第十二話 きさらぎ駅のコインロッカーベイビー⑫
「赤ちゃんはね、ほら、あそこのコインロッカーにいて、ずっとあや香さんを待ってたんだよ」
浮草が指差す先に、古いコインロッカーがある。硬貨しか使用できないタイプ。あの日、あや香が赤ちゃんを隠したのはICカード対応の大きな新しいロッカーだった。
◆ ◇ ◆
異形の化け物と化した魅乃島に追われ、あや香は見知らぬ町を逃げ惑った。
明るいところを目指して。
でも、あんなものを人がたくさんいるところへ連れていったら、大変なことになるのでは?
ああ、そんなことを言っていたら、自分だけじゃなく赤ちゃんが、大切な我が子が危ない。
あれはなに? なんであんな姿に?
わけがわからない。どうして、こんな怖いことばかり起こるの。
頭は混乱し、息は苦しくて、足がもつれて何度も転びそうになりながら走った。
泣きたかった。
怖かったし、意味不明だし、あまりにも理不尽な出来事に、頭がパンクしそうで、座り込んで、泣き喚きたかった。
だが、そんな風に我を忘れて泣き崩れることはできない。走れなくなる。赤ちゃんを守れなくなる。走る以外にできないのだから、泣くわけにはいかなかった。
歯を食い縛って走り続け、肉体が悲鳴を上げるなか、めぐりめぐって行き着いたのは、ああもはや百年前のように感じる、数時間前に降り立った私鉄の駅だった。終電が来ることを、アナウンスが告げるのが聞こえる。助けを求めたかったが、あいにく駅員の姿は見えない。終業準備のためにこの辺りにはいないのだろう。
終電に飛び乗ろう。でも、追ってくるアレも一緒に乗り込まれてしまったら、いよいよ逃げ場がなくなる。
どうしよう!?
時間はない。いま、魅乃島の姿は見えないが、来ると「わかる」。
咄嗟の判断だった。
あや香は、我が子を思いっきり抱き締める。もちろん、傷つけない力加減をした、でも、全身全霊で抱き締めた。
それから、傍らのコインロッカーを開く。
「必ず、必ずおむかえにくるからね。待っててね」
たぶん、無理だろうなと冷静な部分が呟くが、あや香は神に誓ってむかえに来ると約束して、萌黄色のおくるみに守られた我が子をコインロッカーに入れ、扉を閉めた。
必死に掴んできたわずかな荷物の中のICカードで施錠すると、自動改札を通り、ホームへ続く階段の下で立ち止まり、後ろを振り向く。
ひとけのない駅の入り口。
夜の暗闇の中から、化け物に成り果てた魅乃島が姿を現し、あや香を血走った目で睨む。
「見ぃぃぃつぅうけぇぇぇえぇたああああ!!!」
なんなのあれ?!
ついにあや香の目から涙がこぼれた。でも、それでも、あや香は冷静に体で隠すようにバッグを抱き込んだ。まるで、赤ちゃんを守り隠そうと、抱き締めているかのように。
そして階段を駆け上がる。最後の力を振り絞って。いや既に体力の限界など越えている。
ホームへ駆け上がると、終電は発車寸前で、ホームドアが閉まりつつある。
あや香は、危険を承知で体をねじ込み、電車内に転がり込んだ。ドアが閉まる。
無理な駆け込み乗車はお止めください、と怒ったようなアナウンス。
どうでもいい。
こちとら、それどころではないのだ。
電車が動き出す。
終電は、実はけっこう混んでいるものだが、この路線が私鉄なうえ、向かう方面に住宅地がないのだろう、ほとんど人が乗っていない。
よかった。あんまり、人を巻き込まずに済みそうだ。シェルターには、たいへんな迷惑をかけてしまったが。
体力気力の限界を超えて、床にへたり込むあや香の頭を、鋭い爪を生やした毛むくじゃらの手が掴んだ。
◆ ◇ ◆
その後の魅乃島の行動をあや香は知らないし、その必要もない。
超常の存在となり、シェルターを襲い、終電まで追いかけてあや香の首をへし折った魅乃島は、赤ちゃんがいないことに気付いて電車内で暴れ、電車は当然緊急停止。
パニックが広がる中、魅乃島はあや香の遺体を乱暴に引きずって車外へ飛び出すと、なぜかは全くわからないが、偶然行き当たった小さな公園のブランコに、その鎖を使ってあや香を吊るした。
意味も理由も、分からない。
浮草は、「もっとよくみれば」分かるが、知りたくもない。だが、魅乃島がなんでこんな化け物になったかは「みて」おいた。あとで鶺鴒に話そう。
それから、ここ数日、私鉄や公共施設で起きた爆発事故とやらのニュースは、これだったんだな、と思う。
目的を果たせなかった魅乃島は、己に混ぜ込まれた犬の能力で、あや香の匂いを辿り、コインロッカーを見つけた。
しかし、赤ちゃんは、母の命と引き換えの行動と、神の御加護を受けていた。魅乃島の魔手は届くことなく、赤ちゃんは今、浮草たちがいるきさらぎ駅のコインロッカーへ時空を超えて移動したのだ。
赤ちゃんを抱き締め、あや香は声を上げて泣き出してしまった。
「あっ、あっ、うわあっ、うわあああああ!!」
今の今まで、あや香の中に押し込められていた全ての感情が、泣き声というかたちになって外へと吐き出された。
「うっ、あああ、ごめんね、ごめんね、おむかえに行けなくて、ごめんね、ごめんなさい、置いていってごめんなさい! バカなお母さんで、ダメなお母さんでごめんなさい! たくさんの人に迷惑かけちゃった! ごめんなさい! ごめんなさい!」
悲痛な慟哭はすべて謝罪だった。泣き叫ぶ母親に、胸に抱かれた赤ちゃんはきょとんとしている。
浮草は、そっとあや香の肩に手を置いた。
「違うよ。謝らなくて良いんだよ。悪いのは、悪いやつだけなんだから。あや香さんはバカでも、ダメでもない。それになんにも、悪いことなんてしてないよ」
子どもらしからぬ、大人びて、毅然とした、しかしとても優しい声が浮草から紡がれる。労りと悲しみが混じり合う、嘆きをはらんだ笑顔であや香を見る。
「でも、警察に行ったら良かっ……だけど、あんなの、あんなの、怖くて、わかんなくなっちゃって、でも逃げなきゃって。わたし、バ」
いきなり、ガッと片手で浮草は、あや香の口をふさいだ。浮草が初めて示した乱暴な行動。そして、眉を寄せて叱る口調で、きっぱりと言った。
「それ、ダメ。あや香さんは、そんなことないから。その言葉ナシ」
「そうですよお、お嬢さんはやるだけやったんです。みんな見てました。それにねえ、アタシらがやみ駅にいたお嬢さんを見つけられなかったのを、謝らないと。本来ならアタシらの仕事だったのに。浮草くんが、みどりは様に頼んでくれたお陰です。いやはや、お二人とも、本当に申し訳ない」
管理人さんが、九十度に上半身を折り曲げて頭を下げる。このあたりの時空、次元を守るものが、人に向かって真摯に謝罪していた。
「超こんがらがってたから、しょうがないよ」
正確には、異形と化した魅乃島が、人間の世界から強烈な未練をあや香にたいして持ち、それが手のかたちで彼女の首を掴んでいたせいだ。「はざま」であるやみ駅で、「あちら」でも「こちら」でもない、どっちつかずの場所に縛られるような状態になり、管理人さんたちでも見つけられなかった。
あや香の口許から手をはずした浮草は相変わらず平然と、あや香はやっと涙や感情の沸騰がおさまり、涙をぬぐっている。
「お疲れでしょう。もう安心ですから。ゆっくり休んでください」
居住まいを正した管理人さんがいうと、きさらぎ駅に光が満ちた。
列車が、駅のホームに入ってくる。ふと、旅立ちの前のワクワクする感覚が、あや香の胸に沸き起こった。




