第15話 鍵の深淵
心臓が、まるで胸を突き破る勢いで脈打つ。桜荘の居間は、闇と冷気が渦巻き、まるでこの建物が地獄の喉のように俺たちを飲み込もうとしている。割れた窓から吹き込む夜風は、まるで怨霊の吐息のように鋭く、剥がれたカーテンを幽鬼の爪で引き裂くように震わせる。床に散らばったガラス片は、遠くの街灯の光を反射し、まるで無数の目が俺を睨みつけるようにギラギラと光る。古びた木製のテーブルには、高梨のタロットカードが散乱し、「月」のカードが、さっきの占いの不確実性と隠された真実の呪いを漂わせる。壁のひび割れは、まるで生き物の血管が破裂するようにうねり、黒い液体が滲み出す。ダクトから漏れる冷気は、俺の首筋を凍てつく刃で切り裂くようだ。金属の軋む音が、耳の奥で不気味に響き、まるで建物が低く咆哮している。住人たちの息遣いは、恐怖で途切れ、闇の中で凍りつく。誰も動けず、誰もが何か――いや、*何か*を恐れている。俺もだ。
彩花の証言が、頭の中で血のように流れ込む。七年前、桜荘の階段で、ナイフを持った北村を見た。そして、冷たい女の声。「彼女を黙らせろ」。*北村の姉、奈津子*。その声が、高梨に似ていたって。*高梨、お前も関わってるのか?* 俺の視線が、高梨に向く。彼女は静かに微笑むが、その目が、闇の中で血のように赤く光る。*何だ…その目は?* 北村の冷たい目、低い声が、十年前、葵を殺した夜の犯人の影と重なる。*お前が、葵を殺した*。亮太が見つけたナイフの柄、写真、手紙――「桜荘を離れろ。知りすぎた」――は、北村が俺の故郷の近くに住んでいたこと、七年前の桜荘にいたことを示す。だが、証拠はまだ足りねえ。*奈津子…お前が共犯者だ*。俺は復讐のために東京へ来た。匿名のメモ、「犯人は東京にいる。桜荘を探せ」。それが俺をこの呪われたアパートに導いた。七年前、俺の部屋の真上で起きた未解決の殺人事件。被害者の名前も葵。*俺の葵と同じ*。偶然じゃねえ。北村と奈津子が、両方の事件に関わってる。*俺は、お前たちを逃がさねえ*。
高梨が、静かにタロットカードを手に持つ。「悠真、彩花の証言は鍵だ。だが、真実はこの建物の深淵に沈んでる。共犯者の影が、君を呪ってる。次のカードが、その正体を暴くよ」 彼女の声は、まるで死者の囁きのように低く、俺の魂を抉る。*こいつ、どこまで知ってる?* 彩花がソファの隅で膝を抱え、震えながら叫ぶ。
「もう…やめて…! あたし、関係ない…!」
だが、彼女の目は、恐怖と隠された真実で濡れている。*彩花、お前、まだ何か知ってるだろ?*
亮太が言う。
「悠真さん、共犯者の声、高梨さんに似てたって彩花さんが言った。でも、高梨さんが七年前にここにいた証拠はない。奈津子、北村の姉…彼女の記録を調べよう。図書館か、警察の資料で」 亮太の目は、まるで闇を切り裂く刃だ。*こいつ、どこまで知ってる?* 俺は頷く。
「ああ、亮太。北村と奈津子を追い詰める。この建物、俺たちを殺そうとしてる」
突然、部屋の空気が裂けた。まるで、空間そのものが崩壊するように。ダクトから吹き込む風が、怨嗟の叫び声のように唸り、血の匂いを帯びる。
*ゴゴゴ…*
壁が、まるで生き物が咆哮するように震え、ひび割れから黒い液体が滴り落ちる。*血だ…!* いや、違う。だが、床に落ちると、まるで血のように赤く広がり、俺の靴を汚す。*何だ…この建物は!?* 亮太の懐中電灯が、突然、血のような赤い光に変わり、ガラス片を照らす。ガラス片が、まるで生き物のように震え、空中に浮き上がる。*キイイ…* 鋭い音が、耳を劈く。ガラス片が、まるで矢のように、俺の顔をかすめる。*くそっ!* 俺は咄嗟に身をかがめ、破片が壁に突き刺さる。壁が、まるで傷口のように赤く滲む。
その瞬間、ダクトから葵の声が響いた。
「悠真…彼女…真実を…つかめ…」
声が、まるで俺の頭蓋骨を直接抉る。*葵、彼女って誰だ?* あの夜、葵が最後に呟いた言葉。「お兄ちゃん…助けて…」その声が、頭の中で暴れ回る。*葵、お前はこの建物にいるのか?* だが、すぐに別の声が割り込む。
「悠真…知りすぎた…黙れ…」
低く、冷たい女の声。*奈津子だ*。俺の背筋が凍りつく。*お前…生きてるのか? 死んでるのか?*
突然、テーブル上のタロットカードが、風もないのにカサカサと動き始めた。まるで、怨霊に操られるように、床に滑り落ち、渦を巻く。「月」のカードが、くるくると回転し、俺の足元で止まる。だが、カードの表面が、突然、血で染まるように赤く変色する。*何!?* 高梨が、静かに言う。
「悠真、カードが動いた。葵の声、奈津子の怨念が、君を導いてる。共犯者の正体、すぐそこだ」
*導いてる?* 俺の心臓が、恐怖で締め付けられる。*葵、お前は何を伝えたい?*
その瞬間、部屋の隅の古い鏡が、ガタガタと激しく揺れ始めた。誰も触れてねえ。鏡の表面に、女の影が映る。長い髪、血に染まった服。*七年前の葵*。だが、影が分裂する。一つは七年前の葵、もう一つは…*俺の葵*。二つの影が、俺をじっと見つめる。*何!?* 俺の喉が締め付けられ、声が出ねえ。彩花が叫ぶ。「やめて! 来ないで!」 彼女の声が、恐怖で震える。鏡の影が、突然、高梨の方を向く。*高梨…お前なのか?*
高梨が、ゆっくり新たなカードを引く。「女教皇」のカード。直感と秘密の象徴。彼女が囁く。
「悠真、共犯者は女だ。七年前、桜荘の管理人だった。北村の姉、奈津子。彼女は死んだが…その怨念が、この建物を支配してる。北村を操り、葵を…君の妹を、黙らせた」
*奈津子?* 俺の頭が、真っ白になる。*北村の姉?* 亮太が叫ぶ。
「悠真さん、思い出した! 七年前の資料、桜荘の管理人が女だった! 名前、奈津子! 事件後に死んだって…!」
*共犯者は、北村の姉*。俺の視線が、北村に向く。だが、北村は、部屋の隅でじっと動かねえ。*お前…姉貴と一緒に葵を殺したのか?*
突然、鏡がバリンと爆発するように割れ、破片が部屋中に飛び散る。住人たちの悲鳴が響く。破片が、まるで意志を持ったように、空中で回転し、俺に向かって襲いかかる。*キイイ…* 鋭い音が、頭を劈く。俺は咄嗟に亮太を庇い、床に伏せる。破片が、俺の腕をかすめ、血が滲む。*くそっ…!* 壁が、まるで傷口のように赤く裂け、黒い液体が流れ出す。床が、生き物の口のように開き、黒い手のような影が伸びてくる。*奈津子…お前なのか?* 俺の足を掴もうとする影の手。俺は必死に跳び退くが、床の隙間から、冷たい息が吹き上げる。*血の匂いだ*。
ダクトから、奈津子の声が響く。
「悠真…知りすぎた…黙れ…」
声が、まるで俺の心臓を直接握り潰す。鏡の影が、奈津子の姿に変わる。青白い顔、長い髪、血のような赤い目。*彼女だ…北村の姉*。影が、俺に近づく。*近い…近すぎる!* 俺の身体が、恐怖で凍りつく。奈津子の影が、俺の目の前で囁く。
「お前も…黙らせてやる…」
*何!?* 突然、俺の首に、冷たい手が触れる。*見えねえ…だが、確かに触れてる!* 俺は叫び、振り払うが、何もない。なのに、首筋に冷たい感触が残る。
彩花が崩れ落ち、叫ぶ。
「やめて! 奈津子さん、来ないで! あたし、全部話す! あの夜、北村さんと奈津子さんが階段で話してた…! 奈津子さんが、『葵が知りすぎた、黙らせろ』って…! 北村さんがナイフ持って…あたし、怖くて隠れた…!」
*奈津子が主導した?* 俺の頭が、混乱で埋め尽くされる。*北村はお前の操り人形だったのか?*
高梨が、静かに言う。
「悠真、奈津子は七年前、桜荘で死んだ。だが、彼女の怨念が、この建物を支配してる。北村を操り、葵を…君の妹を、殺した。カードが、彼女の正体を暴いたよ」
*死んだ?* だが、葵の声が、頭の中で響く。
「悠真…彼女…真実を…つかめ…」
*葵、お前は何を伝えたい?*
突然、部屋の天井が、*ゴゴゴ…*と崩れるように軋み、黒い雫が滴り落ちる。床が、まるで生き物の喉のようにうねり、俺たちを飲み込もうとする。ダクトから、奈津子の声が響く。
「北村…やれ…」
*やれ?* 北村が、部屋の隅からゆっくり動く。
「…奈津子? 姞貴は死んだよ。悠真、頭おかしくなったか?」
だが、あいつの目が、血のように赤く光る。*あの夜の目だ*。葵を殺した男の、冷酷な目。俺は拳を握りしめ、叫ぶ。
「北村! お前の姉、奈津子が葵を殺したんだろ! お前は操られてたんだ!」
北村が、ゆっくり微笑む。
「…姉貴は死んだ。だが、確かに、姉貴の声が聞こえる…」
*何!?* 突然、床が割れ、黒い影の手が俺の足を掴む。*くそっ!* 俺は必死に振り払うが、影の手が、まるで鎖のように絡みつく。亮太が叫ぶ。
「悠真さん、逃げて! この建物、奈津子の怨念だ!」
俺は北村を睨み、吐き捨てる。
「逃がさねえ、北村。奈津子の怨念、お前の罪、全部暴く」
桜荘の「訳あり」の真実は、今、鍵を開けられようとしてる。彩花の証言、高梨の占い、北村の姉・奈津子の怨念。超自然現象が、俺たちを地獄の底に引きずり込む。だが、俺と亮太は、真実をつかむために奔走する。その鍵が解き放つのは、復讐の終わりか、それとも俺の心を飲み込む無限の絶望か――俺には、まだわからねえ。