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第十話 きさらぎ駅のコインロッカーベイビー⑩

 はっとあや香は顔を上げた。地べたに座り込んだまま、眠ってしまったらしい。

 慌てて身の回りを片づける。焦りながらも腕時計を見ると、ここについて一時間も経ってはいなかった。良かった。

 あや香は赤ちゃんの抱っこ紐を確認して抱き直し、小さな森を出た。人通りの多い明るい場所を目指してしばらく歩くと、教えられた公共施設の目の前に出た。メモと施設名を何度も確認し、あや香は煌々と明かりが灯る守衛室に駆け込んだ。


 保険証での身分証明が済むと、あや香はすぐに施設内のシェルターへ案内された。アパートなどが丸ごと借り上げられている場合もあるらしいが、ここは公共施設の数フロアに紛れるタイプのシェルターだった。複数の人が頻繁に出入りしても目立たず、多くの人の目があることが唯一無二の防衛手段でもある。

 フロアに続くエレベーターは自由に利用できる。シェルターのあるフロアへ降りると、ごく普通のオフィス風のドアがあり「地域支援施設受付」というような、なんとでもとれるプレートがあり、暗証番号およびカードキーでのみドアが開く。内部は、どこか病院の長期入院病棟や老人ホームを思わせる居住施設になっていた。

 受付を済ませ、職員に労られる。

「もう今日は遅いので、詳しい施設の説明や今後の相談は明日にしましょう。とにかく、お疲れ様です」

 夕食をとって休んでくださいと言われて、個室用のカードキーを渡されて部屋へ案内される。外出については明日説明してくれるという。むろん、今から外へ出る気などないので構わなかった。

 別の職員が夕食を持ってきてくれ、赤ちゃん用のミルクなどは必要なものはないかなど細々と聞いてくれる。部屋にはシャワーのみの浴室があったので、着の身着のままで出てきたあや香は、部屋着を借りることになった。大抵のものはレンタルか、ほぼ無料提供なのだという。

 今日着ていた服は、すぐにでも洗濯してくれるとのことで、シャワーを済ませたあや香は一旦部屋を出てちょっとまごつきながらも、衣服を預けた。夕食を食べ終えて、一息ついている間に乾燥まで終わって衣類が戻ってきたのには心底驚いた。

 夕食は、けっこう大盛りだったが、あや香はペロリと平らげてしまった。自分で自分にびっくりする。

 食器を下げに出ていくと、夜勤の職員がいて、受け取ってくれる。24時間、誰かしら職員がいるのだ。深夜に逃げてくるような人だっているはずだから、当然と言えば当然のことか。

 ちょっと入院着っぽい(職員が苦笑いしながら言っていた)部屋着を身に付け、やはり借り物のスリッパでペタペタ床を鳴らしながら部屋へ戻るなか、職員以外の人ーーあや香と同じ、避難者の女性らとすれ違う。誰の目にも明らかな怪我を負っている人もいるし、一見無傷に見える人もいる。幼い子連れもいる。しかし共通する空気は同じ。疲労と、少しの安堵。あや香と目が合うと、皆、悲しげながらも優しい表情で会釈してくれる。会釈を返すあや香も、全く同じ顔をしているのだろう。


 ああ、こんなにたくさんの人が、理不尽な暴力から逃げてきたのか。


 あや香も、施設に辿り着いてからは安心感を得ていたが、問題は一切解決していない。ここにいる全員がそうだ。だからここに逃げ込み、隠れている。


 魅乃島を、警察はどうするのだろう? 逮捕? いや、脅迫みたいなものだから、きっと出来ないだろう。捕まえて自由を奪い、裁判にかけて、刑務所にいれるーーなんてことにはならない。

 魅乃島は、自由に外を歩き回る。決定的な被害者が出るまで、悪人なのに自由に外を歩ける。被害者の女性や子どもたちは、屋内で息を殺して、隠れ、逃げ続ける。


 これから、どうなるんだろう。


 一生、逃げ隠れし続けなければならないの?

 あや香は暗い気持ちになりながら、割り当てられた部屋へ戻った。


◆ ◇ ◆


 騒音。

 ガラスや、何か堅いものが破壊される、凄まじい音であや香は目覚めた。

 人々の叫び声、悲鳴、走り回る足音、そしてけたたましい警報音。

 ドア越しに一度だけ、誰かの必死な声で「部屋に隠れていて!」という叫び声が聞こえたが、騒ぎは大きくなる一方だ。

 火事? いや、それなら逃げろと叫ぶはず。

 あや香は薄い部屋着から、洗いたての服に着替え、靴を履いた。隠れていろと言われたが、本能が逃げろと絶叫している。

 手早く身支度を整え、赤ちゃんを抱きあげて、バッグを担ぐ。

 しかし、ドアの外が安全かがよく分からない。アパートなどのドアのような覗き穴がないからだ。

 どうしようか迷っていると、あや香の部屋のドアが狂暴な音と共に乱打され始めた。金属製のドアが、みるみるうちに歪んでいく。


 異常なことが起きている。


 あや香は腕の中の我が子を見下ろした。赤ちゃんは、いつからか美しい萌黄色の絹のおくるみを纏っていた。すべらかだが、しっかりと抱き抱えることが出来る、不思議な安定感があり、何より「守ってくれている」という無条件の安心感があるのだ。そう、両親が生きていたときのようなーー怖いことが起きたとしても、助けてくれるという安心感が。

 赤ちゃんも、はしっこをはむはむしたり、にぎにぎしたりしているし、たまに唐突にぽやっと笑う。通りすがりの人に、一瞬だけ構ってもらったときのような愛らしい仕草を、空中に向かってやっている。

 今は、赤ちゃんなりに真剣な顔つきで、母親をまっすぐに見つめていた。

 ドアは今にも破られそうだ。

 いったい全体なんなのだ。まるで怖いお化けが出てくる映画の中に投げ込まれたかのようだ。

 あや香は、眠る前に確認していた窓に駆け寄る。なんとなく確かめておいた、避難経路のひとつ。上層階の角部屋にあるあや香の部屋には、緊急避難用の折り畳み式梯子が設置されていたのだ。窓を開け、書いてある通りにロックを解除。梯子がバラリとほどけて、地上へ繋がる。迷わずあや香は梯子を降り始める。片手に赤子を抱えているという、かなりの離れ業なのだが、人間やれるときはやれるのだ。

 梯子を降りきって見上げると、ドアを完全に破壊したのだろう、窓からこちらを見下ろす侵入者の頭が突き出ていた。


 あや香を見下ろしていた、それは。


「たっちゃんが、化け物になってた」

 心根だけでなく、見た目も人間をやめてしまった魅乃島龍矢が、あや香を追ってきたのだ。


◆ ◇ ◆


「それってさあ、あれだよね?」

 浮草は立ち上がり、あや香の前に立った。心底うんざりした顔の浮草が指差す方向を、あや香は恐る恐る見た。

「ひいっ」

 喉笛がひきつった音を出した。


 やみ駅のホームの端に、いつのまにかそれは立っていた。

 静まり返るやみ駅に、ヒィーヒィーという痛みを訴えるあえぎ声が響く。


「見ぃぃぃぃつううけぇぇぇたぁぁぁあぁ!!!」


 あや香には、聞き覚えがある。浮草も、あや香を辿る上で聞いた声。

 魅乃島龍矢の声だ。

 だが、その姿は化け物と呼ぶしかないほどに変わり果てていた。

 元が人間の若い男だったことは分かる。わりと端正な顔立ちだっただろうことも。

 だがその「甘いマスク」の半分は、犬に似たケダモノのように毛むくじゃらで、口は耳まで裂け、耳は大きな三角形、鼻も裂けていて血と膿をこぼし、半分はイヌ科のように長く前へせりだしている。目玉は血走り、血の涙を流しながらあや香を睨む。

 ひとっぽい部分が残る顔の一部は、()()()()()()()()()アザだらけで、目玉はギョロギョロと四方八方に動いて視線が定まらない。突き出した口には鋭い牙が並ぶが、人の部分の口の中は、歯を折られたのか歯列には隙間がある。

 半人半獣(はんじんはんじゅう)というと、なんかかっこいいが、どちらかというと、人とイヌ科動物をテキトーに練って混ぜたみたいな、変な生き物だ。化け物とかクリーチャーと呼ぶのは、かれらに失礼だな、と浮草は思う。


 いびつで、中途半端で、醜悪。


 魅乃島龍矢の性根を、見事に形にした、そんな化け物。

 まあ、怖いかと言われれば、怖い。どちらかというと、不快。

 魅乃島は、しきりに「見つけた見つけた」とホラーボイスで騒いでいるが、一向に浮草たちの方へやってこない。

 獣が適当な感じに混ざる体の中で、腕はわりとかっこよく「つくってある」ようだ。長く鋭利な爪がはえ、筋骨隆々で逞しい。あの腕で、シェルターの金属製のドアを殴り壊したのだろう。

 だが、腕はその一本しかない。この、やみ駅であや香ののど輪を掴んでいたはずの、ひとの腕。それが、ない。

「浮草様、本気で罵ってましたからね。そりゃあ消し飛びますよね」

 陰気かつ呑気に言いながら、車掌さんは制帽をかぶり直しつつ、浮草に並ぶ。

「いやいやいや、やっぱり浮草くんにお願いしてよかった! 迷子も問題も解決しましたね!」

「ひゃあ?!」

「うわ、管理人さん、いつの間に」

「今しがた出現しましたよぉ」

 本当に唐突に、作業着姿の中年男性が出現し、あや香どころか浮草まで吃驚仰天する。印象の薄いおっさんは、驚く人の子のリアクションにたいへん嬉しそうに笑う。

「それにしても、なんです、あれは」

「うーん……まあ、あれのせいで管理人さんはあや香さんを見つけられなかった、だけでいいかな、()()()。仕事して、管理人さん」

「「そっち」で悪さしてる輩がいますねえ、これは。ですが、浮草くんのおっしゃるとおり。まずは目の前の仕事を片付けましょうかねえ。車掌さん、スミマセンが、行き先変更、お願いします」

「喜んで! あっち方面へ行く方がわたくしも小人たちも性に合ってますからね」

 車掌さんは、記憶に深く残る陰気な声音と共にニヤリと笑って、騒ぐだけのみじめな化け物へ向かってスタスタ歩きだす。車掌さんに続く小人たち、時空の管理者たるおっさん。

「え、えっと、あの! だ、だいじょうぶ?」

 おろおろするより他にないあや香に、浮草はにっこり笑いかける。

「うん。なんにも心配いらないよ。あのひとたち、プロだからね」


 やみ駅が暗がりの深さを増す。


 そして、朗々と、陰気で記憶に爪痕を残す声が、ホーム全体に放送された。


『ご利用のお客様にお知らせします。緊急の事案につき、当列車は行き先を変更いたします。生きているお客様、天国行きのお客様はご利用になれません。たいへんご迷惑をおかけいたします。お見送りは黄色い線の内側へ。それでは、特別鈍行(とくべつどんこう)地獄行(じごくい)き、発車いたします!』

シェルター内の描写は、複数の居住型支援施設とフェイクのミックスです

いろんな理由で内部を知っている方、似てるなと思ったら、偶然です

全然違うと思った方、そうです、ミックスですので


さてそんなことよりも

次回、暇を持て余した夢に現れる近代怪異「猿夢」、ニチアサヒーローばりの大変身

ここと、次が、書いてて一番楽しかった

これが、うちの「猿夢」さんです!

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