第13話 鏡の向こう側
心臓が、まるで胸を突き破る勢いで脈打つ。桜荘の居間は、闇と冷気が絡み合い、まるでこの建物自体が俺たちを飲み込もうとしているかのようだ。割れた窓から吹き込む夜風が、剥がれたカーテンを幽霊の指のように震わせる。床に散らばったガラス片が、遠くの街灯の光を反射し、まるで無数の目が俺を監視しているようにチラチラと光る。古びた木製のテーブルには、高梨のタロットカードが散乱し、「審判」のカードが、さっきの占いの余韻を漂わせる。壁のひび割れは、まるでこの建物が生き物の皮膚のように脈動している。ダクトから漏れる冷気は、俺の首筋を這うように冷たく、金属の軋む音が耳の奥に響く。住人たちの荒々しい息遣いが、暗闇の中で交錯する。誰も動けず、誰もが何かを恐れている。俺もだ。
さっき、佐藤が部屋を出ようとした瞬間、俺の叫び声が響いた。
「待て!」
あの男の目、歩き方、声。葵を殺した夜、闇に消えた犯人の影と重なった。だが、高梨の占いが、別の真実を指した。
「悠真、君が疑う者たちではない」
佐藤じゃない。彩花でも、壮太でもない。
(じゃあ、誰だ?)
俺の心は、憎悪と恐怖で引き裂かれそうになる。十年前、雪深い山間の集落で、妹の葵は血に染まって死んだ。胸に突き刺さったナイフ、犯人の冷酷な目、嘲るような笑い声。あいつの顔を、俺は忘れねえ。復讐のために東京へ来た。匿名のメモ、「犯人は東京にいる。桜荘を探せ」。それが俺をこの呪われたアパートに導いた。七年前、俺の部屋の真上で起きた未解決の殺人事件。被害者の名前も葵。
(俺の葵と同じ)
偶然じゃねえ。俺の妹がこの建物で殺された可能性がある。*犯人はここにいる*。
高梨の声が、闇を切り裂いた。
「悠真、カードは嘘をつかない。真犯人は、ここにいる。だが、君が疑う者たちではない。もう一度、よく見て。葵の声が、君に真実を教えるよ」
彼女の目は、まるで俺の魂を剥ぎ取るようだ。*こいつ、どこまで知ってる?* さっきの「審判」のカードが、壮太を指した瞬間、俺は一瞬、そいつが犯人かと疑った。だが、壮太の怯えた目は、ただの臆病者の目だ。葵を殺した男の目は、もっと冷たく、もっと鋭かった。
その時、亮太、高校生の自称探偵が、静かに口を開いた。
「悠真さん、佐藤さんでも、彩花さんでも、壮太さんでもない。真犯人は…北村さんだと思う」
*北村?* 俺の頭が真っ白になる。北村は、いつも部屋の隅で無口に佇む男だ。存在感が薄く、ほとんど口を開かねえ。七年前、桜荘にいたかどうかも不明だが、亮太の目は、まるで闇を切り裂く刃のようだ。
「証拠はまだない。でも、北村さんの部屋、夜中に変な音がする。金属を擦るような音。ナイフを研ぐ音に似てる。あと、事件の資料に、北村さんに似た男の目撃情報があった。七年前、桜荘の階段で、ナイフを持った男を見たって」
*北村…お前なのか?* 俺の視線が、部屋の隅に立つ北村に向く。だが、北村は目を伏せ、じっと動かねえ。まるで影そのものだ。*あの目…あの静けさ…* 葵を殺した夜、闇に消えた男の背中が、頭の中で蘇る。*似てる*。だが、証拠がねえ。亮太の言葉は、俺の心をざわつかせるが、確信には程遠い。
彩花が震えながら叫ぶ。
「やめて…もうやめて…! あたし、関係ないよ…!」
彼女の声は、涙で濡れている。さっき、高梨が言った。彩花は七年前、桜荘の事件の夜、階段でナイフを持った男を見た目撃者だ。*北村を?* 俺は彩花に近づき、低く囁いた。
「彩花、教えてくれ。あの夜、誰を見た? 北村だったのか? 葵を殺した奴を、知ってるだろ?」
彩花の目が、恐怖で大きく見開かれる。
「ち、違う…あたし…覚えてない…!」
だが、彼女の声は途切れ、震えが止まらねえ。*隠してる*。俺の心臓が、さらに速く脈打つ。
亮太が一歩前に出た。
「悠真さん、俺と一緒に証拠を探そう。北村さんの部屋、最上階の事件現場、全部調べる。葵さんの声、この建物、俺たちに真実を教えてくれる」
*亮太…お前、どこまで知ってる?* こいつの目は、まるで全てを見透かすようだ。だが、今、俺には選択肢がねえ。北村が犯人なら、葵の死の真相がここにある。*俺は、鍵を開ける*。俺は亮太を見据え、頷いた。
「いいだろう、亮太。一緒に探す。だが、もし北村が犯人なら…俺は、絶対に許さねえ」
突然、ダクトからあの声が再び響いた。
「悠真…真実を…つかめ…」
葵の声だ。まるで俺の心臓を直接握り潰すような、切なさと怒りに満ちた声。*葵、お前は何を伝えたい?* 背筋が凍りつき、膝がガクガク震える。部屋の空気が、さらに冷え込む。窓から吹き込む風が、まるで叫び声のように唸る。床下から、ゴリ…ゴリ…という這いずる音が再び響く。まるで、誰かが俺たちを監視しながら、近づいてくる。
俺と亮太は、闇の中で動き出した。北村の部屋へ向かう。階段を上るたび、桜荘の古い木の軋む音が、まるで警告のように響く。最上階、七年前の事件現場。葵と同じ名前の女が死んだ部屋。ドアの前で、俺は立ち止まる。*ここに、真実がある*。亮太が静かに言う。
「悠真さん、準備はいい? ドアの向こうに、何があるかわからないよ」
俺は拳を握りしめ、頷いた。
「準備? そんなもん、とうにできてる。葵の仇を、俺は見つける」
だが、ドアノブに手をかけた瞬間、ダクトから冷たい風が吹き込み、背後でかすかな足音が響いた。振り返ると、誰もいねえ。なのに、まるで誰かが俺の背中を見てる。*北村か? それとも…葵?* 俺の心が、恐怖と憎悪で引き裂かれそうになる。
亮太が懐中電灯を取り出し、ドアを開ける。錆びた蝶番が、キィ…と不気味に鳴る。部屋の中は、埃とカビの匂いが充満し、暗闇が広がる。床には、七年前の血痕が薄っすらと残ってる。*ここで、葵と同じ名前の女が死んだ*。亮太が床を照らすと、隅に何か光るものが見えた。ナイフの刃。だが、よく見ると、ただの金属片だ。*証拠…どこだ?* 俺は部屋の隅々を探す。引き出し、クローゼット、床板の下。だが、何もねえ。*くそっ、北村、どこに隠した?*
その時、亮太が床板を叩いた。
「悠真さん、ここ、変だ。空洞になってる」
俺は急いで駆け寄り、床板を剥がす。すると、そこには古い写真と手紙があった。写真には、若い女が写ってる。*葵…?* いや、違う。七年前の被害者だ。手紙には、走り書きの文字。
「桜荘を離れろ。知りすぎた」。署名はねえ。だが、筆跡が、俺が受け取った匿名のメモと同じだ。*これだ…鍵だ*。
突然、部屋の奥から、ガタッという音が響いた。振り返ると、クローゼットのドアが、ゆっくり開く。誰も触れてねえ。なのに、まるで誰かがそこにいるように。ダクトから、葵の声が響く。
「悠真…彼だ…真実を…見なさい…」
*北村…お前なのか?* 俺の心臓が、凍りつく。亮太が囁く。
「悠真さん、気をつけて。北村さん、今、この建物にいる」
桜荘の「訳あり」の真実は、今、鍵を開けられようとしてる。北村が犯人なら、葵の死の真相がここにある。だが、その鍵が解き放つのは、復讐の終わりか、それとも俺の心を飲み込むさらなる絶望か――俺には、まだわからねえ。