燈火
その人影に気がついたのは、引越しを終えて、しばらくしてのことでした。
駅から離れた2DK。マンションとは名ばかりの賃貸ですが、シングルマザーには十分です。ダイニングの端にクマ柄のラグを敷いたささやかなリビングは、娘二人に大受けでした。
部屋は二階で、正面の窓は裏道に面しています。そこから見える街灯が、日暮れに合わせ灯るのを合図に夕食を始めるのが、我が家の習慣になりました。
人影が立っているのは、きまってその時刻、その街灯の下でした。
最初は見間違いかと思いました。食後の片づけを終え、換気をしようと窓を開けた時、こちらを見上げる視線に気がついたのです。薄暗い明かりの下、電柱に隠れるように佇むそれは、男性のようでした。声もなく、物陰から見上げる様子はまるで幽霊のようで、思わずカーテンを引きました。一瞬、別れた夫が来たのかと思ったのです。
気もそぞろに娘たちを寝かせ、リビングを消灯した後にこわごわ確かめると、人影はもうありませんでした。夫でないことに安堵した反面、得体のしれない不安が残りました。
それから毎晩、この時刻になると、その人影は姿を見せるようになりました。
部屋の明かりを消すまで、微動だにせず、ずっと。
窓のカーテンを閉めても、それは変わりませんでした。
人影は道端から、こちらをただ見上げるばかり。
家族に害があるわけではありません。
ですが正体がわからず、気持ちが悪い。
春とはいえ夜は肌寒いこの時期に、何時間も外に立ち続けているのですから。
それとも本当に、人ならぬ亡霊なのでしょうか。
娘は小学生ですが、ストーカーかもしれない。
そう思うと、とても怖くなりました。
通報も考えましたが、引っ越し先で騒動を起こすのは躊躇われ、かといって頼れる男手のあてもありません。
その夜、わたしは勇気を振り絞りました。
夕食の後、部屋を出て、街灯の下に向かったのです。
娘に買った防犯ブザーと懐中電灯を握りしめて。
足音を忍ばせ近づくと、果たして人影は電柱の陰にいました。
作業服を着た、小柄な中年の男性です。
声をかけると、慌てた様子で平謝りされました。
少し拍子抜けしながら、わたしは理由をたずねました。
その方は、わたしの前の住人。
一年前まであの部屋に住んでいたそうです。
持病を抱えた老母との二人暮らし。
わずかな稼ぎと年金が頼りの、倹しい生活。
介護のため親元を離れられず。結婚もできず。
それでも、母と食卓を挟む日々は幸せだったと。
家路に灯る窓明かりは、母が無事な報せ。
胸を撫でおろし、夕餉の香り漂う階段を昇る。
在り来りで何事もない、平凡な毎日。
一年前、街灯の下で、真っ暗な窓を見上げるまでは。
葬儀の後、男性は近所のアパートに越しました。
けれど、誰もいない真っ暗な窓に耐えられず。
次第に当て所なく、町をさ迷うようになり。
ふと立ち寄った折、かつての部屋に新たな住人が越していると知ったそうです。
母と暮らした場所に明かりがついている。
ただそれだけで、胸が熱くなったと。
久々に穏やかな気持ちで帰宅できたと。
それから毎晩、立ち寄るようになった、と。
そう語る眼差しは、また部屋を見上げながら。
──ちょっと見ていきますか?
何故そんなことを言ったのか、自分でもわかりません。
けれど、わたしの不用意な申し出に、男性は静かに首を振りました。
──もう来ません。
最後に頭を下げると、男性は闇の中に姿を消したのです。
◇ ◇ ◇
部屋に戻ると、眩しいリビングから娘たちが駆け付け、いつものように騒ぎ始めました。
ママ、コンビニ行ったの?
お土産は? チョコは? アイスは?
わたしは、二人を抱きしめました。
それしかできない──
そして、そうせずにはいられなかったのです。
― 了 ―