第14話 鍵の叫び声
心臓が、まるで胸を突き破る勢いで脈打つ。桜荘の最上階、七年前の事件現場の部屋は、まるで闇そのものが生きているかのように重く、冷たい。埃とカビの匂いが鼻を突き、床には薄っすらと残る血痕が、過去の悲劇を囁いている。さっき見つけた古い写真と手紙――七年前の被害者、葵と同じ名前の女と、「桜荘を離れろ。知りすぎた」と書かれた走り書き――を握りしめ、俺は立ち尽くす。亮太の懐中電灯が、暗闇の中で細い光の筋を投げかけ、床板の隙間や剥がれた壁紙を照らす。だが、光が届かない闇の奥で、何かが動いている気がする。*北村…お前なのか?* さっき、背後で響いた足音。北村の冷たい目、低い声。あいつの姿が、葵を殺した夜、闇に消えた男の影と重なる。*お前が、葵を殺したんだろ?*
亮太、高校生の自称探偵が、床板の空洞を叩きながら囁く。「悠真さん、北村さんの過去、もっと探らないと。証拠はまだ足りない。この部屋、何か隠してる」 亮太の目は、まるで闇を切り裂く刃のようだ。*こいつ、どこまで知ってる?* 俺は頷き、拳を握りしめる。
「ああ、亮太。北村の過去、必ず暴く。葵の仇を、俺は見つける」
だが、心の奥で、恐怖が蠢く。*この建物、俺を試してる*。十年前、雪深い山間の集落で、妹の葵は血に染まって死んだ。胸に突き刺さったナイフ、犯人の冷酷な目、嘲るような笑い声。復讐のために東京へ来た。匿名のメモ、「犯人は東京にいる。桜荘を探せ」。それが俺をこの呪われたアパートに導いた。七年前、俺の部屋の真上で起きた未解決の殺人事件。被害者の名前も葵。*俺の葵と同じ*。偶然じゃねえ。北村が、両方の事件に関わってる。亮太が見つけたメモ――北村が十年前、俺の故郷の近くに住んでいたこと、七年前、桜荘に短期滞在していたこと――が、その証だ。だが、決定的な証拠はまだねえ。
突然、部屋の空気がさらに冷え込んだ。息が白く見えるほどだ。ダクトから吹き込む風が、まるで誰かの吐息のように俺の首筋を這う。*ゴリ…ゴリ…* 床下から、這いずる音が響く。さっきより近く、まるで俺たちの足元に何かが潜んでいるようだ。亮太の懐中電灯が揺れ、光が不安定にちらつく。「悠真さん、聞こえた? この音…」 亮太の声が、かすかに震える。*こいつも、怖えんだ*。俺は唇を噛み、答える。「ああ、聞こえる。だが、怖くても止まらねえ。葵が、俺を呼んでる」
その瞬間、ダクトからあの声が響いた。
「悠真…真実を…つかめ…」
葵の声だ。まるで俺の心臓を直接握り潰すような、切なさと怒りに満ちた声。*葵、お前なのか?* 背筋が凍りつき、膝がガクガク震える。あの夜、葵が最後に呟いた言葉。「お兄ちゃん…助けて…」その声が、頭の中でこだまする。*葵、この建物にいるのか?* いや、そんなわけねえ。葵はあの町で死んだ。七年前の被害者は、別の葵だ。なのに、なぜこの声は俺を責める? なぜ、この建物は俺の罪悪感を抉る?
突然、部屋の隅にあった古いクローゼットが、誰も触れてねえのにキィ…と不気味に開いた。亮太の懐中電灯がその方向を照らすが、光が届かねえ。クローゼットの奥で、何かが動く。*影だ*。女の輪郭。長い髪、血に染まった服。*葵…?* いや、違う。七年前の被害者だ。*同じ名前、別の女*。だが、影が、ゆっくりと俺の方に近づく。まるで、俺を指差すように。*何だ…何がいる?* 俺の喉が締め付けられ、声が出ねえ。亮太が囁く。
「悠真さん、落ち着いて。幻覚かもしれない。でも…この建物、普通じゃねえ」
その時、床に置いた写真が、風もないのにカサカサと動いた。まるで、誰かに引っ張られるように、クローゼットの奥へ滑っていく。*何!?* 俺は咄嗟に写真を掴むが、指先がかすかに震える。写真には、七年前の葵が写ってる。彼女の目が、まるで俺を見つめるようだ。*お前…何を伝えたい?* 手紙の走り書き、「桜荘を離れろ。知りすぎた」。北村が書いたのか? いや、筆跡は俺が受け取った匿名のメモと同じだ。*誰が…誰が俺をここに導いた?*
突然、部屋の壁が、ゴゴゴ…と低く唸るような音を立てた。まるで、建物自体が怒りを溜め込んでいるようだ。ダクトから吹き込む風が、叫び声のように唸り、部屋中の埃が舞い上がる。亮太の懐中電灯が、突然消えた。暗闇が、俺たちを完全に飲み込む。
「くそっ、電池切れか!?」
亮太の声が、焦りを帯びる。だが、俺の耳には、別の音が響く。*タッ…タッ…* 足音だ。部屋の外、階段の方から。*北村か?* 俺は息を呑み、闇の中で耳を澄ます。足音が、ゆっくり、確実に近づいてくる。*誰だ…誰がいる?*
「悠真…真実を…見なさい…」
葵の声が、ダクトからではなく、まるで部屋の中心から響く。俺の頭蓋骨の中で、直接叫んでるみたいだ。*葵、お前は何を伝えたい?* クローゼットの影が、突然、動いた。女の輪郭が、俺の目の前まで迫る。*近い…近すぎる!* 俺は後ずさり、亮太の肩にぶつかる。
「悠真さん、動かないで! 何か…いる!」亮太の声が、恐怖で震える。
その瞬間、部屋の床が、まるで心臓の鼓動のように震え始めた。*ドン…ドン…* 床下の音が、俺たちの足元で響く。まるで、誰かが這いずりながら、俺たちを掴もうとしている。*葵なのか? それとも…七年前の被害者?* 俺の心が、恐怖と憎悪で引き裂かれる。*北村、お前がこれを引き起こしたんだろ?* 俺は叫ぶ。
「北村! 出てこい! 葵を殺したのはお前だろ!?」
突然、ドアがバンッと開いた。闇の中に、人影。*北村だ*。あいつの目が、冷たく光る。
「…悠真、何を騒いでる?」
その声は、低く、感情がねえ。*あの夜の声だ*。葵を殺した男の、冷酷な声。だが、亮太が叫ぶ。
「悠真さん、落ち着け! 証拠がない! 北村さんの過去、もっと探らないと!」
俺は拳を握りしめ、北村を睨む。*お前だ…葵を殺したのは、お前だ*。だが、亮太の言う通り、証拠がねえ。*くそっ、どうすれば…*
その時、クローゼットの奥から、ガサッという音が響いた。亮太が懐中電灯を再び点け、照らす。そこには、古い箱。鍵がかかってねえ。俺は震える手で箱を開ける。中には、ナイフの柄。血の跡はないが、刃に刻まれた模様が、俺の記憶を抉る。*この模様…葵を刺したナイフと同じだ*。亮太が囁く。「悠真さん、これ…北村さんのものかもしれない。でも、指紋とか、鑑定しないと…」 *証拠だ*。だが、まだ足りねえ。
突然、部屋の壁が、まるで生き物のように軋んだ。*ギイイ…* ダクトから、葵の声が響く。「悠真…彼だ…真実を…つかめ…」 声が、まるで俺の心を直接刺す。クローゼットの影が、突然、消えた。だが、代わりに、部屋の空気が歪む。まるで、空間そのものがねじれるように。*何だ…この感覚…* 俺の視界が揺れ、頭がクラクラする。亮太が叫ぶ。
「悠真さん、気をつけて! この建物、俺たちを試してる!」
北村が、ゆっくりと部屋に踏み込む。
「悠真、何を見つけた?」
あいつの目は、まるで闇そのものだ。*お前だ…葵を殺したのは、お前だ*。だが、俺は抑える。*証拠がねえ*。俺は亮太に囁く。
「亮太、もっと探すぞ。北村の過去、このナイフの真実、全部暴く」
亮太が頷く。
「わかった。次は、北村さんの故郷の記録。図書館か、警察の古い資料を調べよう」
桜荘の「訳あり」の真実は、今、鍵を開けられようとしてる。北村の過去が、葵の死と繋がる。超自然現象が、俺たちを追い詰める。だが、俺と亮太は、真実をつかむために奔走する。その鍵が解き放つのは、復讐の終わりか、それとも俺の心を飲み込むさらなる絶望か――俺には、まだわからねえ。