第12話 鍵の裏側
心臓が、まるで胸を突き破る勢いで脈打つ。桜荘の居間は、闇と冷気が絡み合い、まるでこの建物自体が俺たちを飲み込もうとしているかのようだ。割れた窓から吹き込む夜風が、剥がれたカーテンを幽霊の指のように震わせる。床に散らばったガラス片が、遠くの街灯の光を反射し、まるで無数の目が俺を監視しているようにチラチラと光る。古びた木製のテーブルには、高梨のタロットカードが散乱し、「審判」のカードが、さっきの占いの余韻を漂わせる。壁のひび割れは、まるでこの建物が生き物の皮膚のように脈動している。ダクトから漏れる冷気は、俺の首筋を這うように冷たく、金属の軋む音が耳の奥に響く。住人たちの荒々しい息遣いが、暗闇の中で交錯する。誰も動けず、誰もが何かを恐れている。俺もだ。
さっき、高梨の占いが真犯人を指した。「悠真、君が疑う者たちではない」。彩花は目撃者。壮太でも、佐藤でもない。亮太、高校生の自称探偵が、静かに口を開いた。「悠真さん、真犯人は…北村さんだと思う」 *北村?* その名前が、俺の頭を真っ白にする。北村は、いつも部屋の隅で無口に佇む男だ。存在感が薄く、ほとんど口を開かねえ。七年前、桜荘にいたかどうかもわからねえ。だが、亮太の目は、まるで闇を切り裂く刃のようだ。
「証拠はまだない。でも、北村さんの部屋、夜中に変な音がする。金属を擦るような音。ナイフを研ぐ音に似てる。あと、事件の資料に、北村さんに似た男の目撃情報があった。七年前、桜荘の階段で、ナイフを持った男を見たって」
(北村…お前なのか?)
俺の視線が、部屋の隅に立つ北村に向く。だが、北村は目を伏せ、じっと動かねえ。まるで影そのものだ。
(あの静けさ…あの目…)
十年前、葵を殺した夜、闇に消えた男の背中が、頭の中で蘇る。
(似てる)
葵の胸に突き刺さったナイフ、犯人の冷酷な目、嘲るような笑い声。あいつの顔を、俺は忘れねえ。復讐のために東京へ来た。匿名のメモ、「犯人は東京にいる。桜荘を探せ」。それが俺をこの呪われたアパートに導いた。七年前、俺の部屋の真上で起きた未解決の殺人事件。被害者の名前も葵。
(俺の葵と同じ)
偶然じゃねえ。俺の妹がこの建物で殺された可能性がある。
犯人はここにいる。
彩花が震えながら叫ぶ。
「やめて…もうやめて…! あたし、関係ないよ…!」
彼女の声は、涙で濡れている。高梨が言った。彩花は七年前、桜荘の事件の夜、階段でナイフを持った男を見た目撃者だ。*北村を?* 俺は彩花に近づき、低く囁いた。
「彩花、教えてくれ。あの夜、誰を見た? 北村だったのか? 葵を殺した奴を、知ってるだろ?」
彩花の目が、恐怖で大きく見開かれる。
「ち、違う…あたし…覚えてない…!」
だが、彼女の声は途切れ、震えが止まらねえ。*隠してる*。俺の心臓が、さらに速く脈打つ。
亮太が一歩前に出た。
「悠真さん、俺と一緒に証拠を探そう。北村さんの過去を調べる。桜荘の事件現場、全部調べる。葵さんの声、この建物、俺たちに真実を教えてくれる」
*亮太…お前、どこまで知ってる?* こいつの目は、まるで全てを見透かすようだ。だが、今、俺には選択肢がねえ。北村が犯人なら、葵の死の真相がここにある。俺は亮太を見据え、頷いた。
「いいだろう、亮太。一緒に探す。北村の過去、必ず暴く。もしあいつが葵を殺したなら…俺は、絶対に許さねえ」
突然、ダクトからあの声が響いた。
「悠真…真実を…つかめ…」
葵の声だ。まるで俺の心臓を直接握り潰すような、切なさと怒りに満ちた声。*葵、お前は何を伝えたい?* 背筋が凍りつき、膝がガクガク震える。部屋の空気が、さらに冷え込む。窓から吹き込む風が、まるで叫び声のように唸る。床下から、ゴリ…ゴリ…という這いずる音が再び響く。まるで、誰かが俺たちを監視しながら、近づいてくる。
俺と亮太は、闇の中で動き出した。まず、北村の部屋へ向かう。階段を上るたび、桜荘の古い木の軋む音が、まるで警告のように響く。北村の部屋は、俺の部屋の隣。いつも静かで、誰も近づかねえ。ドアの前で、俺は立ち止まる。*ここに、葵の死の鍵がある*。亮太が静かに言う。
「悠真さん、準備はいい? 北村さんの過去、簡単には見つからないよ」
俺は拳を握りしめ、頷いた。
「準備? そんなもん、とうにできてる。葵の仇を、俺は見つける」
亮太が懐中電灯を取り出し、ドアノブに手をかけようとした瞬間、背後でかすかな足音が響いた。振り返ると、誰もいねえ。なのに、まるで誰かが俺の背中を見てる。*北村か? それとも…葵?* 俺の心が、恐怖と憎悪で引き裂かれそうになる。
ドアを開けると、埃とカビの匂いが鼻を突く。北村の部屋は、ほとんど物がねえ。古いベッド、木製の机、閉じたカーテン。だが、机の引き出しに、鍵のかかった小さな箱があった。亮太が囁く。
「これ、怪しい。開けてみる?」
俺は頷き、細いピンで鍵をこじ開ける。*北村、お前、何を隠してる?* 中には、古い新聞の切り抜きと、メモの束。新聞の見出しは、七年前の桜荘の事件。「未解決殺人、被害者葵、犯人不明」。メモには、走り書きの文字。
「彼女は知りすぎた。桜荘を離れろ」。
*これ、俺が受け取った匿名のメモと同じ筆跡だ*。俺の心臓が、凍りつく。
亮太が別のメモを見つけた。
「悠真さん、これ見て。北村さんの過去だ」
メモには、北村の履歴が走り書きされている。十年前、俺の故郷の近くの町に住んでいた。*葵が死んだ町の近く*。さらに、七年前、桜荘に短期滞在していた記録。*北村…お前、両方の事件に関わってる*。だが、証拠はこれだけじゃ足りねえ。あいつのナイフ、葵を殺した凶器、どこだ?
突然、部屋の奥のクローゼットが、誰も触れてねえのにガタッと揺れた。キィ…と不気味に開く。暗闇の中で、クローゼットの奥に何か光るものが見えた。*ナイフ?* 俺は息を呑み、近づく。だが、それは古い鏡の破片だった。鏡に、ぼんやりとした女の影が映る。長い髪、血に染まった服。*葵…?* いや、違う。七年前の被害者だ。*同じ名前、別の女*。なのに、鏡の影が、俺をじっと見つめる。*葵の声が、ここにいる*。
ダクトから、葵の声が響いた。
「悠真…彼だ…真実を…見なさい…」
まるで、俺の心を直接刺すような声。*北村…お前なのか?* 亮太が囁く。
「悠真さん、北村さん、今、どこにいる? 桜荘にいるよ。俺たち、急がないと」
俺は鏡の影を見つめながら、拳を握りしめた。*北村、俺はお前を逃がさねえ*。
俺と亮太は、次に最上階の事件現場へ向かう。七年前、葵と同じ名前の女が死んだ部屋。ドアの前で、俺は立ち止まる。*ここに、真実がある*。ドアを開けると、埃とカビの匂いが充満し、暗闇が広がる。床には、七年前の血痕が薄っすらと残ってる。亮太が床板を叩く。
「悠真さん、ここ、空洞だ」
俺は床板を剥がす。すると、そこには古い写真と手紙。写真には、若い女が写ってる。*七年前の葵*。手紙には、「桜荘を離れろ。知りすぎた」。*北村、お前が書いたのか?*
突然、背後で足音が響いた。振り返ると、闇の中に人影。*北村だ*。あいつの目が、冷たく光る。
「…何してるんだ、悠真?」
その声は、低く、感情がねえ。*あの夜の声だ*。葵を殺した男の、冷酷な声。俺の心臓が、凍りつく。*お前だ…葵を殺したのは、お前だ*。
桜荘の「訳あり」の真実は、今、鍵を開けられようとしてる。北村の過去が、葵の死と繋がる。だが、証拠はまだ足りねえ。俺と亮太は、真実をつかむために、闇の中で奔走する。だが、その鍵が解き放つのは、復讐の終わりか、それとも俺の心を飲み込むさらなる絶望か――俺には、まだわからねえ。