりと一体になっていた。
急死してしまった飼い主を、肉食性のペットが食べてしまうということは、恐ろしいが実際に起こる事件だ。だが、今回は植物だ。普通なら、手入れをされず、水を貰えず、枯れ果てるはず。
なぜ、そうなったのか。
彼が命を失うとき、最後に如何なる動きをしたのかは、わからない。
ともかくも、発見者は、彼の遺体が、彼が愛し、育んだ植物の根に取り込まれてーーーそう、まるで抱き締められているようだった、と。
そして、なんでか彼は、ホームセンター・ワシントンに「出る」ようになった。葬儀はきちんと執り行われ、家は売りに出された。しかし買い手がつかないまま、いまは新市街の心霊スポットのひとつと化している。
「彼」がいるから、家が売れないのか。
家が売れないから、「彼」がいつづけるのか。
なんにしろ、彼は生前のように店に足繁く通ってくる。
ただし明るい店内には姿を現すことはなく、過去に彼だけが特別に通して貰った倉庫の暗がりに現れるというのだ。
日が沈んだ後。
植物たちと一体となった姿で。
「ボクは霊感あるんだけどね、これはホンモノだよ」
なぜか自慢気に、塚越は胸を張る。悪人ではないのだが、気分で急に休んだりするズボラな人で、境に次ぐ古株バイトらしいが、だいぶ困った人である。注目を集めたいらしく、霊感があると吹聴しているが、「みえるひと」である夕映からすると、間違いなく「みえてない」。境のほうが、たぶんよっぽど霊感が強いだろう。無害な一般通過浮遊霊が、威張る塚越の頭を小突きまわしていると、境は寒そうにソワソワしていた。塚越はノーリアクションである。一般通過浮遊霊は、ジト目で塚越を眺めた後、夕映としっかり「目をあわせて」、映画のアメリカ人みたく大仰に肩を竦めてみせて、どっかへ行ってしまった。バイト初日の出来事である。
他に、休憩室で薔薇にやたらと話しかけ、なぜか誇らしげに霊感があることを告げてから「この前、隣町の心霊スポットまで行って撮った動画なんだけどお」とすり寄ろうとしたが、「それって不法侵入じゃないですか? あたしのお兄ちゃん警察なんですよね。そういうのって、罪になりますよね厳密には」と、真正面からド正論でぶん殴られていた。ちなみに、数秒間聞こえた動画からは「帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ帰れ」と連呼する「こえ」が垂れ流されていたが、塚越には明らかに聞こえていないようだった。
だが、倉庫にいるのは、事実なのだ。
今もこうして、夕映を暗闇の中に閉じ込めている。
浅はかで無害な嘘ならどれだけ良かったか。
まずい、これは本当にまずい。
超常的な力で、ドアを開けられなくできるほどの、強い「ナニカ」。
絶対に関わりたくない。その正体が、塚越の怪談の幽霊であろうが、そうでなかろうが、ロクなものではない。100%有害な存在だ。
夕映が「みえる・きこえる」とわかると、「かれら」は必ずなにかを強要してくる。
危害を加えてくる。
だいたい幽霊は、この世への未練や誰かへの憎しみをなぜか夕映にぶつけてくるし、人ならざるモノは、夕映のなにかと引き換えに、なにかをあげる、と強引に取引を迫ってくる。
どちらも迷惑だ。
特に幼い頃は、単に見た目が怖かったし、追いかけられれば当然怖いし、取引内容も怖いし、泣きながら逃げ惑った。
お地蔵さんか神社まで逃げれば諦めてくれるのだが、たまにしつこいのがいて、心底怖かった。
小学生のころは、学校内でいじめっ子に追われ、学校の内外には幽霊と人ならざるモノがいて、とにかく怯えて逃げ回る日々だった。小学校の半ばあたりで、怪異の類いは「みないふり」が有効であることに気付き、危害を加えられることはほとんどなくなったものの、「みないようにするために」挙動不審になるので、生きた人間からはますますいじめられるようになったが。
今日の帰り際といい、ふりきったと思っていた過去の恐怖が、待ってましたとばかりに押し寄せて夕映の心は折れる寸前まで追い込まれていた。
やっぱり、家の中に隠れていれば良かった…いや、冷静に、落ち着け。
倉庫内のナニカは「みないふり」をすればいい。ドアが突然開かなくなり、明かりが消えて困っている「だけ」なんだと自分に言い聞かせろ。
現実の問題を考える。
背後で強くなる土の匂いなんか、気のせいだ。
中一の頃、夕映をいじめていたあいつら…どうやら立派な不良に成長していたようだが、今の夕映は違う。あの頃のような身体的な弱さは、今の彼にはない。それどころか、末っ子の通う園の園長先生のツテで(どんだけツテあるんだあの人)、護身術をメインとしたクラヴ・マガという格闘技を教わって一年になる。なにかされたって、やられっぱなしでは終わらない。
少なくとも、前より早く逃げられる。
護身術とは、襲われた時に冷静さを失わないための心構えを身に付けるものであり、格闘技の技は逃げる隙をつくるためのもの。一秒でも早く危険から脱し、関わらないようにするための技術であり、「怖くて動けない」を訓練により打ち消すのが護身術なのだ。
だから、あいつらは、もうこわくなんかない。
それなのに。そのはずなのに。
こわくて、たまらない。
何年も体と心に刻み込まれた恐怖が、理性を蝕み、冷静さを奪う。
「怖くて動けない」
そして、いじめっ子も、霊も妖も「怯えている人間」が大好きだ。率先して集まってくる。喜び勇んで襲ってくる。
夕映のうなじに、生暖かい風が吹き付けた。
倉庫内のナニカ。
塚越の怪談の、植物に取り込まれた男なのか、全然無関係のモノなのか。
夕映は、たしかめない。
「みた」ら、「みられる」。
「みつかる」
夕映の恐怖を嗅ぎ付けたナニカは、暗闇に怯えているだけか、「じぶん」を認識しているのか、たしかめようとするかのように、ドアノブにしがみつく夕映の背中に、のぢゃり、とへばりついてきた。
湿り気と、土の匂いと、ああこれは生き物の腐る匂いーーー夕映の喉を悲鳴が駆け上ってきて、
「あ、姫川くん、いた」
ガチャっと、ドアが普通に開いた。
そして目の前、正確には三十センチほど下に、日常になった見慣れた顔。
防人薔薇が、倉庫のドアをあっさり開けて、入ってきた。
「ど、どうかした? あれ? 真っ暗? 電気つかないの?」
彼女は身を倉庫内に乗り出して、ドアの脇の照明のスイッチをパチパチ操作する。
「暗いなあ」
いつもより、ちょっと低く呟くと、けっこう強い力で棒立ちの夕映の腕を引いて、明るいバックヤードの廊下へ連れ出した。夕映はされるがまま、よろけて廊下の反対側の壁に背中をつけた。ナニカは、ドアが開いた瞬間に消えている。
入れ違いに、薔薇が、暗闇の倉庫へ一歩踏みいる。
四角くドアの形に切り取られた闇の前に、小さな背中が立ちはだかっている。
学校のときと、同じ光景だった。
彼女は、背をピンと伸ばして、堂々とした仁王立ちで、暗黒の倉庫を眺め渡している。
「これじゃ、普通の人、品出しにこれないじゃん。どうなってんの」
さらに数回、パチパチとスイッチを動かす音がして、パッと倉庫の明かりが点いた。眩しいほどに。
「やっと点いた。なんなの、もう……姫川くん、だいじょうぶ?」
光を取り戻した倉庫に背を向け、薔薇は振り返る。
夕映はといえば、たぶんだいじょうぶには見えないだろう。壁に背を張り付け、大きな体を縮こませて細かく震え、息を荒げているのだから。だれがどうみても、怯えきった姿。
変わっていない。自分はなんにも変わっていない。
いじめに負けて、弟の育児という格好の逃げ場に飛び込んだ、心も体もヒョロヒョロだったあの頃と、なんにも変わっていない。護身術で習った、脅威に対する心構えも、成長と鍛練で鍛えた体も、心が弱虫のままでは意味がない。
なんて、なんて、みっともない。恥ずかしい。辛い。自分がどんどん嫌いになる。
顔面蒼白の夕映を、いつもどおりの涼しげな様子で見ていた薔薇が、半分体をねじって、倉庫を見た。
「暗いところに、なんか怖いものいた?」
その横顔と、声音。
薔薇の焦げ茶色の目が、電灯を反射して、濃い蜂蜜のような金色に見えた。まるで、肉食獣の瞳のような。
声からは温度が、正確には人間味が失われ、警戒する野生の動物のような冷たい平静さが滲んでいる。
自分の察知できていない脅威を、別の生き物の警戒音で察する野生動物のように、夕映の様子から推理して訊いているのだ。
獣的でありながら、「現状に冷静に対処する」という、冷酷な理性でもある。
けれど、危険を察知しているにも関わらず、薔薇は夕映の前から、つまり倉庫のドアの前から動かない。
たちはだかっている。
見えない脅威がそこにあるのに。彼女自身は見えていないのに、壁のように、盾のように、夕映を守ろうとしている。
「……そこ…なんか、いる」
「マジでか。なんも分からん」
なんとか絞り出した声に、真剣さはあるものの、どこか緊張感はない薔薇の返事。しかし夕映の発言を全く疑っていない。
「たぶん、暗闇の…中…だけ……土と、他の匂いが凄くて…ドアが開かなくなって」
「え? 怪我とかはしてないよね?」
急に、声にいつもの柔らかさが戻り、同時に焦りが混じった。夕映の全身を慌てたように見回す。
「土と? なんかの匂い? なんの匂いだ? でも、いつもの倉庫の匂いしかしないなあ…姫川くんにしか分からんヤツか。まいったなあ。物理的に存在しないもの、殴れないんだよね」
そこでふと、夕映に冷静さが戻ってきた。
なんで、会話が成立してるんだ?
疑問が顔に出たのだろう。薔薇はいつもどおり、あっさり答えをくれた。
「家族に「みえるひと」いるから、分かるよ」
あたしは全く見えんけど、と朗らかとすらいえる口調に、夕映は絶句する。
「ちなみに、生きてる家族だけで三人。みえない人のほうが少数派っていうね。昔、お兄ちゃんのひとりが、今の姫川くんみたいに、よく困ってたから、分かるよ」
そして面倒くさそうに倉庫を振り返る。
「「日が沈んでから入っちゃダメ」か……あたしみたいなの以外は本当にダメなやつなんだろなあ。あ、でもドア、別にこじ開けたわけじゃないし、「ひとり」もダメな条件なのかもね」
ゲーム内の敵を分析するかの如く、日常会話のトーンで話す薔薇。
「じゃ、あたしが行ってとってくるよ。つーかあの客、ネジ何キロ買うの? 爆弾に仕込むの?」
などと、いつものバイト中の愚痴を言いながら、薔薇は倉庫へ入っていき、何事もなく大量のネジの詰まっためっちゃ重い箱を抱えて、普通に出てきた。
防人家の現在の居住者は四人
そのうち、鶺鴒と浮草が「みえるひと」
家を出て働いている隼も「みえるひと」
まさかの、みえないひとが少数派
それが日常な防人さんち




