第10話 闇の囁き
俺の心臓が、まるで胸を突き破るかのように脈打つ。桜荘の居間は、凍てつく闇に閉ざされている。電灯は完全に消え、窓の外から差し込む街灯の微かな光だけが、埃っぽい床に薄い影を落とす。古びた木製のテーブルには、高梨のタロットカードが散乱し、「死神」のカードが床に転がったまま、まるで俺を嘲笑うようにそこにある。壁のひび割れは、まるでこの建物が息を吸い込むたびに広がっているかのようだ。剥がれた壁紙が、風もないのにかすかに揺れる。ダクトの隙間から冷気が漏れ、金属が軋む不気味な音が響く。住人たちの荒々しい息遣いが、暗闇の中で交錯する。誰もが動けず、誰もが何かを見ずにはいられない。俺もだ。
高梨の声が、闇を切り裂いた。
「悠真、次のカードを引く? それとも…自分で鍵を開ける?」
彼女の目は、暗闇でも異様に鋭く、俺の魂の奥底を抉るようだ。
(どうして…どうしてこいつは俺の過去を知ってる?)
頭の中で、妹の葵の笑顔がフラッシュバックする。十年前、雪深い山間の集落。あの夜、俺がバイトから帰ると、葵は血に染まって冷たくなっていた。胸に突き刺さったナイフ、犯人の冷酷な目、嘲るような笑い声。あいつの顔を、俺は忘れねえ。復讐のために東京へ来た。そして、匿名のメモ。
「犯人は東京にいる。桜荘を探せ」
その一文が、俺をこの呪われたアパートに導いた。だが、桜荘はただの建物じゃなかった。七年前、俺の部屋の真上で起きた未解決の殺人事件。被害者の名前は、葵。*俺の葵と同じ*。偶然じゃねえ。俺の妹がこの建物で殺された可能性がある。犯人はここにいる。もしくは、この建物が何か知ってる。
「鍵を開ける、だと?」
俺は唇を噛み、闇の中で囁いた。
「いいだろう、高梨。続きを聞かせてくれ。この呪われた場所の真実を…そして、葵を殺した奴を、俺がここで見つける理由を」
高梨が口を開こうとした瞬間、床下から再びドンッという鈍い音が響いた。ゴリ…ゴリ…まるで爪で木を引っかくような音が続く。住人たちは凍りつき、誰も動けねえ。音は俺の部屋の真上――七年前の事件が起きた部屋から聞こえてくる。ダクトの奥から、あの声が再び響いた。
「悠真…なぜ…私を…見殺しにした…?」
かすれた、喉を潰されたような声。だが、今度はまるで俺の耳元で囁くように、はっきりと響く。
(葵の声だ)
あの夜、葵が最後に呟いた言葉。「お兄ちゃん…助けて…」その声が、頭の中でこだまする。
(まさか…葵がここに?)
いや、そんなわけねえ。葵はあの町で死んだ。桜荘で死んだのは別の女のはずだ。なのに、なぜこの声は俺を責める? なぜ、葵の名前がこの建物と繋がる?
俺の背筋が凍りつく。暗闇の中で、彩花のすすり泣きが響く。
「やだ…来ないで…あたし、関係ないよ…!」
彼女の声は震え、涙で濡れている。だが、その目に一瞬、俺をチラリと見た気がした。
(彩花、お前、何を隠してる?)
彩花は桜荘に来てまだ数ヶ月。妙に落ち着きがなく、夜中に部屋から出て行く姿を何度か見た。七年前の事件当時、彩花は高校生だったはずだ。だが、俺の部屋のゴミ箱で見た、血の付いたハンカチ。あいつの言い訳は「生理の血」だったが、俺は信じちゃいねえ。葵を殺した男と桜荘の事件が繋がってるなら、彩花が何か知ってる可能性は捨てきれねえ。
壮太が叫ぶ。
「くそっ、何だこの音!? ただの風だろ!?」
だが、そいつの声も震えてやがる。さっき、トイレから逆流してきた真っ赤な液体。錆びた水道水かもしれないが、俺の鼻には、葵の血の匂いと同じ鉄臭さが突き刺さる。*あの夜の匂いだ*。頭がクラクラする。壮太はドアに駆け寄るが、鍵が開かねえ。
「閉じ込められた! ふざけんな!」
住人たちのパニックが部屋を満たす。
亮太、いつも静かな高校生の少年が、暗闇の中で口を開いた。
「悠真さん、この建物、君の過去を知ってるよ。桜荘の事件の被害者、葵って名前だった。君の妹と同じ。偶然だと思う?」
亮太の目は、まるで全てを見透かすようだ。*こいつ…どこまで知ってる?* 亮太は自称「探偵」。桜荘の事件を追ってるらしい。夜な夜な最上階の空き部屋を調べ回り、事件の資料を集めてる。葵の事件と桜荘の事件を結びつける鍵を、こいつが握ってる可能性がある。だが、亮太の落ち着いた口調が、逆に俺の神経を逆撫でする。*ガキのくせに、なんでそんな目で俺を見る?*
高梨がタロットカードを手に取り、ゆっくりと言った。
「悠真、君の鍵は、葵の死と桜荘の事件を繋ぐ。匿名のメモ…誰が送ったと思う? 次のカードは、それを教えてくれるよ」
彼女の手は、微かに震えてる。だが、その声には確信がある。*高梨、お前も何か隠してるな*。占いなんて、ただのトリックだろ? なのに、なぜ俺の心は揺れる? 葵の声、桜荘の呪い、彩花の秘密、亮太の探偵ごっこ。全てが繋がり始めてる。
突然、部屋の温度がさらに下がった。息が白く見えるほどだ。ダクトから冷たい風が吹き込み、カーテンが不自然に揺れる。窓はさっき割れたまま、ガラス片が床に散らばってる。だが、今、まるで誰かがそのガラス片を踏むような、キリ…キリ…という音が響く。誰も動いてねえ。なのに、音は近づいてくる。
(何だ…何がいる?)
俺の背後で、彩花が小さな悲鳴を上げる。
「やめて…来ないで…!」
彼女の声が、まるで何かに怯えるように震える。(彩花、お前、知ってるだろ? 葵の死を。桜荘の事件を)。
俺は振り返り、彩花を睨んだ。
「彩花、お前、何か隠してるな? あのハンカチ、ただの血じゃねえだろ?」
俺の声は低く、怒りが滲む。彩花の目が大きく見開かれ、顔が青ざめる。
「ち、違う! あたし、何も…!」
だが、彼女の声は途切れ、言葉にならねえ。亮太が静かに言う。
「悠真さん、彩花さん、確かに怪しい。でも、証拠がない。桜荘の事件の資料、見たんだ。七年前、被害者の葵さんが死んだ部屋、血痕が不自然に消えてた。誰かが隠蔽した可能性がある」
(隠蔽?)
その言葉に、俺の頭がざわつく。(葵を殺した男が、ここで別の葵を殺した。そして、彩花が…?)
床下の音がさらに大きくなった。ゴリ…ゴリ…まるで誰かが這いずりながら、俺たちに近づいてくる。ダクトの声が、再び響く。
「悠真…なぜ…私を…見殺しにした…?」
今度は、まるで俺の心臓を直接握り潰すような、葵の声そのものだ。
(葵…お前なのか?)
俺の目が熱くなる。あの夜、俺は家に早く帰れなかった。バイトをサボって、葵と一緒にいれば…あいつは死ななかったかもしれない。
(俺が見殺しにした?)
そんなわけねえ! だが、罪悪感が俺の心を締め付ける。あの夜、葵が最後に見たのは、俺じゃなかった。犯人の冷たい目だった。
突然、部屋の隅にあった古い鏡が、誰も触れてねえのにガタガタと揺れ始めた。鏡の表面に、ぼんやりとした影が映る。女の輪郭。長い髪。血に染まった服。*葵…?* 俺の喉が締め付けられ、声が出ねえ。彩花が叫ぶ。
「見ないで! 見ないでよ!」
彼女は顔を覆い、ソファに縮こまる。壮太が呟く。
「くそ…何だこれ…幽霊なんかいねえはずだろ…!」
だが、そいつの手も震えてやがる。
高梨が立ち上がり、静かに言った。
「悠真、カードを引く時だ。葵の声が君を呼んでる。この建物が、君の過去を暴こうとしてる。次のカードは、犯人の顔を映すよ」
彼女がテーブルにカードを置く。だが、その瞬間、鏡がバリンと割れ、破片が床に飛び散る。住人たちの悲鳴が響き、俺の心臓が止まりそうになる。*何だ…何が起こってる?*
闇の中で、亮太が一歩前に出た。
「悠真さん、桜荘の事件、葵さんの死、君の妹…全部繋がってる。俺、調べたんだ。最上階の部屋、七年前の血痕、誰かが拭き取った跡があった。そして、彩花さんの部屋から、似たような血痕の写真が出てきた」
*写真?* 俺の視線が彩花に向く。彼女は顔を覆ったまま、震えてる。
「違う…あたしじゃない…!」
だが、その声に力はねえ。
俺は彩花に近づき、低く囁いた。
「彩花、教えてくれ。葵を殺した奴を知ってるだろ? 七年前、ここで何があった? お前、なぜあのハンカチを持ってた?」
彩花の目が、恐怖で揺れる。だが、彼女は口を閉ざしたまま、ただ震えるだけだ。
床下の音が、突然止まった。静寂が部屋を支配する。だが、その静寂は、まるで嵐の前の静けさだ。ダクトから、冷たい風が吹き込む。そして、ゆっくり、はっきりと、葵の声が響いた。
「悠真…真実を…見なさい…」
俺の心が、恐怖と憎悪で引き裂かれそうになる。*葵、お前は何を伝えたい? 犯人はここにいるのか?* 桜荘の「訳あり」の真実は、今夜、鍵を開けられようとしてる。彩花の秘密、亮太の調査、高梨の占い。そして、俺の復讐。全てが、闇の中で交錯する。だが、その鍵が解き放つのは、葵の死の真相か、それとも俺の心を飲み込むさらなる絶望か――俺には、わからねえ。