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第十九話 彼女と彼の高校デビュー⑤

 薔薇はその後、何事もなかったかのようにバイト先へ向かった。一柳は、やはり根っからの善人なのだろう。唯一薔薇に声をかけてきたが、「だいじょうぶ!」と無邪気に返されてはさすがに沈黙。しかし「どこのクラスだろうね。先生に言っておくから気をつけて」と真剣に薔薇を案じていた。


 「ありがとう、いいんちょ」といつもどおりの和やかさで答えて歩き出した薔薇の後を、夕映はついていく。たまに、薔薇の方から、いつもどおりに授業の話やゲーム、バイトの話が投げ掛けられるが、夕映の返事は続かず、会話は途切れまくる。


 高校デビューマン。


 姫川夕映は、確かにその通り、高校デビューの典型だった。

 中一の夏休みから、いじめと、家事のために不登校となったのだ。

 夕映の家は父子家庭だ。母親の違う弟妹が三人いる。夏休みが始まる寸前、何人目か分からない父の交際相手が乳飲み子を置いて行方がわからなくなった。素敵なお母さんとは言いがたい女性ではあったが、乳児置き去りは過去イチでヤバイ女だったといえる。少なくとも、もう二人の弟妹はそれぞれ保育園と幼稚園に入っていたので昼間は手が空く。だから夕映も学校に行けたし、父も仕事に行けた。だが0歳時を受け入れてくれる保育園を探すのは、簡単なことではない。そして、懸念通り見つからない。空きがない。

 しかし、父が仕事をやめれば、収入がなくなり弟妹も園を辞めることになり、三人の乳幼児のワンオペ育児が始まる。


 家庭が、崩壊する。


 なんとかギリギリ保たれていたものが壊れる。

 だから。

 夕映は、学校でいじめられてて行きたくないから赤ちゃんの世話は自分が見るよと申し出たのだ。

 中学一年の夕映は、今と全く異なる見た目だった。ヒョロヒョロで背も低く、シングル家庭ということもあいまって、いじめっ子たちの格好の餌食だった。

 体格だけでなく気も小さいのでーーーそれは、今もそうなのだがーーー反撃とか反抗とか、そんなものは選択肢になかった。耐えるか、逃げるか。


 それにしても、なぜ父子家庭を理由に殴られたり蹴られたり、持ち物を壊されたり、教室でズボンを引き下ろされたり、虫の死骸を食わされたりしなければならないのだろう? いまでも、夕映には理由が分からない。意味不明で、理不尽だとしか思えない。

 筆記用具や教科書を失って買い直すのも、家計へのダメージになる。

 なら、もう、中学になど行かずに、父が仕事を中断せざるを得ないような事態に夕映が対処して、家を支えることにしよう。


 逃げるが勝ち。しかも逃げた先でやるべきことがあって、誰かの役に立つのなら、家族全員を守れるのなら、それでいいではないか。


 夕映は、今でもあの日の選択を間違いだとは思わない。自分が選べる最良だったと信じている。


 暴力から逃げて、家族を支えることの、なにが間違いなのか。


 ヤングケアラーになると宣言した息子に、父は反対した。少なくとも、いじめをなんとかしようと、学校へ赴いた。三日ほど半休や全休で仕事を休んだ、その結果は散々なものだった。いつも以上に疲れきった父の顔を見て、夕映は自分が暴力を振るわれた以上の胸の痛みと悲しみと、そして初めて強烈な怒りを覚えた。決して、あの中学になど戻らない。なおも説得しようとする父を無視して、赤子の世話をし、弟妹の送り迎えをし、買い物・食事の用意・洗濯などの家事、家計の管理、弟妹の園での生活のための持ち物の準備などを黙々とこなし始めた。

 父には、仕事がある。家族の生命線。自分と、遺棄されていった我が子を食べさせていくための働き口。これを失うわけには行かない。すべて壊れてしまう。だから、父もまた夕映のいじめを解決する力が自分にはない以上、夕映に頼るしかない、と諦めた。

 たぶん、そういうところが「母親たち」に利用されるのかな、と夕映は家事の合間にふと思った。

 ここなら、この男なら育ててくれる。そして自分は自由になれる、と安心して子を置いていく。

 夕映の、顔も覚えていない母も、弟妹たちのそれぞれの母もーーーせめて、自分達の苦労(じんせい)を踏み台にして、平穏に生きていてくれると良いのだが。

 父は良い意味で「頼りになる父親」で、悪い意味では「都合の良い男」なのだろうと夕映は思う。弱いものを守ろうとして、今のところ全部裏目に出るか利用され尽くしているだけの、不運な男。


 夕映がヤングケアラーとして不登校児童となって約一年後。突然、成長期が来た。家事育児で地道に動き回っていたし、体力のなさに辟易していたから「道具の要らない筋トレ」系の無料のネット動画を見てずっと鍛えていたからなのか。痛みを伴う速度で夕映は育ち、生まれたての小鹿のようにか細かった体は、歴戦の牡鹿のようなしなやかで目を見張るような体躯へと成長した。

 同じ頃、上の弟が小学校へ上がり、末っ子の預け先がついに見つかった。

 これを機に、高校へ行ってみないかと父に静かに頼まれ、口が達者になった弟妹にギャーギャー言われて、夕映は中学校にいたのとは異なる生徒も多く集まるーー川向こうからはるばる通ってくるらしいーー春星高校への進学を決めた。

 中学校は、いじめ問題には冷酷な対応だったが、進学には動いてくれた。というか、横から殴りかかる味方が現れたのだ。

 それは、末っ子を預かる園の園長先生。家庭の事情をすべて聴取した彼女は、ツテでいじめ対策と不登校児童に関わる支援団体を呼び出し、集団で学校へ突撃した。ほんとに、言葉そのまま。ちなみにちゃんと弁護士つきで。

 法的、人道的な学校側の対応の不備をあげつらい、「配慮」させることに成功した。

 出席日数や成績などは、数回保健室登校して、渡された課題をこなし、試験を受けてたらオーケイということになった。

 急展開に戸惑うまもなく、「二度と暴力に屈することのないように」と護身術の道場にまで放り込まれて、バキバキに鍛えられた。

 そして通学していれば中三の年齢になってからは、受験勉強も追加されて、とんでもなく忙しない二年間を送ることになった。

 護身術の鍛練も、受験勉強も大変だったが、赤子の夜泣きや急な発熱への不眠不休の対応と違い、計画的に休憩と食事を摂れる生活は、言うなれば充実していた。


 こうして、雌伏の三年間を経て、運命の輪は、なんか凄い勢いで良い方向へ回りだし、夕映はその流れに必死で乗って、今、こうして、高校生になって、バイト先へ向かって歩いている。小さな背中を眺めながら。

 春星高校も、丸三年不登校だった夕映を、よく受け入れてくれたものだ。更に特例のバイトの許可。

 恵まれているーーとまでは素直に言えないけれど、敵しかいなかった幼い日々から中学一年の月日を思えば、まわりには味方がたくさんいると分かる。


 おかげで、誰にも言えない、()()()()も気にせず過ごせている。家事と育児で忙しくしていた頃よりも、()()()()()()()()()()()()()、今の夕映には余裕がある。落ち着いている。だから、アレらを無視できる。


 順調な「高校デビュー」。クラスメイトも他校からの生徒が多く、知らない顔ばかり。同じ中学の生徒もいたが、中学当時は一学期しか通っていないから忘れられているか、見た目が変わったから気付かないのか、ともかく夕映に不必要に絡んでくる者はいない。

 数少ない交流相手は、前を行く小さな背中ーー防人薔薇。夕映と同じく入学早々にバイトの許可を得られたということは、複雑な家庭環境があるのだろう。だからなのか、距離感が良い。必要なこと、夕映としか話せないこと、そして何より楽しいことーー無課金で遊んでいた唯一の娯楽だったスマホゲームの話があるときだけ、ひょこりと顔を出す。男きょうだいがいるらしいので、話しやすさにはそれも加味されているのかもしれない。

 猫よりは気安く、犬よりはクールな、なんともいえない雰囲気が、久しぶりに他人と関わることに緊張していた夕映にとって、至極安心で安全な距離感。


 その、せっかくできた、「友人」でいてほしい人に、今日見られてしまった。夕映の昔を。逃げた過去を。春星高校に、あの時のいじめっ子たちが勢揃いしているとは思わなかった。しかも、わざわざ探しに他クラスから来るなんて。アイツらはヒマなのか。その時間を分けてほしい。

 夕映は、薔薇が巻き込まれないか、それだけが不安だった。自分のことは良い。そのために、体だけなら鍛えてある。けれど、いくら力持ちで運動神経抜群とはいえ、薔薇は小柄な女の子だ。あのバカどもが集団で暴力を振るってきたら……。

 まさか現実世界で出会うことになるとは夢にも思っていなかったゲームの中の長年の「フレンド」。チャットで何度も話してきた。現実のひととなりも良い。そんな彼女に、自分のせいで、なにか悪いことが起きたりしてほしくない。


「そういえば、姫川くんて、夜の倉庫に入ったことある?」

「え?」

「在庫の、でかい倉庫。夜っていうか、()()()()()()()


 ザワッと腕の毛がそそけ立った。薔薇の言う、在庫の倉庫。特に重量物の多い、あの天井の高い倉庫。


「二、三回だけ」

「そっかあ。あたし、ほぼ毎日行くんだけど、境先輩、あそこ苦手なんだって」

 日常的にする、バイト先の世間話だ。薔薇と夕映は、指導の先輩が違う。なので習ってることも微妙に違うので、たまに情報交換のような、先輩バイトの感想のような話をする。

「最初はさ、重いもの持つのがヤなのかと思ってたんだけど、この前の土日の昼間、ふつーに入ってたんだよね。で、なんか「日が沈む前に用事は全部終わらせとこう」とか言っててさ。まああそこ、広いし暗いし、仕事終わりに重いもんはイヤだけど、なんか、実話怪談の冒頭みたいだなって」

 少し前を歩いている薔薇は、邪気のある笑顔で首をかしげて見上げてくる。

「で、だから「もしかして怖い話ですか? 出るんですか?」っつったら、境先輩珍しく慌ててさあ。ますます実話怪談みたいなんだけど、なんも教えてくれなくて。これ、あたし死亡フラグ立ってるよね? 実話怪談の場合」

「……夜、行かなきゃいいんじゃないか」

「それはそうなんだけど。でも、じゃあ、なんか行かなきゃなんないときがあったら、呼んでね。一緒に行こ」

 あの倉庫は基本的に重量物ばかり入っている。薔薇はなにしろ力持ちを売りに在庫の出し入れを頻繁にしている。だが、そんな話を聞いたので、手伝ってね、ということなのだろう。



 倉庫にいるアレを見たわけではなさそうだ。



「ああ、いいよ」

「ありがとー。じゃ、今日も頑張ろう!」

 ぎこちなくうなずきを返すと、勘違いでなければいつもよりテンション高めの返事が来た。なにか、彼女なりに気遣いのつもりだったのか。話題のチョイスがバイト先の怖い話というのは、ちょっとどうかと思うが。

 ふと見上げると、ホームセンター・ワシントンに到着していた。

平和な日常、そろそろ終わりそうですね

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