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異世界恋愛短編集

似てるだけで婚約話が殺到しましたが、私はただの図書館司書です!

作者: 百鬼清風

 王国立図書館の一番奥、誰も寄りつかない禁書区の扉を閉めたとき、私は確信した。今日は何事もなく平穏に終わる、と。

 それは、幻想に過ぎなかった。


「君、名前を教えてくれないか」


 静寂を破って現れたのは、王子だった。いや、正確には「王子のふりをしている誰か」だろう。こんな図書館の奥まで、わざわざ煌びやかな軍服で現れる王族など、いるはずがない。


「図書館の利用者名簿に記載されていない方にはお答えできません」


 私は淡々と答える。彼が誰であれ、ここでは私が司書だ。規則は絶対である。


「冷たいな。まるで……僕の婚約者みたいだ」


 は?

 なにその例え。意味がわからない。


「すまない。驚かせたね。でも本当に、驚いたよ。まさか、こんなところで君と再会するなんて」


「……人違いです」


 この会話、前にもあった気がする。いや、気のせいだ。私は人違いに巻き込まれたことなど一度も――


「僕の初恋の人に、君はよく似ているんだ」


 ああ、またか。


 実はここ最近、よく似た顔だと勘違いされることが多かった。しかも決まって、王都の高位貴族の若様方に。最初は奇妙な偶然かと思ったが、何度も続くと、もはや日常の一部になる。


 おかげで私は「王子に瓜二つの婚約者」とやらと間違えられ続け、図書館という聖域でさえ安寧を保てなくなってきた。


「君の名前は……カティアじゃないのか?」


「違います」


 カティアというのが、私にそっくりな王子の婚約者らしい。実在するのかどうかも怪しいが、少なくとも、私はそのカティアではない。


 私はエルナ。王国立図書館で働く、ただの平民出身の司書だ。


「そもそも、どうしてあなたがここに?関係者以外立入禁止区域ですよ」


「僕の特権で、ちょっとね」


 ほらやっぱり王子じゃん。


 そう思ったけれど、口に出すのはやめておいた。王族に似た人間が他にもいるのかもしれないし、何より本物だった場合、厄介ごとに発展する。


「本当に……君はよく似ている。髪の色、瞳の光、話し方、仕草まで」


「だから、それがそっくりなだけの他人なんです」


 これで何度目だろう。このセリフを口にするのは。


 彼はしばらく私を見つめたあと、小さく息をついた。


「……そうか。でも、もし違っていたとしても、僕はもう一度、君に惹かれそうで怖い」


 それは惚気なのか、忠告なのか。私には判断がつかなかった。


「本を探しに来たのなら、手伝いますよ」


 それが私にできる、唯一の応対だ。


「ありがとう、エルナ」


 なぜ名前を知っているのか、と問いかけようとしてやめた。名札を見ただけかもしれない。妙な詮索はやめておこう。


 それにしても――これで、三人目だった。


 私を王子の婚約者だと勘違いし、結婚を仄めかしてきた相手が。


 それぞれ、彼らは違う顔をしていた。けれど、言うことは同じだった。昔の初恋の面影がある。運命を感じた。婚約者の生き別れだと確信した。……そんな都合のいい話があるものか。


 私がその誰でもないことを証明するたび、彼らは必ず落胆して帰っていった。だが、まれに執着を残していく者もいる。しつこく手紙を送りつけてきたり、勤務時間を見計らって押しかけてきたり。司書である私の業務にまで支障が出る始末だった。


「また、変な話に巻き込まれてないでしょうね?」


 背後からの声に振り向けば、いつもの彼――同僚のミロスが立っていた。黒髪の無表情男。図書館の記録管理を担当している真面目な青年で、数少ない私の味方だ。


「一応、王子様だったらしい」


「またか」


 ミロスはため息ひとつ。もう慣れたものである。


「今回はちょっとヤバそう。明らかに本物の匂いがした」


「本物?」


「王族」


「……異動願い、出すか?」


「マジで悩む」


 苦笑交じりにそう言いながら、私は書棚に戻ると、返却本の整理を再開した。王族に似ているだけで婚約話が降ってくるなんて、理不尽にもほどがある。私は図書館で本に囲まれて、静かに暮らしたいだけなのに。


 けれどその願いは、どうやら今日も叶わないようだった。


「おい、そこの女!」


 雷のような声が響いたかと思えば、今度は鎧の音を立てて騎士が三人も入ってきた。館内での大声は禁止だし、武器も持ち込み禁止のはずなんだけど。


「エルナ・ハーヴィルド。貴女を国王陛下が王宮へ招待されたいと仰せだ」


「は?」


 思わず声が出た。なんの冗談? どういう間違い? ていうか、なぜ私の名前を。


「招待って……どうして私が?」


「第一王子殿下が、是非にと希望されまして」


「誰、それ?」


 記憶を辿る。けれど、今日来たのは第二王子だって言ってたはず。第一って誰よ。会ってすらいないんですけど。


「早急に支度を。護衛が外に馬車を用意しております」


「無理です!今日まだ閉架資料の整理が終わってなくて!」


「では、代わりに殿下のもとへ伺い、拒否の旨を伝えても?」


 うわ、脅しの笑顔だ。これは絶対、無理矢理連れていく気だ。


「……分かりました。行けばいいんでしょう、行けば」


 観念して頷くと、ミロスが一歩前に出てきた。


「エルナが無事に帰ってこられる保証は?」


「おや、護衛殿。我々が何かすると思っているのか?」


「貴族の理不尽は、今に始まったことじゃない」


 無表情で言い切るミロスの顔に、私は少し安心する。普段無愛想だけど、こういうとき一番頼れる。


「大丈夫。逃げ道は覚えてるし、城の構造も資料で読んだ。どうにかなるよ」


「……気をつけろ」


 短い言葉に、彼なりの心配が詰まっていた。


 そして私は、騎士たちに挟まれながら、しぶしぶ図書館を出た。陽の光がまぶしい。ああ、もう。これでまた今日の読書予定が台無しだ。


 馬車に乗り込んで、窓の外を見ながら私は心の中でつぶやいた。


「本当に、ただの赤の他人なんですけど……」


 それでも、どうやらこの騒ぎは、まだ序章に過ぎないらしい。




 王宮の正門をくぐるとき、私は人生で初めて「一度でいいから門の外で全力ダッシュして逃げたい」と思った。もちろん、できなかったけれど。


 そして、やっぱりというかなんというか、通されたのは第一王子殿下の私室だった。


「これはこれは、ご足労いただいて感謝するよ。お会いできて光栄です、エルナ嬢」


 そこにいたのは、凛とした物腰に銀の髪。王家特有の色素の薄い双眸。第一王子殿下アレクシス・フォン・ライエンハルト、その人だった。


 話には聞いていたが、威圧感が尋常ではない。加えて部屋の空気がやたらと重い。執務机には書類が山積みになっており、その合間に置かれた紅茶のカップだけが妙に浮いて見えた。


「……あの、私、なにか不敬を?」


「いや、気にしなくていい。君が悪いわけじゃない」


 その言葉に少しだけ安堵した……のも束の間だった。


「ただ、どうして君がこの国にいるのか、私には理解できない。それだけだ」


「……?」


 その口ぶり、まるで私がいてはいけない存在かのようだ。


「君が、カティアではないというのは理解している。ただし、王宮内ではそれがどう受け取られるか、また別の話でね」


 ああ、なるほど。結局そこに戻るのか。


「陛下は君を正式に保護対象にするつもりらしい」


「は?」


「“王子の婚約者と酷似した存在”が、次々と社交界で波紋を広げている。だから王家として立場を明確にする必要がある。……とでも言えば理解してもらえるだろうか」


 つまり、それは。


「仮の婚約者扱い、ってことですか?」


「まあ、そうなる」


 無茶苦茶だ。まさか自分が、本人でもないのに王族の“婚約者”として祭り上げられるなど、想像すらしなかった。


「……帰ってもいいですか」


「ダメだ」


 即答だった。しかも、顔色一つ変えずに。


 これ、マジで監禁される流れじゃない?そんな乙女ゲームのバッドエンドみたいな――


「少なくとも今日一日は、王宮に滞在してもらう。護衛も付ける。無用な騒動を避けるためだ」


 とにかく落ち着けと言わんばかりにお茶を出されるが、のどを通る気がしない。


 そんな私の様子を見て、アレクシス殿下は深く息をつくと、苦笑した。


「すまないね。できれば、私としてもこんな強引なことはしたくなかったんだが……どうにも、王宮の外が騒がしくてね」


「……というと?」


「既に三人、“君を自分のものにしたい”と申し出てきた男たちがいる」


「…………はぁ」


 知ってる。全部、図書館で遭遇した人たち。


「君は本当に、何者なんだい?」


「本当にただの図書館司書です!」


 声を張り上げたその瞬間、ドアの外からバタバタと足音が響いた。ノックの後に顔を覗かせたのは、あまりにも見慣れた顔だった。


「やっぱりエルナだった!無事でよかった!」


 ミロス。


 王宮警備をすり抜けてここまで来たというの?それとも、これは新手の騒動の始まり……?


 いや、この男はいつも想定外だ。


「どうやって入ったの!?」


「記録係として、王室文書館への出入り許可があるんだ。そのルートを使って来た」


「よく捕まらなかったわね……」


「警備兵の一人が、僕の知り合いだった。それに、君がここにいるって聞いたから心配で」


「誰に聞いたのよ」


「……第二王子殿下」


 ヘンリーか。


 やっぱりアイツか!!


「今、殿下は?」


「一緒に来るはずだったんだけど、途中で別行動すると言っていなくなった。多分また、余計なことを考えてる」


 ろくなことを思いつかないに違いない。何しろあの第二王子は、自分と似た顔の私を面白がっている節がある。


「エルナ嬢。ミロス殿には、私から説明しておこう」


「助かります……」


 ミロスには悪いけど、私は今この瞬間にも荷物をまとめて図書館へ逃げ帰りたい。


「それより、ミロス。あんた仕事は?今日は記録の整理じゃなかった?」


「代わりを頼んできた。君を放っておくと、また変な人に攫われそうだからな」


「それは否定できないけど……」


 その瞬間、廊下からまた別の足音が響いた。


「おーい、エルナちゃん!元気ー?」


 今度は本当に見覚えのある銀髪が現れた。言動の軽さで即バレする。そう、ヘンリーだ。


「また来たんですか、殿下」


「またとはひどいな。今日は君に正式な任務を頼みに来たのだよ!」


「……任務?」


「そう、それは!“仮初めの王子妃として、王宮生活に慣れていただくこと”!」


「勝手に決めるなあああああ!」


 まさかの公式化。これはもう完全に逃げられない気がする。


 私は心の底から思った。


 ほんっっっとうに、赤の他人なんですってば……!


「それで?王子妃としてって、具体的に何をするつもりなんですか?」


「ふふん、それはもちろん、ダンスの練習に、礼儀作法のおさらい、王族との顔合わせに、あとは夜会デビューの準備だね!」


「いやいやいや!ぜんぶ断固拒否ですから!」


「じゃあジェームズに頼もうかな。最近ちょっと機嫌悪そうだったし、君の世話役に任命しよう」


「勝手に人の人生を組み立てないで!」


「王族の特権だよ?」


「それを言えば何でも通ると思うなぁ!」


 ふざけているようで、たぶん本気なのがヘンリー殿下の一番怖いところだ。話しているだけで、こっちの寿命が削られる気がする。


「……わかった。一週間だけ。様子を見て、無理だと判断したら帰りますからね」


「やった!」


「軽っ!」


 こうして、私はとうとう王宮での仮住まいを余儀なくされたのだった。




 王宮生活、一日目。


 まず通された部屋に驚いた。天蓋付きのベッドにシャンデリア、豪華なカーテンに絨毯まである。客人扱いだとは聞いていたが、これはもう完全に貴族令嬢の寝室だ。


「うわ、ベッドがふわふわ……って、はしゃいでる場合じゃない」


 呟きながら荷ほどきをしていると、部屋の扉がノックされた。


「エルナ様、失礼いたします。身の回りのお世話を担当いたします、リリエと申します」


 現れたのは金髪碧眼の可愛らしい少女。年の頃は私よりやや下だろうか。立ち居振る舞いは完璧で、いかにも王宮仕込みの侍女という感じだ。


「今日から、どうぞよろしくお願いいたします」


「あ、うん。こちらこそ、よろしくね」


「では、すぐにお着替えを。夕食は殿下方との同席となります」


「えっ、もう!?」


 さっき到着したばかりなんですけど!


 慌ただしく用意されたドレスに袖を通され、ヘアセットまでされて、私は鏡の中の自分を見て目を見張った。


 ……すごく“それっぽい”。


 正体不明の貴族令嬢になりきれてしまう自分が、逆に怖い。


 リリエに案内されて通されたのは、晩餐用の小広間だった。既に着席していたのは、第一王子アレクシス殿下、第二王子ヘンリー殿下、そして――


「……ジェームズ様?」


「こんばんは。無事に到着されたようで何よりです」


 側近という立場なのだろう、ジェームズ様はアレクシス殿下の隣に控えていた。


 けれどその瞳は、はっきりと私を捉えていた。


 その視線の強さに、思わず背筋が伸びる。


「それでは始めようか。歓迎の晩餐を」


 アレクシス殿下の一言で、夕食が始まった。


 料理はどれも繊細で美味しく、普段パンとスープばかりの私にとっては夢のようなご馳走だった……が、正直それどころではない。


 隣の席に座ったヘンリー殿下が、やたらと話しかけてくるのだ。


「今日はちゃんと寝られた?部屋の香りは合ってた?」


「ええ、まあ……」


「ジェームズは昨夜からずっと心配しててね。“王宮に向かったはずなのに、連絡がない”ってソワソワしてたんだよ」


「殿下、それは……」


 ジェームズ様が少し咳払いをしたが、ヘンリー殿下は気にせず笑う。


「こう見えて、意外と心配性だからさ」


「……ありがとうございます」


 照れくさくて、でも少し嬉しくて。私はそっとジェームズ様に頭を下げた。


「エルナ嬢」


「はい?」


「王宮生活に不安はありませんか?」


 問いかけてきたのはアレクシス殿下だった。真摯な視線に、私は一瞬たじろぐ。


「……正直、不安だらけです。でも、逃げずに一度向き合ってみようとは思っています」


「それは、立派な心構えだ」


 殿下は静かに頷いた。その横で、ヘンリー殿下がやけに満足そうにしていた。


 食後、少し遅れてミロスも顔を出した。王宮に滞在する許可が正式に下りたのだという。どうやら、殿下たちの鶴の一声らしい。


「お前がいないと、資料の整理が進まないからな」


 と、ぶつぶつ言いながらも、彼は私の様子をそれとなく気遣ってくれている。


 こうして、奇妙な王宮での生活が始まった。


 たった一晩で「似ているだけの他人」が、こうも大仰な扱いを受けるなんて、夢にも思っていなかった。


 その翌日から、私の生活は目まぐるしく変わった。


 まず朝食前に、リリエが起こしに来る。寝起きの私に微笑みながら、容赦なくカーテンを開けて光を浴びせてくるのだ。彼女曰く「王宮の朝は早い」らしい。


 続いて、着替えとヘアセット。これだけでも既に疲れる。


 それが終われば礼儀作法の特訓。背筋を伸ばして、お辞儀の角度を覚えて、立ち方歩き方座り方――もう全部!


「本当に、なんでこんなことになってるの……」


 休憩時間にぼやいても、誰も答えてくれない。


 いや、正確には一人だけ返事をくれる人がいた。


「エルナ嬢には、王宮にふさわしい振る舞いが求められます。万が一にも、“ただ似ているだけ”とは思えぬように」


「それって、私がカティアってことにしようとしてるんじゃ……」


「違います。あくまで“王宮に滞在する女性”としての基本です」


 そう淡々と答えたのは、ジェームズ様だった。


 彼は私の教育係も兼ねるらしい。おかげで一緒にいる時間が増えたのだけれど、それが嬉しいかというと……うん、まあ、うん。複雑である。


「表情が曇ってますね。無理をしていませんか?」


「……ちょっとしてます」


「素直で結構です」


 思わず笑ってしまった。真面目すぎる人の、時々ずれた返しは、なんだか癒やされる。


 その日の午後、ヘンリー殿下がまた突然現れた。


「エルナちゃん、夜会デビューの衣装合わせ、今から行こう!」


「えっ、今!?」


「当たり前だよ?第一印象って、すっごく大事なんだよ!」


「今週末って聞いてたけど!」


「準備は早い方がいいに決まってるじゃないか!」


 それは正論だけど、突然すぎる。私はもう、彼に振り回されることにも慣れ始めていた。


 衣装室に案内され、そこで待っていたのは――


「……嘘でしょ」


 鏡に映った自分の姿は、レースと刺繍で飾られた桃色のドレスをまとっていた。どう見ても、おとぎ話の姫。


「さあさあ、試着して!動いて!回って!」


「殿下、まるで仕立屋の主人ですね……」


「それ、誉め言葉に聞こえる!」


 はあ。まだまだ、王宮生活は波乱万丈になりそうだ。




 王宮での生活にも、少しずつ慣れてきた……気がする。


 毎朝の礼儀作法講座、ジェームズ様による王族史の講義、そして夕方にはミロスとのお茶会(という名の愚痴大会)。怒涛の毎日だったが、少なくとも退屈はしていなかった。


 そして、とうとうやってきてしまった。夜会デビューの日が。


 リリエが早朝から気合を入れてくれていた。メイクもヘアも完璧に仕上げられ、着せられたドレスは前回の桃色ではなく、深い青を基調とした落ち着いたデザインだった。


「本当に、これで大丈夫かな……」


「はい、どこに出しても恥ずかしくない、立派な“妃候補”でございます」


「ちがっ……!」


 否定しようとして飲み込んだ。だって、今さら“ただの司書です”と言い張っても、誰も信じてくれないだろう。


 案の定、夜会の会場は私を見る視線でいっぱいだった。噂は既に広まっているらしい。そっくりな婚約者候補が王宮に滞在している、と。


 王族に縁のない平民の娘が、煌びやかな会場の中央に立たされる。これは羞恥プレイではないかと本気で思った。


「緊張しているか?」


 隣に現れたのはジェームズ様だった。今日は正装で、普段よりいっそう凛々しい。


「そりゃ、しますよ。全部見られてる気がして……」


「事実、全員が君を見ている」


「はっきり言わないでください!」


「だが、君は誰よりも美しい」


「えっ」


 唐突に、何を。


「……それ、殿下に似てるからとかじゃなくて、ですよね?」


「当然だ。私は君のことを見ている」


 視線をそらさず、まっすぐに言われると、変な意味で心臓に悪い。


 そのとき、ヘンリー殿下がやってきた。相変わらず笑顔全開である。


「おー、さすがエルナちゃん!目立ってるね!一人で放っておくのも心配だから、ちょっとお付き合いしようか?」


「付き添いはジェームズ様が……」


「いやいや、せっかくだからね!あ、兄上もそろそろ登場する頃だし!」


 まさか、第一王子殿下まで出てくるの?


 その数分後、本当に登場された。第一王子アレクシス殿下が会場中央に姿を現すと、空気が一気に引き締まった。さすが王太子予定者、風格が違う。


「皆、ようこそ。この場は、次代を担う貴族たちの交流の場である。どうか、思う存分に語らい、舞い、明日を築いてくれたまえ」


 短いが堂々とした挨拶。その姿を見て、場にいた誰もが一斉に拍手した。


「さあ、開宴だ!」


 音楽が流れ、貴族たちは次々とダンスを始めていく。


「一曲、お相手しても?」


 ジェームズ様が手を差し出してきた。はい、と手を伸ばそうとしたとき――


「その前に、私から」


 割って入ってきたのは、まさかのアレクシス殿下だった。


「婚約者“候補”として、最初の一曲は私に相応しいだろう?」


 これには、さすがのジェームズ様も一歩下がった。


「光栄です……殿下」


 私は半ば引きつった笑顔で手を取った。


 これは、始まりにすぎない。そう、後から思い知ることになるとは、このとき知る由もなかった。


 殿下のリードは流石の一言だった。踊り慣れているのだろう、私が多少足をもたつかせても、その動きを自然に導いてくれる。


「……緊張していますね」


「殿下と踊ってるんですから、当然です!」


「ふふ、ではこうしてはどうかな」


 そう言って、殿下は一瞬だけ私の腰に手を添えたままぐいっと近付いた。


 わ、近っ!


「こうすれば、緊張するより恥ずかしさが勝るだろう?」


「ひ、人の気持ちを玩具にしないでください!」


 私は顔を赤らめながらそっぽを向いたが、周囲の視線がさらに熱を帯びているのを感じてしまう。ああもう、なぜこんなに注目される羽目に。


 曲が終わると、殿下は丁寧に礼をして私の手を離した。


「美しい時間をありがとう。エルナ嬢」


「……こちらこそ、ありがとうございました」


 その場から一刻も早く離れたかった私は、そそくさと隅の席に戻ろうとした。だが、次なる刺客が待ち構えていた。


「やあ、レディ・エルナ。今宵もまた、お美しい」


 あの声。絶対に忘れない。


 公爵家の嫡男であり、例の“化粧すればなんとか”発言の主――ディルク様が、なぜか満面の笑みで立っていた。


「失礼ながら、以前のお見合いでは大変無礼な振る舞いをしてしまいました。お詫びに、一曲お願いできませんか?」


「……その節はどうも」


 まさか、また来るとは。いや、むしろ当然か。彼もまた、“殿下の面影”に酔いしれた一人なのだから。


「今回は、エルナ様ご自身に惹かれております。ですから……どうか今一度、私に機会を」


 どこか真剣なまなざしを向けられ、私は返答に詰まった。


 ――そのとき、割って入る声があった。


「彼女は、私のエスコート中です」


 視線を移すと、そこにはジェームズ様が立っていた。表情は穏やかだが、瞳だけが静かに怒っている。


「たとえ一時的な立場でも、仮妃である以上、周囲の振る舞いには慎重さが求められます。……そう思いませんか?」


「……なるほど。確かに。今回は引き下がりましょう」


 ディルク様はにこやかに言い残し、踵を返した。


「ジェームズ様……」


「申し訳ありません。貴女を一人にすべきではなかった」


「そんなこと……でも、助かりました」


 緊張が緩み、私は初めて胸の奥から出てきた素直な感情を言葉に乗せた。


「……ありがとう」


 ジェームズ様がわずかに微笑んだように見えた。


 ほんの少しだけ、この夜会が悪くないものに思えてきた――その直後、予想を裏切らずヘンリー殿下が叫んだ。


「さあ!次は私の番だ!」


 やっぱり、平穏には終わらないのだった。




 夜会が終わった翌日、私は筋肉痛と羞恥の二重苦でベッドから動けなかった。


 朝の礼儀作法講座は免除され、代わりに医務室から湿布をもらってきたリリエに肩を揉まれる始末。原因は明らかに、慣れないドレスと慣れないヒールで何時間も立ちっぱなし、踊りっぱなしだったからだ。


「エルナ様、無理なさらずとも……」


「今さら遅い……昨日の私はすでに死んだ……」


「昨日の夜会、非常に評判が良うございましたよ。特に第一王子殿下とのダンスが!」


「記憶から消したい……」


 頭から布団を被って呻いていたそのとき、再び扉がノックされた。


「エルナ、起きてるか?」


 ミロスの声だった。彼はドア越しに気遣うような声で言った。


「昨日のこと、ちょっと話がある。大丈夫なら少しだけ……」


「どうぞ……」


 私は布団から顔を出して答える。するとリリエが起き上がり、静かに退出してくれた。彼女の気遣いには本当に頭が上がらない。


 部屋に入ってきたミロスは、手に何かの封筒を持っていた。


「それ、なに?」


「依頼書」


「依頼?また何か変な役職でも任されたの?」


「いや。君宛てに来た依頼だ」


「……は?」


 封筒を受け取って開いてみると、見覚えのない紋章が押された羊皮紙が入っていた。差出人は“王立魔術研究所”。そこにはこう書かれていた。


『第一王子妃候補として、貴女の血統及び魔力傾向について正式に調査したく、来所いただきたく思います』


「…………調査?」


 目を疑った。いや、二度見した。三度見した。


「なにこれ、血統って……私、平民なんだけど!?」


「本当に、そうなのか?」


「は?」


 ミロスの目が真剣だった。その瞳を前に、私は言葉を失う。


「調べたんだ。君の出自について」


「ちょ、ちょっと待って、なに勝手に――」


「ごめん。でも、君の出生記録に奇妙な点があって……本当に君は、今の両親の実子なのか、確認できなかった」


 その言葉に、頭が真っ白になった。


 私の両親は、ごく普通の温厚な人たちで、物心ついた頃から何不自由なく育ててくれた。確かに血縁があるかなんて深く考えたこともなかったけど……


「つまり、私がどこかの貴族の落とし子とか……そういう可能性?」


「魔術研究所が関心を持つ時点で、君がただの平民じゃない可能性は高い」


「そんな……!」


 思わず立ち上がろうとして、全身に走る痛みに顔をしかめた。


「無理するな。今日はこのまま休め。研究所には俺から断っておく」


「いや、行く」


 はっきりと言い切った。自分でも驚くくらい、迷いはなかった。


「行かなきゃ、私、自分のこと信じられなくなる」


「……わかった。なら俺も同行する」


 ミロスは静かに頷いた。私たちはまた、とんでもない騒動の入り口に立たされようとしていた。


 その日の午後、リリエとミロスに付き添われ、私は王立魔術研究所を訪れた。


 白い石造りの巨大な建物は、図書館とはまったく異なる空気を漂わせていた。規則正しく並ぶ窓、無駄のない装飾、研ぎ澄まされた魔力の気配。近付くだけで肌がピリピリする。


「初めてか?」


「見ての通り、田舎の司書ですから」


 自嘲気味に言うと、ミロスは肩をすくめた。


 案内された部屋には、年配の魔術師たちが何人も待っていた。その中の一人が、眼鏡をかけた厳しそうな女性だった。名をイゼルナ博士というらしい。


「ようこそ、エルナ・ハーヴィルド嬢。あなたの魔力測定と血統検査を担当する者です」


「……よろしくお願いします」


 少し緊張しながら椅子に座ると、手首に水晶を取り付けられ、目の前に魔力検知器が置かれた。ごく普通の儀式のはず。だけど、なぜだろう、背中に冷たい汗が流れる。


「それでは、軽く手を開いてください。力まなくて結構です」


「は、はい」


 促されるまま、私は手をかざした。


 直後、部屋中に眩い青白い光が広がった。


「っ……!」


「数値、確認!魔力出力、計測不能!?臨界値を超えています!」


「解析魔法、すぐに!」


 突然慌ただしくなる周囲に、私はただ茫然とするしかなかった。椅子の下で手が震えていた。


「これは……伝説級魔法構造の一種です。血統識別結果も……一致する。間違いありません」


 イゼルナ博士が顔色を変えた。


「貴女は、百年前に失われた“聖癒の一族”の末裔だと考えられます」


「聖癒……?」


 どこかで聞いたことがある。回復魔法の極致、戦場で一度は死んだ兵士さえ蘇らせると言われた、あの――


「でも、その一族は……」


「断絶したとされていました。ですが、魔力構造と一致する記録が残っているのです。これは明らかな血統の証左です」


 私の中に、信じられないような違和感と、それ以上に、得体の知れない不安が渦巻いていた。


「私は……ただの、司書なのに……」


「違います。貴女は、王家に匹敵する魔力を持つ、失われた血統の後継者です」


 言葉が、現実味を伴って迫ってくる。


 私が“似ている”だけで騒がれていた理由。王子たちが一様に惹かれてきた奇妙な現象。そのすべてに、根拠が与えられた瞬間だった。


「エルナ、今すぐに戻ろう。ここの情報が王宮に渡る前に」


 ミロスの声が鋭くなる。


「なぜ?」


「君が何者か、まだわからない。けれど、王宮が“聖癒の力”に何を期待するか……想像したくもない」


 私は小さく頷いた。もう遅いかもしれない。けれど、何も知らぬままに流されるのは、もっと怖かった。


 そうして私たちは、揺らぐ真実を抱えたまま、王宮へと戻る道を選んだ。




 王立魔術研究所から戻った日の夜、私は眠れずにいた。


 ベッドに横たわって天井を見つめながら、これまでの出来事をひとつひとつ思い返していた。身に覚えのない求婚の数々、見知らぬ人たちの視線、そして……失われた血統。


 自分が何者かも知らずに、平凡な司書として生きてきたはずだった。


 だけど、もう“ただの司書”ではいられないのかもしれない。


 どこかで覚悟を決めないといけない気がしていた。けれど、それが何を意味するのか、まだ私は答えを出せずにいた。


「エルナ様……お目覚めですか?」


 リリエの声がして、私はようやく我に返る。どうやらウトウトしていたらしい。


「いえ、眠れてませんでした……どうかしましたか?」


「第一王子殿下より、お早朝にも関わらず“急ぎ話がある”とのことで……」


「またですか……」


 こうなる予感はあった。あの魔術研究所の騒ぎが、王宮に伝わっていないはずがない。


 通されたのは、昨日と同じ王子殿下の私室だった。部屋に入ると、アレクシス殿下が窓辺に立っていた。背中越しに語りかけてくるその声音は、どこか硬い。


「……来てくれたか」


「リリエに叩き起こされましたので」


「すまない。だが、急ぎ話しておく必要があった」


 殿下が振り返り、真っ直ぐに私を見つめてくる。


「君が“聖癒の血”を引く者だと、確かに確認された。研究所から報告があった」


「……そうですか」


「王として言えば、この事実は国家的な価値を持つ。だが一人の人間としては、君がこれ以上巻き込まれるのは忍びない」


 それは、言葉としては優しさに聞こえた。けれど、私は思ってしまう。結局、私は“価値”で見られているのだと。


「つまり、これからどうするかを選べということですか?」


「そうだ。王家が保護を申し出ることもできる。妃としての正式な地位を与えることも。あるいは、国を離れて身を隠すという選択もあり得る」


「……意見を聞かせてくれますか?殿下は、どうするのが望ましいと?」


 アレクシス殿下は短く息を吐いて、ひとつ椅子を勧めた。私はそれに従って腰を下ろす。


「私個人としては、君に王家に入ってほしいと思っている。それは感情として、そして現実的な利として、両方からだ」


「……感情、ですか?」


「君がただ“似ているから”という理由で惹かれた存在ではないと、私は理解している。だが、それだけで他の思惑を押しのけられるほど、私は未熟でもない」


 なんて正直な人なのだろう。ずるいほど、誠実な眼差し。


 そのとき、ノックがあり、重たい空気が一度切られた。


「失礼します」


 入ってきたのは、ジェームズ様だった。


「殿下、第二王子殿下より、至急“エルナ嬢をお借りしたい”と……」


「ヘンリーか。あの男が何を考えているのか、予想もつかないが……」


「エルナ様宛の“辞令”をお持ちです」


「じ、辞令……?」


 急すぎる話の展開に、私は呆然とするしかなかった。


 ジェームズ様が差し出した封筒を受け取って開いてみると、確かにそこには第二王子殿下の名で発行された辞令が記されていた。


『王立図書管理局特別調査官補佐。王室直属の任命により、館内特殊記録群の整理及び接触制限書類の分類に関する職務を命ず』


「……これってつまり、王室図書館で働けってことですか?」


「そのようです。そして“殿下の直属”という但し書きもあります」


「おかしくないですか!?なんで王子の直属なんですか!?」


「彼なりの配慮でしょう。エルナ嬢を、王宮の中で一番安全な場所に置きたかったのでは」


 いや、それは建前だと私は思う。おそらくヘンリー殿下はまた何か面白いことを思いついたに違いない。あの人はいつも、私が予想する斜め上をいく。


「どうされますか?お断りしますか?」


「……断っても無駄な気がします。引っ越しの準備、リリエにお願いできます?」


「承知しました」


「私にも手伝わせてください」


 ジェームズ様の静かな申し出に、私は一瞬言葉を詰まらせた。


「……ありがとうございます。でも、どうしてそんなに私に構ってくれるんですか?」


「気付いていませんか?私は貴女に対して、とっくに“王族の命令”以外の理由で動いています」


 不意に、胸が熱くなる。


 言葉が出ないまま、私は小さく頷いた。


 その日の夕方、私は新しい執務部屋に案内された。王宮図書館の最奥、普段は鍵のかかった一角。その扉を開けると、長い年月を感じさせる書架が幾重にも連なっていた。


 まるで、時の迷宮。


「ここで、私は働くんですね」


 リリエが横で小さく笑った。


「エルナ様らしいお仕事です。きっと、ここなら心も落ち着かれるはず」


 私は彼女の言葉に頷いた。


 思えば、図書館は私の始まりだった。ならば、ここで再び何かを掴めるかもしれない。


「さて、働くにはまず……整理からですね」


 魔力と血統と、様々な思惑が渦巻く中で、私は再び“本”という確かな世界に指先を伸ばすのだった。


 そう、私は“本の中の静けさ”の中でこそ、自分を取り戻せる。


 だからこそ、たとえ血に秘密があっても、魔力が特別でも、この指先がページをめくれる限り、私はきっと、私でいられる。




 王室図書館での勤務が始まってから、私は一種の“平穏”を取り戻していた。


 もちろん、それはあくまで表面上の話で、実際には特殊記録群という謎に満ちた文書の山と格闘する毎日だった。あらゆる禁書、封印書、魔術理論書が積み上がるその空間は、まるで王国の裏側そのものだった。


「本当に、これ……全部、分類するんですか?」


「“一部から始めてよい”とのことです。順序を決める権限も、エルナ様にあります」


 リリエはいつもの穏やかな声でそう言った。だがその背後で、ミロスがそっと顔を背けて笑っていた。


「少しは遠慮というものを覚えてもいいんじゃないかしら」


「君が喜ぶと思ったからだよ。文字に囲まれてる方が落ち着くだろ?」


「そうだけども!」


 そんな日々の中、ジェームズ様も定期的に顔を出すようになった。第二王子直属の立場とはいえ、彼の職務は幅広く、政務に軍事に調整にと、常に忙しそうだった。


 それでも、私の様子を見に来ては、机の上の本を整理してくれたり、時には手製のハーブティーを差し入れてくれたりもする。


「ここの空気は乾燥しがちですから、喉を傷めぬようお気をつけて」


「……もしかして、心配性ですか?」


「はい。認めます」


 素直な返答に、思わず笑ってしまった。


 ある日、図書館の奥で、私はひときわ古びた棚を見つけた。重い鍵がかけられたその引き出しには、何かを封じるような魔力の封印が施されていた。


 リリエに尋ねても、ミロスに聞いても、その存在自体が“知られていないこと”になっていた。


「開けてみたい、ですか?」


 ふと現れたヘンリー殿下が、私の横から覗き込んできた。


「えっ、殿下!?なんでここに!?」


「君の“新天地”を確認しに来たんだよ。ちょっと気になってさ」


「そっとしておいてください……!」


 困惑する私の手から、殿下は鍵のかかった引き出しを指で軽くなぞる。すると、魔力の封印がふっと揺らぎ、鍵が外れた。


「え、えええ!?勝手に開けていいものじゃ――」


「大丈夫だよ。これは君に関係のあるものだから」


 そして、引き出しの中から取り出された一冊の黒革の本。表紙には金の文字で、こう記されていた。


『カティア=ノーグレイス』


 その名前を見た瞬間、心臓が跳ねた。


「まさか……彼女の、日記……?」


「当たり。正確には、王家に保管されていた彼女の遺志書でもある」


「どうして、そんなものが……」


「君に見せた方がいいと思った。……彼女は、君に何かを託したような気がするんだ」


 殿下は、少しだけ真面目な顔をしていた。


 私は震える手でその表紙を開いた。最初のページには、丁寧な筆跡で、たったひとつの言葉が綴られていた。


『これを読むあなたが、どうか幸せでありますように』


 その瞬間、胸が詰まった。


 名前も知らなかった彼女。似ていると言われるたびに感じていた“他人の影”。けれど、その言葉のあたたかさに、初めて私は彼女を“人”として想像できた気がした。


「エルナ」


 ジェームズ様が、いつの間にか傍にいた。


「読んでください。あなたのことを知るために。そして、彼女のためにも」


 私は頷いた。


 この日記が私に何をもたらすのか、それはまだわからなかった。


 けれど、きっと何かが変わる。そんな予感だけが、静かに心を満たしていった。


 その晩、私は日記を抱えて部屋に戻った。


 手のひらよりやや大きめの黒革の本。その重みが、文字通りの“重さ”に思える。中身は想像以上に整った文章で、誰かに向けて書かれたというより、自身を整理するように綴られたものだった。


 カティア=ノーグレイス。


 その名前が持つ響きすら、どこか他人事だった私が、いまこうして彼女の想いを受け取っていることの意味がわからなかった。


 けれど読み進めるうちに、不思議と彼女の姿が浮かび上がってくる。


『私は王子を愛していない』


『ただ、彼の隣にいることで、私の家が救われるのなら、それでいいと思っていた』


『でも、それが偽りだと知ったとき、私はただ、泣くしかなかった』


 整然とした文字の裏に、どれだけの孤独と絶望があったのだろう。


 心がぎゅうっと締め付けられた。


「カティア様……あなたは、私に何を託したんですか」


 無意識に、私は声に出していた。


 翌朝、リリエがやって来たとき、私はまだベッドの上で日記を読んでいた。彼女は何も言わず、朝食と熱い紅茶をそっとテーブルに置いた。


「お一人で悩まれませんように。……いつでも、お話をお聞きします」


「ありがとう、リリエ」


 言葉にできない何かが、胸の奥で少しだけ、ほどけた気がした。


 そして私は、決めた。


 この日記を、最後まで読むと。


 彼女の生きた証を知ることが、私の“今”につながる気がしてならなかったからだ。


 王宮の一角で、他人の言葉に心を重ねる自分がいることが、不思議だった。


 でも、それこそが今の私なのだ。


 似ているから騒がれた私が、いま彼女の足跡を辿り、彼女の傷に触れている。


 赤の他人だったはずの私と、彼女を繋ぐものが、確かにそこにあった。


 私はそっと、ページをめくった。




 カティアの日記を読み進めるうちに、私は彼女の抱えていた想いの深さと重さに、胸が締め付けられるのを感じていた。


 政治の道具として扱われながら、それでも誰にも憎しみを抱かず、ただ静かに孤独と向き合っていた少女。


『私は、誰かに必要とされたかっただけ』


 その一文を目にしたとき、私は思わず涙をこぼしていた。


 彼女が愛した相手は、自分の意思で彼女を選んだわけではなかった。それでも彼女は、その人を恨むこともせず、最後にはその幸福を心から願っていた。


「優しすぎるよ……カティア様……」


 私は、あなたのようにはなれないかもしれない。でも、だからこそ、せめてあなたの想いを、ここで終わらせてはいけない。そんな風に思った。


 日記を閉じた朝、王宮では再び会議が開かれていた。


 出席者は第一王子アレクシス殿下をはじめとする王族、宰相、公爵家、そして私。


 ――そして、議題は“聖癒の血統を継ぐ者の扱い”についてだった。


 私は堂々と、王宮の大広間に足を踏み入れた。ジェームズ様が静かに付き添ってくれていた。


「緊張していますか?」


「はい。でも、大丈夫です。もう逃げませんから」


「……心強いです」


 席に着くと、すぐに議長であるアレクシス殿下が開口した。


「本日は、改めてエルナ・ハーヴィルド嬢の今後について議論したい」


 集まった貴族たちの視線が、一斉に私に注がれる。疑念、好奇、計算、そして一部に羨望――あらゆる感情が交錯していた。


「彼女は、確かに“聖癒の血”を受け継いでいる。しかしそれは、本人の意思とは関係のない出生の問題だ。我々は、その事実にどう向き合うべきかを問いたい」


 殿下の言葉に一瞬の沈黙が落ちた。


 やがて、ある伯爵が手を挙げて言った。


「妃として迎え入れることを前提にすべきでは?貴族の血統として保護し、適切な管理下に置くのが当然かと」


 “保護”という名の監視。


 “管理”という名の拘束。


 私はゆっくりと立ち上がり、静かに口を開いた。


「失礼ながら、私に王家の血はありません。ただ、偶然似ていた者として呼ばれ、調べられ、魔力の数値を測られ、結果的に“特別な存在”とされました」


 ざわ、と周囲が揺れる。


「でも私は、魔力や血統で価値を測られるような存在になりたくない。私は、ただ一人の“エルナ”でありたいのです」


 私は視線をアレクシス殿下に向けた。


「殿下。王家に仕えることも、妃となることも、光栄には思います。ですが、私は私自身の意志で、生き方を選びたい」


 殿下は微笑んだ。その視線には、どこまでも真摯な敬意が宿っていた。


「エルナ嬢の意思を、王家として尊重しよう。我らは“民のためにある”のであって、“民を縛るため”にあるのではない」


 その言葉を皮切りに、他の貴族たちも次第に沈黙を守るようになっていった。


 議会の空気が変わった。


 そして、議決が取られた。


 ――“聖癒の一族の末裔とされる彼女は、王宮において自由を認められるものとする”。


 その夜、図書館に戻った私は、静かに一冊の本を閉じた。


「これで、カティア様も少しは報われたでしょうか」


「……君自身も、報われたかい?」


 後ろからかけられた声に振り向くと、そこにいたのはジェームズ様だった。


「はい。ようやく、胸を張れる気がします」


「それを聞いて安心しました」


「でも――」


「?」


「私は、あなたに守られてばかりだったような気がして……今度は、私から言わせてください」


 私は一歩、彼に近付いた。


「ジェームズ様。あなたがどんな地位にあろうと、私は――貴方と並びたいです」


 ジェームズ様の目が、少しだけ見開かれた。


 それから、優しく微笑んで、私の手を取った。


「なら、これからも隣に立ってください。エルナ様……いいえ、エルナ」


 呼び捨てされた名前が、こんなにも心地よく響くなんて思わなかった。


 私は、ようやく私になれたのだ。


 そしてこの日から、私は“誰かの影”ではなく、“誰かの隣”で生きていくことを選んだ。


 その夜は、久しぶりに穏やかな夢を見た。


 夢の中、私は図書館の中庭で本を読んでいた。隣にはジェームズ様がいて、リリエが紅茶を運んできてくれた。ミロスは相変わらずぶつぶつと文句を言いながら、資料の山に埋もれている。


 そこには争いも、策略も、過去の亡霊もなかった。ただ、静かであたたかな時間が流れていた。


 ……そんな未来が、現実に少しずつ近づいている気がした。


 翌朝、図書館の扉を開けたとき、私は一冊の封書を見つけた。宛名にはこう書かれていた。


『エルナ様へ ―カティアの願いを継ぐ者へ―』


 中には、カティアが生前に綴ったもうひとつの文書が封入されていた。正式な遺言ではなく、まるで友達に宛てた手紙のように、親しみのある言葉で書かれていた。


『私のようにならないで。あなたには、選ぶ力がある』


『過去に縛られないで。あなたは、あなたの未来を歩いて』


 私は、そっとそれを胸元に抱きしめた。


 赤の他人。でも、たしかに私の背中を押してくれた人。


「ありがとう、カティア様。私は、しっかり歩いていきます」


 その言葉と共に、私はようやく心から笑えた。



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