第11話 闇の鍵穴
心臓が、胸を突き破る勢いで脈打つ。桜荘の居間は、まるで闇そのものが息をしているかのように冷たく、圧迫感に満ちている。電灯は消えたまま、割れた窓から吹き込む夜風が、剥がれたカーテンを幽霊の指のように揺らす。床に散らばったガラス片が、遠くの街灯の光を反射し、まるで無数の目が俺を監視しているかのようにチラチラと光る。古びた木製のテーブルには、高梨のタロットカードが散乱し、「死神」のカードが床に転がったまま、俺の心を嘲笑うようにそこにある。壁のひび割れは、まるでこの建物が生き物の皮膚のように脈動し、広がっていく。剥がれた壁紙が、風もないのにかすかに震え、ダクトから漏れる冷気は、まるで誰かの吐息が俺の首筋を這うようだ。住人たちの荒々しい息遣いが、暗闇の中で交錯する。誰も動けず、誰もが何かを恐れている。俺もだ。
さっきの鏡の破裂音が、まだ耳の奥で響く。古い鏡に映った、ぼんやりとした女の影。長い髪、血に染まった服。あれは…葵だったのか?
(そんなわけねえ)
葵は十年前、雪深い山間の集落で死んだ。あの夜、俺がバイトから帰ると、葵は血に染まって冷たくなっていた。胸に突き刺さったナイフ、犯人の冷酷な目、嘲るような笑い声。あいつの顔を、俺は忘れねえ。復讐のために東京へ来た。匿名のメモ、
「犯人は東京にいる。桜荘を探せ」
その一文が、俺をこの呪われたアパートに導いた。だが、桜荘はただの建物じゃなかった。七年前、俺の部屋の真上で起きた未解決の殺人事件。被害者の名前は、葵。
(俺の葵と同じ)
偶然じゃねえ。俺の妹がこの建物で殺された可能性がある。
(葵を殺した男は、ここにいる)
この建物が、その真実を隠してる。
高梨の声が、闇を切り裂いた。
「悠真、次のカードを引く? それとも…自分で鍵を開ける?」
彼女の目は、暗闇でも異様に鋭く、まるで俺の魂を剥ぎ取るようだ。
(こいつ、どこまで知ってるんだ?)
俺の喉が締め付けられ、声が震える。
「鍵を開ける、だと? いいだろう、高梨。続きを聞かせてくれ。この呪われた場所の真実を…そして、葵を殺した奴を、俺がここで見つける理由を」
その言葉を遮るように、ダクトからあの声が響いた。
「悠真…なぜ…私を…見殺しにした…?」
かすれた、喉を潰されたような声。だが、今度はまるで俺の頭蓋骨の中で直接響くように、鋭く、切なく、俺を責める。
(葵の声だ)
あの夜、葵が最後に呟いた言葉。
「お兄ちゃん…助けて…」
その声が、頭の中で暴れ回る。
(葵、お前なのか?)
背筋が凍りつき、膝がガクガク震える。葵はあの町で死んだ。桜荘で死んだのは別の女のはずだ。なのに、なぜこの声は俺の罪悪感を抉る? なぜ、葵の名前がこの建物と繋がる?
彩花がソファの隅で震えながら叫ぶ。
「やめて…来ないで…あたし、関係ないよ…!」
彼女の声は涙で濡れ、恐怖で震えている。だが、さっき、俺をチラリと見たあの目。
(彩花、お前、何を隠してる?)
彩花は桜荘に来てまだ数ヶ月。夜中に部屋から出て行く姿、血の付いたハンカチ。あいつの言い訳は「生理の血」だったが、俺は信じねえ。七年前の桜荘の事件、被害者も葵って名前だった。彩花が高校生の頃、ここで何かを見たか、関わったか。
(お前が犯人じゃなくても、何か知ってるだろ?)
俺の勘は、彩花を疑えと叫ぶ。だが、どこかで別の声が囁く。(彩花じゃない。もっと深い闇が、この建物に潜んでる)
亮太、高校生の自称探偵が、闇の中で静かに口を開いた。
「悠真さん、彩花さんの部屋から見つけた写真、覚えてる? 七年前の事件の血痕、誰かが拭き取った跡があった。彩花さんの部屋に、その血痕と同じ色の染みが写った写真があったんだ」
(写真?) 俺の視線が彩花に向く。彼女は顔を覆い、震えてる。
「違う…あたしじゃない…!」
だが、その声に力はねえ。亮太の目は、まるで闇を切り裂く刃のようだ。(こいつ、どこまで知ってる?)亮太は桜荘の事件を独自に追ってる。夜な夜な最上階の空き部屋を調べ、資料を集めてるらしい。葵の事件と桜荘の事件を結びつける鍵を、こいつが握ってる可能性がある。だが、亮太の落ち着いた口調が、俺の神経を逆撫でする。
(ガキのくせに、なぜそんな目で俺を見る?)
俺は彩花に一歩近づき、低く囁いた。
「彩花、教えてくれ。葵を殺した奴を知ってるだろ? 七年前、ここで何があった? あのハンカチ、ただの血じゃねえだろ?」
彩花の目が、恐怖で大きく見開かれる。
「ち、違う! あたし、何も…!」
彼女の声は途切れ、言葉にならねえ。
(隠してる)
俺の心臓がさらに速く脈打つ。
(彩花、お前が鍵だろ?)
だが、高梨が静かに割り込んだ。
「悠真、待ちなさい。彩花は鍵じゃない。彼女は…ただの目撃者だ」
(目撃者?)
俺の頭がざわつく。高梨がテーブルに新たなカードを置く。「塔」のカード。崩れ落ちる塔、雷鳴、炎。彼女の声が、闇に響く。
「占いは真実を映す。悠真、君が追う犯人は、ここにいる。だが、彩花じゃない。彼女はあの夜、階段で男を見た。ナイフを持った男を。だが、彼女は怖くて黙っていた。違うか、彩花?」
彩花が顔を上げ、涙で濡れた目で高梨を見る。
「やめて…言わないで…!」
彼女の声は、まるで壊れた人形のようだ。*何を見た?* 俺の胸が締め付けられる。*葵を殺した男を? 桜荘の事件を?* 彩花の震える手が、ソファの端を握りしめる。その指先が、まるで何かから逃れようとするように白くなる。
突然、床下からゴリ…ゴリ…という音が再び響いた。まるで誰かが這いずりながら、俺たちに迫ってくる。住人たちの息遣いが止まる。壮太が叫ぶ。「もうやめろ! この建物、呪われてんだ! 出して! 出してくれ!」だが、ドアは開かねえ。窓から吹き込む風が、まるで氷の刃のように肌を刺す。ダクトから、葵の声が響く。「悠真…真実を…見なさい…」 今度は、まるで俺の心臓を直接握り潰すような、切なさと怒りに満ちた声だ。*葵…お前は何を伝えたい?*
部屋の隅にあった古い鏡の破片が、誰も触れてねえのにカタカタと揺れ始めた。床に散らばったガラス片が、まるで意志を持ったように円を描き、ゆっくりと回転する。闇の中で、鏡の表面に再び影が映る。女の輪郭。長い髪。血に染まった服。だが、今度ははっきり見えた。*葵の顔じゃない*。七年前、桜荘で死んだ葵。*同じ名前、別の女*。なのに、なぜ俺の心は葵だと叫ぶ? *俺の葵が、この建物にいる*。
高梨がカードを手に持ち、静かに言った。「悠真、彩花は犯人じゃない。彼女は七年前、桜荘の事件の夜、階段で男を見た。ナイフを持った男を。だが、彼女は怖くて黙っていた。次のカードは、その男の顔を映すよ」 彼女が新たなカードを引く。「審判」のカード。復活と真実の象徴。彼女の目が、住人たちをゆっくり見回す。そして、壮太に止まった。
*壮太?* 俺の頭が真っ白になる。*まさか…こいつが?* 壮太は顔を歪め、叫ぶ。「何だよ、その目は! 俺じゃねえ! 俺は関係ねえ!」だが、そいつの声は震え、額に汗が滲む。亮太が静かに言う。「壮太さん、七年前、桜荘に住んでたよね。事件の夜、どこにいた? なぜ、警察に何も言わなかった?」
俺の視線が壮太に向く。*こいつ…葵を殺した男?* だが、俺の記憶の中の犯人の目は、もっと冷たく、もっと鋭かった。壮太の目は、ただの臆病者の目だ。*いや、違う。壮太じゃない*。だが、高梨の占いは、壮太に何かを指してる。*目撃者か? それとも…共犯?* 俺の心が、恐怖と憎悪で引き裂かれそうになる。
突然、ダクトの声が再び響いた。「悠真…彼じゃない…真実を…見なさい…」 *葵の声が、俺を導く*。だが、その声は今、別の方向を指してる。*壮太じゃない。彩花でもない*。俺の視線が、住人たちをゆっくり見回す。亮太、高梨、壮太、彩花。そして、部屋の隅に立つ、もう一人の住人。いつも無口で、存在感の薄い男、佐藤。*佐藤…?* 俺の心臓が、凍りつく。佐藤はいつも影に隠れるように立ち、目を合わせない。七年前、桜荘にいたかどうかも不明だ。だが、今、佐藤の目が、闇の中で一瞬、光った。*あの目…どこかで見た*。葵を殺した男の、冷酷な目。
高梨が静かに囁く。「悠真、カードは嘘をつかない。真犯人は、ここにいる。だが、君が疑う者たちではない。もう一度、よく見て。葵の声が、君に真実を教えるよ」 彼女の手が、新たなカードに伸びる。だが、その瞬間、部屋の空気がさらに冷え込んだ。ダクトから吹き込む風が、まるで叫び声のように唸る。床下の音が、突然止まる。静寂が、まるで刃のように俺の心を刺す。
そして、佐藤が動いた。ゆっくり、まるで影が滑るように、ドアの方へ向かう。「…俺、ちょっと空気吸ってくる」その声は低く、感情がない。だが、俺の背筋に電流が走る。*あの声…あの歩き方…* 葵を殺した夜、闇に消えた男の背中が、頭の中で蘇る。*佐藤…お前なのか?*
「待て!」
俺は叫び、佐藤に飛びかかろうとした。だが、その瞬間、ダクトから最後の声が響いた。
「悠真…今だ…真実を…つかめ…」
葵の声が、俺の心を突き動かす。桜荘の「訳あり」の真実は、今、鍵を開けられようとしてる。だが、その鍵が解き放つのは、葵の死の真相か、それとも俺の心を飲み込むさらなる絶望か――俺には、まだわからねえ。