『推しの騎士団長様が婚約破棄されたそうなので、私が拾ってみた。』
冷たい雨が、石畳を濡らしていた。
王都騎士団本部。訓練場の奥にある中庭にて、重苦しい沈黙が支配していた。見守る騎士や侍女たちは誰一人として口を開こうとせず、ただ濡れるのを避けるように身をすくめるばかり。
その中心に立つのは、騎士団長レオン・バルクハルトと、その婚約者だった貴族令嬢エリザベート。
「レオン様……申し訳ありません、と言いたいところですが……正直、もう限界なんです」
エリザベートの声音には哀れみすら浮かんでいない。あるのは、ただ自身の不快を言葉にする冷ややかさ。
「あなたの、その汗と……筋肉の匂いが、もう“野蛮”でしかなくて」
「そもそも、婚約してから一度も舞踏会に私をエスコートしてくださらなかったですし」
「貴族としての優雅さも、気遣いも、あなたには欠けているんです」
「筋肉なんて、下賤な者が身を守るために鍛えるもの。騎士団長にはふさわしくても、私の夫にはふさわしくありません」
「そもそも、あなたは元は平民でしょう? 伯爵になる予定とはいえ、家柄も違いますし……私の家の格にふさわしくありませんわ」
レオンは、黙っていた。
拳を握る。革の手袋がきしむほどに力を込めても、感情は押し殺されたまま。
その沈黙に、誰も声をかけることができなかった。
エリザベートは軽く礼をすると、そのまま振り返り、傘の下へと戻っていった。
中庭に残されたレオンの肩だけが、雨の中で静かに濡れていく。
(鍛えるのは、己の誇りのためだった。誰にも負けぬ力を持つことで、誰かを守れると思っていた。だが……その力が、誰かを遠ざけるものになるとは……)
その夜、訓練場。
雷鳴が響く空の下、レオンは一人、剣を振り続けていた。
濡れた髪が額に張りつき、鎧の隙間から滴る水が、静かに地面を打つ。
呼吸は荒く、吐息は白く。振るわれる剣が空気を裂く音だけが、夜の闇に刻まれていく。
「筋肉も……努力も……意味がなかったんだな」
誰にも届かぬ独白が、雷鳴と共に闇に消えていった――。
◆
翌朝、王都騎士団の厨房は、いつになくざわついていた。
「新しい炊事係、今日からだろ?」
「なんでも相当腕がいいらしいが……」
「女の人なんだろ? 騎士団でやってけんのかね」
そんな声が飛び交う中、重苦しい空気の原因はもう一つ。
前夜、団長がびしょ濡れで剣を振っていたという噂が団内に広まっていたのだ。
「団長、昨日の夜……」
「誰も声かけられなかったってさ」
「今、機嫌悪いんじゃ……?」
誰もが腫れ物に触るように振る舞うその空気を、まるで切り裂くかのように現れたのは、一人の女性だった。
「おっはよー!」
厨房の扉を勢いよく開けて現れたその女性は、金髪にワイン色の瞳、快活な笑顔を浮かべた美しい女性だった。
彼女の名は、ミレイア・グランシェリ。
「さっそく厨房、貸してもらうよ〜……って、うわ、僧帽筋すご!」
ミレイアの視線の先には、たまたま通りかかった騎士団長、レオン・バルクハルトの背中。
「……今、団長に話しかけた?」
「しかも筋肉を褒めた……?」
周囲の団員たちが石のように固まる中、レオンだけがゆっくりと振り向いた。
「貴様は……誰だ?」
その問いにも臆することなく、ミレイアは胸を張って宣言する。
「ミレイア・グランシェリ。今日から炊事担当だけど、実は筋肉観察も趣味なの」
団員たちの間に、何とも言えない空気が走る。
ミレイアの身分について誰も知らない。だがその堂々とした態度と、どこか庶民離れした品のある所作は、ただの料理人とは思えない何かを醸していた。
「……ふざけた態度を取る者は、厨房に立たせるつもりはない」
レオンの静かな声に、一瞬空気が凍る。だが——
「ふふ、怖い顔。じゃあ今日の昼、あんたを黙らせるくらい美味しい料理、食べさせてあげる」
ミレイアの言葉に、団員たちの背筋が凍る。
「この人、命知らずすぎる……」
ところがその数時間後——
厨房に立ったミレイアの手際は、まさに職人のそれだった。
香辛料の選び方から火加減、鍋を振る手付きまで、すべてが無駄なく美しい。
「うめぇ!」
「これ、マジで宮廷料理並みだぞ!」
「お前、宮廷料理なんて食べたことあんのかよ」
「……ねぇな。でもそんな気がする!」
団員たちは口いっぱいに頬張り、幸せそうに笑っていた。
レオンもまた、無言で箸を進めていた。気づけば完食。
そして、ミレイアが近づき、テーブルの向こうから軽く笑いかける。
「ね、美味しかったでしょ?」
一瞬だけ、レオンの目が伏せられる。
「……悪くなかった」
それだけを口にすると、彼は再び席を立ち、背を向けた。
ミレイアは、にやりと笑う。
(うん、今日も筋肉が輝いてる。これは、いい職場になりそうだわ♪)
◆
夜の騎士団本部は、いつになく華やいでいた。
食堂ホールの拡張スペースには明かりが灯り、温かな香りと笑い声が満ちている。新たに配属された炊事係、ミレイア・グランシェリの歓迎会が始まっていた。
卓上には彩り豊かな料理がずらりと並び、団員たちの顔はどれも緩みきっている。
「姉御、これ……マジで全部手作りっスか……」
「胃袋、完全に陥落しました……」
褒め言葉が飛び交う中、ミレイアはエプロンのまま酒杯を手に現れ、にっこりと笑う。
「さ〜て、胃袋の次は、皆さんの心も掴ませてもらおうかな」
団員たちは歓声を上げて杯を掲げる。だがその盛り上がりの中、ひとりだけ場の熱に乗らない男がいた。
「団長も飲みましょうよ!」
呼びかけられたレオン・バルクハルトは、微かに眉を動かしただけで、低く返す。
「任務中は控える」
その瞬間、場の空気が一気に張り詰める——かに思えた。
しかしミレイアは、何事もなかったかのように杯をくるりと回し、楽しげに言った。
「じゃあ代わりに、私が酔ったふりでもして盛り上げてみようかしら?」
そして、杯を掲げたまま、くるりとレオンの前に立ちはだかる。
「団長ぉ〜〜その上腕二頭筋ぅ〜〜〜抱き枕にしたいぃぃ〜〜〜!」
次の瞬間、ミレイアの柔らかな腕が、豪快にレオンの胸板へと伸びた。
騎士団の英雄であり、鋼のような精神力を誇る団長が——凍りついた。
「……」
その顔に、かすかな赤みが差す。
「団長、顔赤い!」
「逃げられないッスね、これは!」
「姉御、それ犯罪スレスレっす!」
団員たちの喝采が響く中、レオンはぎこちなく声を発した。
「……離れろ。不謹慎だ」
それでも、ミレイアは頬をすり寄せながら囁くように笑う。
「減るもんじゃないし……むしろ、筋肉は愛されたら育つんだよ?」
「姉御が本気出すと、団長でも手に負えない説」
「これもう結婚しちまえよ……」
「付き合ってないのが奇跡だな……」
団員たちは酒杯片手に盛り上がり、やがて誰かが言った。
「団長、顔真っ赤っスよ。もう降参したらどうです?」
レオンは静かに息をつき、ようやく身体を引き剥がすようにして言う。
「……いい加減にしろ。お前は明日、朝食当番だろう」
耳まで染まったまま、その背中はそそくさと食堂を後にした。
残されたミレイアは、杯を掲げて笑った。
「は〜い、がんばりま〜す」
その笑い声は、夜の帳に軽やかに溶けていった。
◆
訓練場に朝日が差し込む中、団員たちは武具の手入れや筋力トレーニングに励んでいた。
鍛え上げられた身体が汗に光り、金属の音がリズムよく響く。
「うおーっ、今日も全力で筋肉仕上げていくぞーっ!」
「おっしゃー!」
そんな熱気の中、軽やかな足音とともに、今日も彼女はやって来た。
「おはよー! はい、差し入れ!」
ミレイア・グランシェリが笑顔で差し出したのは、香り高いスープの鍋。
「今日は特製プロテインスープだよー! 筋肉のためなら手間は惜しまないのが信条!」
「姉御ありがてぇ!」
「胃袋まで鍛えられてる気がする!」
団員たちはスプーンを手に歓喜し、ひと口ごとに感謝を捧げていた。
そんな中、ミレイアは鍛錬中の若手団員に目を留めた。
「おっ、いい僧帽筋してるじゃん〜。角度が美しいね」
「マジすか!? 姉御に褒められるとか一生の自慢ッス!」
団員が歓喜に沸くそのすぐ近く、片手懸垂をしていたレオンの手が、ぴたりと止まる。
(……角度……? 僧帽筋の角度だと……?)
彼は無言のまま自重スクワットへと移行し、次にバーベルを両肩に担ぎ上げる。
その後も、訓練メニューを黙々と倍加していく。
「団長、なんか今日のメニューえぐくないっすか!?」
「甲冑のままでそれは無理っす!」
団員たちの悲鳴をよそに、レオンはバーベルを掲げたまま唸るように言う。
「……トレーニングは……裏切らない」
しかしその直後、事件は起こった。
「団長!? ……甲冑が、脱げない……!?」
「え、え、これギャグ? ガチのやつ??」
パンプアップしすぎた筋肉により、レオンの甲冑がきつくなりすぎて外れなくなってしまったのだ。
「……詰まった……だと……?」
そこへ、颯爽と現れるミレイア。
「よーし、仕方ない。私が脱がせてやろうじゃないか」
ニヤリと笑い、くいっと袖をまくる。
「……さあ、筋肉、見せてもらおうか♪」
レオンは慌てて後退しながら叫ぶ。
「や、やめろ、やめろミレイア! 俺を脱がすな、それ以上近寄るな……理性が持たん……!」
団員たちは一斉に耳をふさぎながら呟いた。
「これは見なかったことにしよう……」
「団長……ご武運を……」
◆
団長の鎧事件から数日後。
王都の市場広場は、祝祭を控え華やかな装飾で彩られていた。
式典の準備式として、貴族や騎士、民衆までが集い、広場には緊張と期待が混じる空気が漂う。
その中に、礼装を纏ったレオン・バルクハルトと、清々しい笑みを湛えるミレイア・グランシェリの姿があった。
レオンは今日、正式に伯爵に任じられる直前であり、多くの視線が彼に注がれていた。
そんな中、一人の女性が彼に歩み寄る。
「あら……レオン様? ……まぁ、すっかり立派になられて」
かつての婚約者、エリザベートである。
ドレスの裾を優雅に揺らしながら微笑む彼女に、レオンは丁寧に一礼を返す。
「あなたが正式に伯爵となられるなんて、王も少々お情けが過ぎますわね。……元平民にしてはよく頑張ってらして」
その言葉に、空気がぴりついた。
しかしレオンは何も言わない。ただ、凛とした姿勢を崩さず立ち続ける。
代わりに、隣にいたミレイアが一歩前へ出た。
「それはそうですね。努力を積み重ね、誰よりも強く、誰よりも優しい方ですから」
その声は柔らかく、けれど芯のある響きだった。
エリザベートが眉をひそめる。
「まあ、どなた……? あなたのような平民が、どうしてご一緒に?」
ミレイアはにこやかに、しかしはっきりと名乗った。
「私はミレイア・グランシェリ。王家の分家筋にあたる者です」
周囲がどよめいた。エリザベートの表情が一瞬きょとんとし、すぐに引きつった笑みに変わる。
「……まあ、それはそれは。王家の方ともなれば、そういった“慈善活動”も時には必要ですものね」
その言葉に、辺りの空気が凍りついた。
ミレイアの微笑は、ほんのわずかに深くなる。
「ええ、確かに。ですから今、目の前の“品性を捨てた人”にどう接すべきか、考えていたところです」
エリザベートの顔から笑みが消える。何かを言おうとしたが、口が動かず、やがて視線を逸らしてその場を去っていった。
すぐに、ざわめく声があちこちで上がる。
「今の聞いたか?」
「姉御が王家の関係者……?」
ミレイアは人々の視線を気にすることなく、レオンの隣に戻る。
「でも今は、炊事係としてここにいる。そして私は団長を心から誇りに思ってます」
そして、彼にだけ向けて微笑みを向ける。
「ね、レオンさん。あなたは別格だもん」
レオンは、目を見開いたまま数秒、じっとミレイアを見つめた。
そして——ほんのわずかに、笑った。
◆
式典の賑わいが去った王城の裏庭。
紅く染まりゆく空の下、レオンとミレイアが静かに並んで歩いていた。
「……初めてだった。否定されなかったのは」
ぽつりと落ちたレオンの言葉は、彼の背に陽が差して柔らかく見える。
「貴族になってからも、誰かに本当の意味で認められたことなんてなかった。強さも、筋肉も、努力も……ただ、笑われるだけだった」
ミレイアは彼を見上げ、笑った。
「それは見る目がない人たちの話。レオンさんの筋肉と中身、両方に惚れ込む人だって、ここにちゃんといるよ」
レオンは思わず立ち止まり、彼女を見つめる。
目が合うと、自然と頬が熱を帯びた。
「……お前は本当に……」
「なになに? 続き聞きたいなぁ」
レオンは気恥ずかしそうに咳払いし、再び歩き出す。
「……なぜだろうな。お前と話していると、不思議と呼吸がしやすい」
「それはきっと、私が騎士団の胃袋も心も掴んでるからじゃない?」
彼女の冗談にレオンは少し笑い、そして足を止める。
真っ直ぐな瞳で、ミレイアを見た。
「……ミレイア。俺と……一緒に暮らしてくれないか」
ミレイアの目がわずかに見開かれ、やがてふっと笑みが零れる。
「うーん、それってどういう意味かなぁ?」
「お前がそばにいると、俺は……強くなれる気がする」
その声は剣よりまっすぐで、どこまでも誠実だった。
「じゃあまずは、筋肉の部位ごとに愛でるルーティン作ろうか♪」
彼女の言葉に、レオンは面食らったように瞬きをする。
「……それはどういう意味だ」
「毎日違うところ愛でたいってこと。火曜日は上腕、木曜は腹筋……金曜は大腿四頭筋!」
耳まで真っ赤に染まったレオンは、うつむきながらぽつりと呟く。
「……お前は本当に……」
「ん〜? 続き聞かせて?」
「……やっぱり、言わなくていい」
今のままで十分すぎるほど幸せだと、レオンは思った。
石垣の裏、団員たちの声がひそひそと聞こえる。
「団長……ご武運を……」
「これもうプロポーズでいいでしょ」
「週末の筋肉が無事であることを祈る……」
ミレイアは楽しそうに笑い、その声は夕暮れの空へと溶けていった。
レオンの背中はいつもより少しだけ、やわらかく丸く見えた。
強さとは、誰かに肯定されることで、初めて意味を持つものなのかもしれない。
筋肉と姉御と、少しだけ不器用な恋のはじまりは、こうして静かに幕を上げた。
★あとがき★
筋肉と胃袋と恋が交差する、そんな物語はいかがでしたか?
彼女の笑顔と、彼の不器用な優しさが、少しでも皆さまの胸に響いていたら幸いです。
――それでは、またどこかの物語でお会いしましょう!
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