第3話 交差点の迷路
東京の朝は、昨日と変わらず冷たかった。桜荘の窓から差し込む光は、コンクリートの隙間を縫うように弱々しく、俺の故郷の田んぼを照らす朝日とはまるで別物だ。ベッドの上で、俺、佐々木悠真は、擦り切れたバッグを握りしめた。シャベル、懐中電灯、ロープ、ドライバー、ワイヤーカッター、ハンマー。昨日買い足した工具が、俺の目的を静かに囁く。あの日の約束、あの日の悔恨。それを果たすために、俺はここにいる。だが、この街は俺を拒むように、複雑で無機質な顔を見せる。
昨夜、窓の外で見たあの少年の目が、頭から離れない。フードを被った影、俺をじっと見つめる視線。まるで俺の目的を暴こうとするかのようだった。あいつは、俺を追っている。なぜだ? 何を知っている? 考えを振り払い、俺は立ち上がった。今日もまた、この都会の迷路に飛び込まなきゃいけない。目的のために、道具を揃え、生活を整える。それが、俺の戦いだ。
朝食を抜き、俺は桜荘を出た。今日は渋谷だ。ホームセンターで買い足すものがあるし、ネットで調べた安いスーパーもそこにあるらしい。スマホの地図アプリを頼りに、東京メトロの駅へ向かう。昨日、女子高生に教わった切符の買い方を思い出し、券売機で渋谷までの切符を買った。190円。またあの複雑な路線図に目を細めながら、俺は改札を抜けた。車内は昨日と同じく、汗と香水の匂いが混ざり、息苦しい。窓の外は暗いトンネル。田舎のバスなら、窓から見えるのは緑の田んぼだったのに。
渋谷駅に着いた瞬間、俺は息を呑んだ。地上に出ると、人がまるで洪水のように押し寄せる。スクランブル交差点。テレビで見たことのある風景が、目の前に広がっていた。信号が青に変わると、数百もの人々が一斉に動き出し、交差点はまるで生き物のようだ。俺はバッグを握りしめ、流れに身を任せた。だが、渡り終えた瞬間、俺は自分がどこにいるのかわからなくなった。
ビルの隙間から差し込む9月の日差しは、まるで夏の名残のように鋭く、俺の目を刺した。額に汗が滲み、視界が一瞬揺れる。眩暈だ。田舎では、こんな強い光は木々の陰で柔らかく遮られていた。だが、ここではコンクリートとガラスが光を跳ね返し、俺を容赦なく焼きつける。スマホを取り出し、地図アプリを開くが、ビル群の影で現在地が定まらない。「ホームセンター…どこだ?」 呟きながら歩き出すが、どの道も似ていて、看板の文字が頭の中でぐちゃぐちゃになる。
周囲を見回すと、若者たちが笑いながら通り過ぎ、ビジネスマンが早足でスマホを耳に当てる。誰も俺に目を向けない。この街では、俺はただの影だ。ふと、交差点の向こうに人影が見えた。あの少年。フードを被り、俺をじっと見つめている。心臓が跳ねる。追いかけようと一歩踏み出したが、信号が変わり、人の波に阻まれる。少年はニヤリと笑い、雑踏に消えた。まただ。あいつ、俺を追ってる。
ホームセンターで必要なものを買い足した。ペンチと小さなナイフ。バッグの中で、道具たちが静かに重みを増す。目的はまだ遠い。だが、こうやって一つずつ準備を進めることで、俺はあの日の約束に近づいている。スーパーで米とインスタント食品を買い、桜荘に戻ったのは夕方近く。強い日差しにやられた頭はまだ重く、眩暈の余韻が残る。
リビングに入ると、4人の同居人がそれぞれの場所にいた。北村亮は、窓辺でコーヒーを飲みながら外を眺めている。元刑事の彼の目は、まるで街全体を監視するように鋭い。「渋谷か。派手なとこ行ったな」と言うが、その声にはどこか探るような響きがある。高梨彩花は、テーブルにタロットカードを並べ、煙草の煙を吐きながら俺を見た。「お前、今日も悪い運を引きずってる。気をつけなよ」 彼女の微笑みは、まるで俺の心の隙間を覗き込むようだ。山崎悠斗は、ソファに寝転がり、「渋谷? 俺、あそこならいい話持ってるぜ」と軽薄に笑うが、その目はどこか冷たい。佐藤葵は、部屋の隅でノートパソコンの画面を見つめ、キーボードを叩く音だけが響く。
「ただの買い物だ」 俺はそっけなく答え、自分の部屋に向かおうとした。だが、北村の声が背中に刺さった。
「この家、夜中に変な音がする。昨日も聞いたろ?」
俺は一瞬立ち止まった。確かに、昨夜、壁の向こうから微かな軋みが聞こえた気がした。だが、疲れのせいだと思っていた。
「…気をつける」
俺はそう答え、部屋に引っ込んだ。
夜、窓の外を見ると、東京の夜景は冷たく輝いていた。田舎の星空とは違い、人工的な光が空を覆い、俺を孤立させる。ふと、路地裏に人影が動いた。あの少年だ。フードを被り、俺の窓を見上げる。その目は、まるで俺の目的を暴こうとする刃のようだ。俺は窓を閉め、カーテンを引いたが、心臓の鼓動は止まらない。あいつは、俺を追っている。何のために? 俺の目的を知っているのか?
ベッドに横になり、バッグの中の道具を思い出した。シャベル、懐中電灯、ロープ、ドライバー、ワイヤーカッター、ハンマー、ペンチ、ナイフ。これで、俺はあの日の約束を果たせる。だが、この家、この同居人たち、そしてあの少年。全てが、俺の計画を脅かす影のように感じる。渋谷の交差点で迷子になった今日、俺は都会の冷たさと、自分の孤独を改めて突きつけられた。
高梨のタロットカードが、頭に浮かぶ。「悪い運」と彼女は言った。だが、運命なんて信じない。俺の目的は、俺の手で切り開くものだ。桜荘の軋む壁の向こうから、またあの音が聞こえた。低く、不規則な響き。この家、何を隠している? 俺の戦いは、始まったばかりだ。