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猫医者駿次郎

作者: 岡野雅一

猫医者駿次郎



 快晴の空と青く輝く海。波止場には、大型汽船長崎丸が濛々と蒸気を上げていた。この年、大正十二年の二月に就航した長崎―上海航路の船だ。就航開始以来、人口約十九万の日本有数の大都市・長崎はいっそう賑わいを増していた。

 外国人が多く住む大浦地区の松ヶ(まつがえ)(ばし)の上から一人の青年が港の船を眺めていた。

「よう、ねこしゅん。何ぼんやりしている。商売あがったりってわけかい?」

聞きなれたしわがれ声に振り向いた。「ねこしゅん」と呼ばれたのは大磯(おおいそ)駿(しゅん)次郎(じろう)だ。しわがれ声の主は幼なじみの二宮(にのみや)松之助(まつのすけ)。松之助は長崎の駅や繁華街で人力車の人夫として糊口をしのいでいる。

 おいかぶさった髪型で、袴をはいた和装に黒いマントを羽織る駿次郎に対し、車夫の松之助は短髪で黒無地の法被に股引の姿だった。

二人とも三十歳の働き盛りだ。松之助を見て駿次郎は言った。

「まあ、そんなとこやろうね」

「大体、猫を医者に診せに来るやつなんかおらんやろうもん」

 駿次郎は困ったように肩をすくめた。このすぐ近く、路面電車停留所の松ヶ枝橋電停そばで『猫医者 大磯駿次郎』の看板を掲げたのは、上海航路ができたのとほぼ同じ頃だった。「ねこしゅん」のあだ名は、この看板を縮めたものだ。

 まだ四月。同じ春に、駿次郎は「同期」として文字通り船出した長崎丸をまるで支えあう仲間のように思い、橋から眺めていたのだ。

『猫医者』と名乗るからには獣医である。もちろん「資格外営業」は違法だ。獣医は儲かる仕事なのか。駿次郎の場合に限れば、否定せざるを得ないのが現状だった。

猫医者稼業を始めてから、固定客どころか訪ねてくる客はまだ数えるほどしかいなかった。それも猫の診察ではなく、「残飯を食べないから困ったものだ」とか、「この猫の爪を切ってくれんね?」とか愚痴や相談のようなものばかりだった。これでお金をとるわけにはいかなかった。

「なんで都落ちしたんや」

 突然、松之助がまじめな顔をした。駿次郎は東京の帝国大学農科大学獣医学実科を卒業した後、しばらく官僚として帝都東京で暮らしていたが、数年で故郷に戻ってきてしまった。

「官吏は俺には合わんと思うたとよ」

「はぁーっ」

 松之助が大げさなため息をついた。

「あんたの母ちゃんの気持ちが分からんか? 一生懸命ねこしゅんを立身出世させようと田畑を全部売り払って帝国大学に行く学費をこしらえたとに。それをふいにして」

 ここまで言って松之助の表情に少し怒りがにじんだ。

「ねこしゅん。あんた自分を親不孝者って思わんか」

 今、初めてでなく、会うたびに言われているといえ、駿次郎はやりきれない顔をした。松之助の言うことはもっともだと思った。それでも心決めたように松之助をじっと見て言った。

「俺が親不孝者だってことは認めるよ。ただね、付け加えておくけど、今のところはと言いたいね」

「今のところ?」

 松之助は首をかしげた。

「そのうち何とかなるやろう」

 駿次郎は笑みを浮かべた。松之助はまたため息だ。

「ねこしゅんがここまでのんきとは思わんかった。おっと。仕事に行かんといかん。またな」

 情けないという顔をした松之助は、急いで車を引いて長崎駅のほうに去っていった。

「さて」

 駿次郎は長崎丸に「またな」という意味で軽く手を上げて、橋を降りた。看板のかかった駿次郎の診療所。そこに入ると駿次郎の母である大磯ハツがかまどの前で火を起こしていた。駿次郎のほうを振り向くと、急に冷たい視線に変わった。

「少しはまともに仕事をせんば」

 いきなりトゲのある言葉を浴びせられた。

「もう少し辛抱してくれんね」

 申し訳なさそうに駿次郎は弁解した。

「せっかく帝大まで行って獣医になったとは誰のおかげね?」

「獣医は辞めとらんよ」

 駿次郎はなだめるように言ったが、ハツは怒りを爆発させた。

「何が獣医や! 猫医者の何が獣医や! 猫を診るような獣医なんて獣医じゃなか! 犬猫ば医者に診せる人間などおるもんか!」

 ハツはもう見向きもせず、かまどに向かって火を起こすことに専念した。

 確かに大正時代の獣医といえば、軍用の馬や家畜の牛を診るのが専門と言ってよいほどだった。犬や猫を診る医者も全くいないわけではなかったが、数は少ない。さらに地方となると一層だった。

「もうすぐ昼飯やけんね。居候に食わせるのももったいなかばってん」

 ハツはかまどから離れ、葉物野菜を刻み始めた。

 駿次郎は手持ち無沙汰になり、目についた新聞を取った。

『東洋日の出新聞』

 長崎県下で最も発行部数が多い新聞と、第一面の端に誇るように書かれている。診察室の椅子に座りページをめくると、

――本石灰(もとしっくい)と浜口にまた狂犬?

 という見出しが目についた。長崎市の本石灰町と浜口町で、九歳の女子と新聞配達中の少年がそれぞれ別の飼い犬にかまれたというのだ。かんだ二匹の犬は捕まえられ、細菌を検査したところ、両方の犬とも狂犬病の疑いがあると報じていた。

 やれやれまたか、とやるせない気持ちになった。このところ相次いでいる事件だった。

紙面をめくろうとすると、ふと後ろに視線を感じた。振り向くと入口に一人の女性が立ってこちらを遠慮がちにのぞいていた。駿次郎と目が合うと、気まずそうにその女性は訊いてきた。

「ここは猫を診てくれるお医者さんがいらっしゃるのですか」

「そうですよ。看板に偽りなしです」

 駿次郎は笑顔で答えた。女性が黙ったままなので続けて言った。

「猫をお連れになってくる方はほとんどいませんが、もし猫ちゃんに何かあったら遠慮なくお連れください」

 女性は何か言いたそうにもじもじしていたが、思い切ったように質問した。

「でもお見立てのお代、とてもお高いのでしょ?」

「そこそこはしますね。もしかしてあなたは猫を飼っていらっしゃるので?」

 女性は悪いことでもしたかのように小さく頷いた。

「ならば、何でもご相談に乗りますから、遊びに来る感覚でお越しいただければ」

 駿次郎は心を込めて応対したが、女性は敷居を高く感じているのか、おどおどした様子を崩さなかった。

「このあたりにお住まいで?」

 彼女の緊張をやわらげようと、駿次郎は話題を変えた。

「はい。そこの上のほうの日の出町に住んでいる早川トメと申します」

 駿次郎の診療所の前を走る電車通りをまっすぐ東に行くと、すぐに電車の終点である出雲町に着く。その先は細い坂道が入り組んだように走り、多くの庶民が住んでいる。日の出町はその一部だった。

 訊きもしないのに名前まで名乗られた駿次郎は、よほど自分に心を開いたのだろうかと軽い驚きがあった。

「早川トメさんですか。覚えておきますよ。私は看板にある通り、大磯駿次郎と言います。もっとも猫医者になってから、まわりはみんな『ねこしゅん、ねこしゅん』と言ってますがね。早川さんも私をねこしゅんと呼んでくださると何だか嬉しいです」

 駿次郎は照れ笑いを浮かべた。初対面の女性にここまで話すのは、これまでの人生でそうそうあるものではなかった。

「では、何かありましたら、お伺いさせていただきます」

 トメははにかんだような表情を結局最後まで崩すことなく立ち去った。ただ去り際にこう言った。

「よろしくお願いします。……ねこしゅんさん」

『ねこしゅん』と呼ばれて嬉しいとはいえ、あまり固定客にはつながりそうもないな、と駿次郎は思った。

ただ見送った後、初対面にもかかわらずトメに素直に好感を持った。向こうも同じであることを願った。

「駿次郎。飯だよ」

 ハツの呼び声が聞こえた。まだ怒っているのか、怒気を含んだようだった。周りは呼んでもハツだけは、間違っても「ねこしゅん」とは呼ばない。猫医者を認めない強い意志表明だった。



 出雲町の電停を通り過ぎ、狭いのぼりの石段を登っていった。入り組んだ段々を一歩一歩踏みしめながら登ると、ひと塊のような家屋の群れの中に早川トメの小さな家があった。

 ちょうど正午の大砲が鳴った。トメの家のすぐ上の山頂からである。ドンと鳴るので、どんの山の愛称があった。

トメの姿を認めると、まだ成熟しきっていない猫がよちよちと歩いてきた。

「小梅ちゃん」

 とそれこそ猫なで声で話しかけ、優しく抱き上げた。トメが飼っている猫は「小梅」と名付けられた雌猫だった。

小梅に出会ったのは、雨が降りしきるある夕方のことだった。冬の寒い中、家路を急いていると、どこからか何かが鳴くような声が聞こえた。悲痛な声。それも弱々しく、必死に助けを求めているようであった。

 薄暗い中、声の主を探すと細い石段の雑草に隠れるように、白い子猫が真ん丸とうずくまっていた。トメはとたんに憐れみを感じた。真っ先に家に連れていって、暖めてあげようと思った。

 子猫を抱き上げると雨で随分と濡れており、寒さで震えているのが肌を通して伝わってきた。

「寒かねえ」

 そのまま家に駆けだそうとしたとき、夫の新吉の顔が浮かんだ。新吉はあまり猫好きではなかった。連れて帰れば文句を言われるかもしれない。立ち止まって子猫の顔を見た。訴えるような丸い瞳がトメの心に突き刺さった。トメは決心した。

 このままにはできない。

 トメは猫を胸に、石段を全力で駆け上がった。家の戸を開け、猫とともに畳に上がり込むと、新吉が珍しいものでも見つけたかのような表情をした。

「なんやそれは」

 咎めるでも怒鳴るでもない新吉の問い。まだ事の次第が呑み込めていないようだった。トメは黙って夫の次の反応を待った。

「猫か」

 まだおとなしい声であったが、少しずつ新吉は状況を理解していくようだった。トメは次第に体が震えおののいていくのが分かった。自分から話すと一気に夫の怒りが爆発しそうに感じた。

「連れてきたのか。まさか飼うっていうんじゃなかやろうな?」

 新吉の声が次第に険しくなってきた。

「いけませんか?」

 トメはやっとこれだけの声を絞り出した。ほんの一瞬、間があった後だった。

「ダメや! 俺が猫好かんの知っとるやろうが!」

 やはり新吉は怒った。

「そこら辺に放り投げて来い!」

 新吉は指を外に向けて叫んだ。

「新さん」

 これがトメの夫を呼ぶときの言葉だった。

「子猫がかわいそうで、見捨てられませんでした。面倒見たかです」

 涙をこぼしながら必死に哀願した。

「ダメや、ダメや。すぐ捨てて来い!」

「いいえ。どうかお願いします。うちには子もおらんでしょう? せめてこの猫でも子供のようにかわいがりましょうよ」

 新吉トメ夫婦は子供に恵まれていなかった。結婚して十年近くがたとうとしているが、一向にコウノトリは赤ん坊を運んできてくれなかった。二人とももう諦めかけていた。

 新吉が言葉に詰まった。子供という言葉に心を動かされたのか。

 しばらく沈黙が流れた。

「勝手にしろ」

 こう言って新吉は酒瓶を取りに行き、やけ酒のようにあおり始めた。

「ありがとうございます」

 トメは深々と頭を下げるばかりだった。

 こういうてん末で飼い始めた小梅だった。

 駿次郎の診療所から帰ったトメは、小梅を抱えて家に入った。働きに出ているはずの新吉がいた。しかももう酒が入っているようだった。まだ正午になったばかりなのに。

「新さん、もう帰っとったと? 仕事はどがんしたとね?」

「どがんもこがんもなか。当分仕事はできんごとなった」

「どうして?」

 トメは事情を知ろうと体を乗り出すと、新吉の左手全体に包帯がまかれているのが目に入った。白い包帯に赤く血がにじんでいた。

「どがんしたと、その手」

「仕事でケガした」

「ケガって……」

 トメはそれ以上言葉が出なかった。新吉は一人前の大工を目指して、ある親方の下で働いていた。

「お医者さんには診せたと?」

「親方が連れてってくれた」

「それでなんて言われたと?」

「骨が折れとるって。治るには二、三か月はかかる。それまで仕事はできんって」

 トメは愕然とした。それでも言いたいこと訊きたいことは山ほどあった。

「それじゃあ、はよ、治さんといかんじゃないの。酒なんか飲んだら良くなか」

「うるさい!」

 突然怒りが爆発するのは新吉にはよくあることだった。トメは別段驚きもしなかった。それでも怖いのは変わらない。

「早く仕事に戻らんと、うちはどうやって暮らしていくの? あんただけが頼りなんよ。ケガしたのはしょうがないけど――」

「やから黙れって!」

 トメは怖がりながらも言うだけは言ってみたが、それ以上はできなかった。いつも新吉に怒鳴られるばかりで、トメはささやかな抵抗しかできなかった。

この気配をどう思ったのか、

「ミーミー」

 と、猫の小梅が入ってきた。ご飯をねだっているだけかもしれなかった。しかし小梅が二人の間に入るように来て、新吉とトメの顔を交互に見まわす姿は、トメにはケンカの仲裁に入ったようにしか見えなかった。

「ケンカなんかしないで。仲良くして」

 小梅がこう訴えているかのように。

 新吉もそう思ったかは分からない。ただ小梅が来た途端黙り込んだ。

小梅がこの家に来てから四か月ほどになる。新吉も当初は猛反対していたものの、トメから見ると少しは愛情を注いでやってきているようにも見えていた。

 数日前の夕食のときも、煮魚を箸でつまんで、

「これ食うか?」

 と小梅にやさしく差し出していた。

 今の小梅の鳴き声に力を得て、

「ほら、小梅もお酒やめてってゆうてる。早く元気になってって」

 と、トメは勝手な解釈を夫に押し付けることができた。それを新吉は思いのほか素直に受け取った。

「分かったわ。当分酒は止める。怒鳴ってすまんかった」

 酒瓶をもって奥にしまいに行った。

「じゃあ、昼ご飯まだなんでしょ? 支度します」

 と台所へ行こうとして小梅にそっと話しかけた。

「ありがとう、小梅ちゃん。やっぱりあたしたちの大事な子供や」

 言葉の意味を感じ取ったかのように小梅は、トメに撫でられながら喉をゴロゴロ鳴らした。


 三


 どんよりとした曇り空。雨が降りそうなほどでなく、通りをゆく人に傘を持った人は少なかった。

駿次郎はいつものように、獣医学書の山に埋もれて自室で本を読みふけっていた。診療所は大磯家の実家でもあり、駿次郎の生まれ育った家でもある。診察室の横の狭苦しい小部屋を何とかハツを説得して借り入れた。そもそも自宅を診療所に改装するだけでも、ハツから承諾を得るのは容易ではなかった。それに加えての「書物置き場」兼寝る部屋の交渉であったため、了解を得るまでかなり難儀した。

 東京から持ち帰った書物をすべて押し込むと寝るすき間などなくなった。これ以上部屋を借りるわけにもいかず、寝るときは診察室の狭い床に座布団を敷いて寝ていた。

 今もこうして小部屋に積んだ書物に腰掛けながら、最新の知識を得るべく、読書に没頭していた。

 もうすぐ陽が暮れる。積みあがった本で陽の光もまともに入らない部屋は、すぐに暗くなる。

 しおりを挟んで、脇に置いた。

「今日も稼ぎなしか」

 後ろに積まれた書物に寄りかかって、大きなため息をついた。

 松之助には、そのうち何とかなると大見得を切ったが、本音は不安だった。

 いつまでもこのような日々が続くのか。あるいは頑張って継続していれば、客がつくようになるのか。全く予測できなかった。

母ハツへの思いも当然ある。猫医者稼業が軌道に乗らないことは、自分が親不孝者であり続けることを意味する。ハツのトゲある言葉一つ一つに心は傷つくが、この生き方を選んだのは自分なのだ。

――自分勝手には生きられない。

 資産のほとんどを自分のために投げうってくれたハツ。それで得たすべてを自分一人の身勝手で捨てたも同然だった。今の自分は自分一人で出来上がったわけではない。そう考えをめぐらすと、どうしても行きつく先は「自分勝手」なのだった。

読書から離れると途端にその考えに襲われる。ハツだけでなく、松之助やその他周囲の人々の非難する声が聞こえてくるようだった。

 夕飯までまだ時間があった。やおら立ち上がり、書物の山をかいくぐるようにして部屋を出て、母に外出すると告げた。

「どこに行くとか知らんけど、仕事でも探すなら大歓迎ばい」

 いつも通りの冷めた声と皮肉だった。

 表に出ると、すぐ前に路面電車の線路がある。東は電車の終点で、西は港が望める松ヶ枝橋。駿次郎は西に向かった。

おのれを責めさいなまれる気持ちになったときの習慣だった。松ヶ枝橋の上から港を眺める。こうしていると、なんとなく鬱屈した気分が一時的であれ、忘れられるような気がするのだ。

 出島の波止場に停泊中の長崎丸は、明日の出航に向けて準備が進んでいるようだった。

「おーい」

 聞きなれたしわがれ声が駿次郎の耳に入った。二宮松之助だ。あの人力車を引く、駿次郎と同じ齢の幼なじみである。

 声のほうを向くと、軽々と車を引きながらも、汗まみれの顔に笑みを浮かべ、こちらへ走ってきていた。

「よう」

 と駿次郎も右手を高く上げて応えた。

「儲かったかあー」

 お前は大阪の商人かとあきれるが、それが松之助の夕方の決まり文句だった。

 互いの稼ぎを競い合う好敵手でもあった。いつも松之助が勝つのは言うまでもない。

 松之助は、駿次郎のすぐ近くに車を置き、横に並んで欄干の上で腕を組んだ。

「相変わらず上海の船ば、見よるとか」

 幼なじみの親友は駿次郎と同じ方向に視線を向けながら訊いた。

「いくら船ば見たって金は入ってこんよ」

「たまの休憩たいね」

 松之助の友情としての苦言に、少し意地になって駿次郎は返した。

しばらく二人とも船を見つめたまま佇んだ。橋のすぐ横を路面電車が右折して、繁華街方面へ向かった。その姿も動力の音も二人の意識には入らなかった。

 しばらくして松之助が駿次郎に顔を向けた。

「猫医者になるのは構わんと思う。長崎は猫が多かけん、そのうちお客さんも増えるとじゃなかやろか。ばってんいつも言うけど、母ちゃんのことも考えんと。少しでも楽させんといかんよ。俺も人力車ば引きよるばってん、大した稼ぎは無か。みんな生きるのに汲々しよるとよ。俺も偉そうに言える身分じゃなかけどね」

 駿次郎は、この苦言も友情だと思えば、真正面から受け止められた。自分のことを本気で心配してくれていることに感謝さえしていた。

 ただ、どう返答すべきかは、いつもうまく言葉が見つからなかった。

「そうやね」

 力なく、それだけ言うのがやっとであった。

「ここで今、言うのも変かもしれんけど」

 松之助の表情がまたまじめになった。

「俺はねこしゅんがうらやましかとよ」

 駿次郎は少し目を見開いた。

「なんやかんや俺もねこしゅんに言いよるばってん、ほんとは良か親友を持ってよかったって思っとるんよ。身近に帝国大学に行った人間がおるなんて、そうそうなかろう? お金持っとるだけで行けるわけでもなかろう? ねこしゅんの努力には俺は頭が下がるばかりたい。帝大を出て官僚さんになったけど、すぐ辞めた。もったいないと思うし、実際に文句も言うた。けど、まだ俺たちは三十歳やけん、いつまで生きるか分からんけど、まだまだこれからや。ねこしゅんもそう思うやろ?」

 身を乗り出してきた松之助から酒のにおいがした。

「その通りやと思う。でも黙っていたって何も始まらない。いつも向学心や向上心を忘れんごとせんばいかん」

 と、言った後、駿次郎は表情を崩した。

「まっちゃん。酒飲んどるやろ」

 松之助のほんのり紅かった顔がますます紅潮した。

「バレたか?」

「息が酒くさか」

 松之助は照れ笑いした。

「ご名答。だがな、今言ったことは嘘じゃなかよ。シラフじゃ言えんかったかもしれんけど、ほんとに普段から心に抱いとることやけんね。猫医者はこれから必要になるばいきっと。ねこしゅんは時代ば先取りしとるとたい」

「そうかな。そうだと良かけど。ありがとう」

 駿次郎は松之助の肩に手を置いた。

「俺もまっちゃんが親友でよかったと思うとるよ」

 二人が話し込んでいるうちに陽は西の稲佐山に沈みつつあった。背後の一人の男に気づかないまま、駿次郎も松之助も感慨にふけっていた。

「のんきに猫なんかの医者でもやっているとは、帝国大学、いや我が大日本帝国に泥を塗るも同然だな」

 突然、背後の男から声を浴びせられた。

 びっくりして二人が振り向くと、軍服姿の同世代らしき人物がいかめしい顔つきで立っていた。

「平塚か?」

 数秒、間をおいて駿次郎が言った。

「ねこしゅん、こいつを知っているのか」

 問いかけた松之助に駿次郎は一瞬だけ視線を向けて頷いた。

「帝大の獣医学実科で同期だった平塚(ひらつか)秀行(ひでゆき)だ」

「フッ」

 平塚は嘲るように鼻で笑った後、駿次郎に向けて言った。

「大磯に同期と言われると恥をかくようだな。猫医者稼業に転げ落ちるようなやつと机を並べたなんて、小恥ずかしくて親や親戚にも言われねえな」

「何だと、ねこしゅんをバカにするな」

 松之助がいきり立ったのを駿次郎が制した。

「何しに長崎に来たんだ」

「お国のためさ」

「お国のため? どういうことだ」

 駿次郎は問うた。

「大磯、お前も知っているだろう。長崎で犬が人を襲う事件が相次いで起きていることくらい。狂犬病の犬が長崎に多くいるかもしれん。そのため、陸軍獣医である俺が派遣されてきたんだ」

 ここ数日、新聞上で騒がれている事件だ。先日も駿次郎は女児と新聞配達の少年が、犬にかまれた事件記事を読んだばかりだ。新聞は過去の事例も持ち出して、再び長崎で狂犬病がはやるのではないかと危惧していた。

 平塚は、帝大卒業後は駿次郎と同じく官僚となり、平塚は陸軍省へ入省した。始めの配属先は軍務局の馬政課であったと聞いていた。その数年後、平塚が軍隊へと移ったとまでは駿次郎も風の便りで知っていたが、それから先はさっぱりだった。

「わざわざ帝都から派遣されたのか?」

「そんな遠くから来られるか。俺は今、熊本第六師団の騎兵連隊に籍を置いている。この長崎の騒ぎを軍として処理すべく、師団長御(おん)自らの御下命を預かってきたわけだ」

 日本各地にある師団のうちの一つ熊本に本拠を構える第六師団へ、左遷だか栄転だが配属されて、獣医でもある腕を見込まれて事の解決を命じられたわけだ。師団長の御下命は、すなわち天子様の御下命である。お国のためというわけだ。

「すでに長崎県の衛生課の連中には状況を聞いた。何としてもまん延を防いでほしいと懇願されたよ」

 誇らしげに語る平塚の態度は、駿次郎にも松之助にもいちいち癪に障るものがあった。

「長崎に来たついでに、大磯が何やら落ちぶれた稼業をやっていると聞いたから、こうして見に来た。立派なのは看板だけだな。中ものぞいてみたが、まあお粗末なことよ。あんたのお母様に尋ねると、ここにいると言われやってきた。のんきに猫など診てないで、お国のために狂犬病対策でもしているかと思えば、このありさま。笑止千万だな」

 のけぞって大笑いした。

「こんなやつ、相手にするな」

 松之助が駿次郎の腕を引いて、立ち去ろうとした。そんな二人に、平塚はさらに侮蔑の言葉を浴びせかけた。

「自分が情けなくなって逃げるのか。分からんこともない。俺もお前みたいに暇ではないからな。もう陽も沈んだ。これから行かねばならん所もある。また会おう。もっと落ちぶれた姿が見てみたい」

 駿次郎も松之助も、肩をいからせて歩き去っていく平塚の背中を、睨みつけるしかできなかった。


 四


 早川トメが初めて駿次郎と出会ってから、十日ほどが過ぎた。夫新吉のケガの具合は少しずつ回復に向かっているようだった。トメに咎められ酒をやめたのと、トメが少々値が張っても精を付けてもらおうと、栄養豊富な魚や野菜を買い、料理に盛り込んだ功が奏したのかもしれない。

 たまに新吉が酒に手を伸ばそうとすると、トメは何とかして瓶を取り上げる。かなり勇気がいる行為だった。新吉が怒鳴ると、すぐ察知したかのように飼い猫の小梅が二人の間に入ってきた。

 愛おしさに二人とも風に吹き飛ばされたかのように怒りが消えていった。

「ほら、新さん。小梅もやめてって言うてるやないの」

 小梅の鳴き声を勝手に解釈して新吉を黙らせるのも、トメの常套手段になっていた。トメにとって小梅は強力な味方だった。新吉もさすがに小梅の可愛さに負けて、諦めるばかりだった。

 勝手に解釈したとしても、正直二人とも「やめて。夫婦だから仲良くして」と言っているように聞こえてしまうようになった。

「はよ仕事に戻らんと、飯が食えなくなる」

 晩飯時、新吉がふと漏らした。つい最近からときおり新吉らしからぬ弱音を吐くようになっていた。

「そんな心配せんで良かとよ」

 トメは慰める。実際、家計はひっ迫していた。米も塩も買えなくなりそうなほど、家じゅうのお金をかき集めて、何とかやりくりしていた。

 お店では必ずと言っていいほど、腰を低くして値切っていた。なじみの店でも快く応じてくれていたものの、ここ二、三日は値切ると、さすがに店主の顔が曇りがちになってきた。まだ現実に嫌味を言われてはいないものの、いつそうなってもおかしくない状況にトメは恐怖感を持っていた。

 近所の人も店の人も新吉がケガをして、仕事に行けなくなっていることは知っている。「売れ残りで悪いけど」と野菜を持ってきてくれた野菜屋もいた。井戸端会議の仲間にも親切な人はいて、「お味噌足らんとやなかと?」とわざわざ分けてくれる人も一人や二人ではなかった。そんな近所の人々も決して経済的な余裕があるわけではない。トメもそれが分かっているからこそ、なおさら心苦しくなるのだった。

 鬱屈した日々を気長に新吉の回復を待つしかないと心に決め、つましい生活を送った。

「今日はよく晴れているねえ」

 ある朝、トメは玄関先に出て小梅に餌をやろうとした。小梅も慣れたもので、餌の時間が体内時計に仕込まれたらしい。まだ小さな体ながらも嬉しそうに駆け寄ってきた。

 無邪気に餌を頬張る姿に心慰められていると、後ろから新吉の声がした。

「毎度買い物で値切っているらしいな。小梅に餌をやるゆとりがあるなら、そんな貧乏くさいことはやるな。近所からもたくさんただで食い物もらっておいて、猫にそんなことしてる姿見られてみろ。お前には世間体というものがないのか。早川家の恥になる」

 振り返ると新吉は腕を組んで、玄関の敷居をまたぐように仁王立ちしていた。値切っているのを隠しているわけではなかったが、どこかで聞いたらしい。トメは言葉につまった。確かに新吉の言うことももっともだと思ったからだ。新吉から小梅に視線を移した。何も事情を知らない小梅はまだお椀に顔を突っ込んでいた。それが今はトメには痛ましい姿に見えた。

「新さんの言うことも分かる。でも小梅ちゃんも今まであたしたちに慰めを与えてくれたたいね。それば、恩を仇で返すような真似ばせろっていうとね?」

 必死の抗弁だった。

「お前は俺より小梅が大事っていうとか?」

 次第に口調が荒くなって、険しくなった雰囲気を小梅が察知しないわけがなかった。まだ少し残っている餌から二人のほうに目をやっていた。睨みあっている新吉やトメもそれは分かった。小梅はいつものようにか細い鳴き声を出しながら、二人の間に割ってきた。いつものように交互に視線を移す。

 新吉には苦手な視線だった。トメもいつもなら「小梅がこう言うとる」と説得したいところだったが、あまりに状況が深刻と悟り、何も言えなかった。

 消え入りそうなほど弱々しく小梅が鳴いた。今まで二人とも聞いたことのない鳴き声だった。悲痛という表現が最も当てはまるものだった。トメは小梅の気持ちが痛いほど分かるし、新吉に言わねばならぬと思いはした。それでも心のわだかまりを吐き出すことができず、うつむくばかりだった。

 小梅の訴えかける視線と鳴き声に、新吉も耐えかねたのか、

「俺の言うたこと、分かったな」

 と言い放って家の中へ引っ込んだ。

 トメは目に涙を溜めながら小梅に言った。

「ごめんね。あたしがかばいきれんばっかりに。でも心配せんで良かよ。これからもちゃんとご飯あげるけんね」

 新吉に隠れてでも餌をやる気持ちに変わりはなかった。果たしてそれがうまくできるのか、自信はなかった。どうやって新吉や近所の人の目をかいくぐって小梅に餌をやればいいのか、見当がつかなかった。新吉の言ったとおり、近所の人に見られるのも言われてみれば、不適切な行為だと思えた。「こっちもわずかな食べ物を分けてやっているのに、それを寄りによって猫にやるなんて」と思われるとどうなるか。

 小梅はほとんど家の中か、すぐそばにしかいなかった。遠くへ散歩に出かける様子もなかった。まだ幼いからかもしれない。家の中にはいつも新吉がいる。外では近所の目がある。どこでやればいいのか、途方に暮れた。

――何でもご相談に乗りますから、遊びに来る感覚でお越しいただければ。

 ふと誰かの言葉が脳裏をよぎった。

「ねこしゅんさんだ」

 トメの心に松ヶ枝橋そばで猫医者の看板を掲げている大磯駿次郎の名前と顔が浮かんだ。

「ねこしゅんさんに相談すれば」

 玄関先で突っ立ったままだったトメは、足元にいた小梅に、

「小梅ちゃん、大丈夫やけん。すぐ戻るけんね。待っとって」

と、言葉を掛けた。そして、転げ落ちんばかりに石段を下り始めた。路面電車の終点停留所の出雲橋電停まで来ると、あとは平らな一本道。残った力を振り絞って、一目散に走った。

 看板が見えてきた。間違いなく『猫医者 大磯駿次郎』と掲げられているのを確かめて、診療所の中へ駆け込んだ。

「ねこしゅんさん」

 それだけ言うと疲れも忘れて、たまっていた感情が一気に噴き出してむせび泣いた。恥も外聞もなく嗚咽する早川トメを見て、駿次郎は驚くどころの気の騒ぎではなかった。母の大磯ハツが作ったみそ汁で朝餉を済ませ、新聞に目を通していたところだった。

「どうされましたか。何があったのですか。まずは落ち着いて」

 そう言いつつも、自分が最初は落ち着かねばならないと努めて冷静に応対した。

 トメの気が静まるまでしばらく時間がかかった。泣きはらして、目を真っ赤にした顔をあげると、駿次郎は先日ここで中をのぞいていた女性だと気づいた。

「あー、あなた……」

「早川トメです。日の出町の」

トメは動揺も疲れも収まってきて、けさあったことを説明した。一方的にしゃべり、駿次郎に質問をはさむ暇も与えず、小梅を飼い始めてから、その後新吉がケガをして仕事もできないことなども加え、小梅に関する家庭内の事情は何もかも打ち明けた。

「旦那様がおケガをなされて、かなり生活が苦しいのですね。それで猫を飼いにくくなったわけですか」

 すべてを飲み込んだ駿次郎は、思案に暮れた。トメは悩む駿次郎の顔をすがる思いで見ていた。どれほどたったころか、実際にはほんの二、三分にしか過ぎなかったが、かなり悩みぬいたように見えた駿次郎が立ち上がった。診察室の戸棚に向かい、中から一つの瓶を取り出した。

「これは栄養剤です」

 と、瓶から薬包紙の上に粉状の物質を出しながら駿次郎は言った。

「これを麦か何かにほんの一つまみでいいですから、混ぜて与えてください。これならほんの少しの食べ物でも、十分猫に栄養が与えられます」

 十包ほど包み、トメに手渡した。

 受け取ったトメはその包みをじっと見つめていた。視線をあげて駿次郎のほうを向くと、

「これってお高いんでしょう?」

 と値段を聞いた。

「うーん。まあそこそこというところでしょうか」

 苦笑いで駿次郎は言葉を濁した。そして、

「お代は正直申しますと頂戴したいですが、早川さんの今の状況だととても今すぐ払えとは言えませんよ。ツケということにしておきますよ。値引きも致しますから、無理なさらない程度でお支払いください」

 駿次郎は優しく微笑んでくれた。

「ねこしゅんさん。ありがとうございます。必ずお代は払いますから」

 何度も頭を深々と下げながら、トメはまた急いで家に戻った。

 息を切らせながら家に戻ったトメは、早速、小さないりこ二つに粉を振りかけて小梅に与えた。

「待たせたね。もう大丈夫よ」

一安心と思っていた。

「どこへ行っていたんだ」

 また背後の新吉からきつい口調が飛んできた。

「ちょっと出かけてきただけです」

「どこへ。そして今、いりこに振りかけていたのは何だ」

 帰ったばかりのトメを新吉は早くも見つけていたらしい。おどおどしてどう答えてよいものか見当もつかなくなった。

「猫を殺す毒薬か?」

 まじめなのか分からない問いを発した。「毒薬」という非情な言葉に思わず反応してしまった。

「違います。ねこしゅんさんのところへ行っていたのです。松ヶ枝橋の近くにある猫医者さんのところです。そこでもらった栄養剤です」

 トメはしまったと思った。新吉のほうは唖然とした顔に変わった。それは怒りに満ちて、

「猫などを医者に診せたのか」

 新吉のあまりの憤怒にトメは身をすくませ、小梅をかばう姿勢を取った。

「お金も払ったんだろう? いくら払ったんだ」

「お金はまだ払っていません。すぐに払わなくてもいいと言ってくれましたけん」

 それで新吉の怒りが収まるわけもなかった。

「その猫捨てて来い!」

 新吉がついに最後通牒を切った。

「嫌です!」

 泣きながらの懇願だった。もはやトメにとって、自分の血のつながった我が子を捨てるも同然だった。

「捨てろ!」

「嫌です!」

 押し問答が続いた。いつもは弱いトメも、これだけは引けなかった。

 やがて叫び疲れたのか、新吉はこう吐き捨てて室内へ消えた。

「聞き分けのないやつめ。その代わりもう絶対に猫医者なんかへは行くな。行ったら離縁や」

 トメは小梅を抱きしめて悔し涙を流すしかなかった。


 五


 大磯駿次郎と二宮松之助は、長崎の本石灰町にある劇場・南座へ来ていた。ちょうど安来(やすき)(ぶし)の競演会が催されていた。のんきに劇でも見ている場合ではないと、駿次郎は気が引けたが、松之助が久々に大きな稼ぎがあったというので、袖を引っ張られるように連れてこられた。十五銭の入場料もおごってやるという。

 繁華街でもあるこの地区は、人の往来も激しく、この劇場の中も満員で熱気がこもっていた。今か今かと開幕を待ちわびる人々もみな興奮しているようだ。隣の席の松之助もめったに公演には来られないため、期待に胸が高鳴っているのが駿次郎にも分かった。

 演目は萬歳に安来節、追分、都々逸、尺八と豪華勢ぞろいであった。萬歳は二人が舞台に立ち、片方の言う駄洒落をもう片方がたしなめるような演芸だ。安来節とは三味線、笛、太鼓の伴奏に合わせて、どじょうすくいを踊るもの。都々逸や尺八も二人の大好きな芸であった。

 公演中、二人は時間を忘れて演技に魅了された。盛大な拍手とともに、松之助は囃子言葉まで叫んでいた。

「いやあ、良かった良かった」

 興奮も冷めやらねまま、南座を二人が出る頃にはもう陽が暮れかかっていた。

「まっちゃんのおかげで今日は楽しかったよ。今度来るときは俺がおごるけんね」

 駿次郎は心から感謝した。お礼にせっかく繁華街まで来たのだからと、何か食事か飲み物でもおごろうかと考えていた。思案橋電停に向かって歩きながら、適当な店がないか首を左右に動かした。

 すると軍服姿の男が、警官やほかの数人と話し込んでいる光景が目に入った。軍人と警官以外の男たちも洋スーツにネクタイをしめていたので、役人であろうと見当を付けた。

 駿次郎は軍服の男に注目した。

「ねこしゅん、どうした」

 途中で足を止めた駿次郎に松之助が訊いた。

「疲れたけん早う帰ろう」

 松之助はせかしたが、駿次郎が返答しないので、何を見ているのだろうと視線の先を追った。松之助はすぐに気づいた。

「あいつ平塚ってやつじゃなかったか? ねこしゅんの同期とかいう」

「どうやらそのようだね」

「なんばしよっとやろか?」

 駿次郎と松之助、二人にじっと見つめられていたためか、平塚もこちらの視線に気づいた。話しをやめ、平塚は二人に近寄ってきた。

「大磯、こんなところで何しているんだ」

 と言い、南座の建物を見上げた。

「まさか、仕事さぼって演芸見物でもしていたか?」

「さぼるとは何だ!」

 短気な松之助が食ってかかった。以前の初対面での傲慢な態度で、すっかり毛嫌いしているようだった。またも駿次郎は制した。

 平塚は不敵な笑みを浮かべ罵った。

「いいご身分だな。こっちはお国のため、市民のために働いているというのに」

「お国のためということは狂犬の事件に関係ある仕事のようだな」

 駿次郎は、ここが先日新聞で騒がれた事件の舞台、少女が犬にかまれた本石灰町であることを思い出した。

「帝大卒だけあって察しはいいな。その通りだ。今、巡査と県衛生課の連中と一緒に、この付近の犬の様子を調べまわっていたところだ。狂犬の症状らしき犬がいれば、飼い主に犬へ予防注射を受けさせたかなど問いただそうと思っている」

 このあたりに狂犬病がはやっているか分からないが、はやる危険性があることだけは間違いなかった。現実に駿次郎が読んだ新聞にも、この町で少女をかんだ犬は狂犬病の疑いがあると書いてあった。

「調べてみて必要となれば、予防注射を受けさせる措置をとるわけか」

 駿次郎は昨年の大正十一年に公布された『家畜伝染病予防法』の条文を、頭に思い浮かべた。

「まず避けられないと見ていい。狂犬病は人にも伝染する危険な病気だからな」

 平塚の言う通り、狂犬病は動物から人にも感染する人畜共通感染症である。狂犬病の場合、病気の犬にかまれると、犬の唾液に含まれる狂犬病ウィルスが人のかまれた傷から体内に侵入して、致命率ほぼ一〇〇%の急性脳炎などを引き起こす恐れもある。

 炭疽(たんそ)(牛、馬などの激しい腹痛や突然死の病)、(とん)丹毒(たんどく)(人や家畜に感染して、高熱や皮膚疾患をもたらす病)などとともに家畜法定伝染病の一つとして、『家畜伝染病予防法』指定の伝染病とされている。

この法律には狂犬病を発した犬が出た場合、飼い主や診断した獣医などは、ただちに警察や家畜防疫委員に届け出なければならない。そしてその機関の指示に従い殺処分しなければならないと明記されている。

 平塚の今おこなっている調査も、この法律に基づくものだ。調査の結果により、地方の長官が必要と認めれば、飼い主や所有者に対して、家畜に予防注射などを受けさせる義務を課すことができる。

「もう俺は必要措置をなすよう知事に進言しようと決めている。今日もこの近辺を広く回り、多くの犬の飼い主に質問したが、狂犬病の予防注射をしたものなど数えるほどしかいなかった。まん延するのは時間の問題だぞ」

 平塚の表情は険しかった。

「大磯。のんきに猫など診ている場合ではない。今からでもいいから獣医の端くれなら、お国のために力を貸すべきだ」

 とてもお願いするような態度ではなかった。

 駿次郎は何も答えなかった。真剣に平塚と視線を合わせるだけだった。平塚と話して、駿次郎も松之助も事態が容易ならざるものであると十分理解できた。松之助も駿次郎の横顔を困惑気味にのぞきこんでいた。

「ねこしゅん、どうするんだ」

 たまらず松之助は尋ねた。それはもう、手を貸すべきだと言わんばかりだった。

「具体的に何をすればいいんだ」

 しばらく無言が続いた後、とうとう駿次郎は平塚へ決意を表明した。

駿次郎には、心の中にはお国のためとの思いはあっても、報酬や忙しくなることへの煩雑さは全く念頭になかった。一時的に手を貸すのみで、終息が見通せたら猫医者稼業に戻るつもりだった。たとえ平塚から今後のことを頼まれても拒否し、猫医者を辞めるなど露ほども頭になかった。

 平塚の口の端が緩んだ。説得が功を奏したとほくそ笑んだようだ。

その顔に駿次郎は、平塚から今後抱き入れられて、あれこれ彼にとって面白くない役回りを押し付けようとする魂胆があるのではないか。自身の考えとは正反対な策略を感じとれずにはいられなかった。

「まずは明日の朝、県庁の衛生課に来い。六時だ。待っているぞ」

 平塚は返事も聞かずに、そばで待っている警官たちのところへ戻っていった。

「なんかひどかことに、なりよるな。お国のためには仕方なかばってん。あんなやつの使いっぱしりにされるばい、きっと。ねこしゅん、それでも良かとか?」

 思案橋から路面電車に乗っている途中、松之助はそればかり心配していた。

「仕方なか。家で本ばっかり読んどっても何にもならん。誰も診せに来んとやったら、手を貸すのが獣医としての義務やろ」

 駿次郎は伏目がちに言った。声にも顔にもハリがなかった。

 言葉に嘘はなかった。どんな生活をしていようとも獣医である以上、尽くす義務がある。誰にでもできることではない。

 母さんのためにもなる。そうも思っていた。母ハツもお国のためと言えば、喜ぶに違いない。ただその後、狂犬病騒ぎが落ち着いて、猫医者稼業に戻れば決していい顔をするはずもなかった。ほんの一時の親孝行では、ハツの不満は解消されまい。再び冷えきった関係が続くことになろう。

 松之助はもう何も聞かなかった。無言のまま、電車は松ヶ枝橋電停に着いた。


 六


 日の出町で、子猫の小梅とともに暮らす早川新吉トメ夫妻は、ケンカこそしないものの、険悪な雰囲気の中にいた。トメが小梅に餌を与えても、新吉は何も言わなかった。

「勝手にしろ」と以前のケンカで言われたとおり、これまでと変わらず小梅を世話するトメだった。餌には当然、駿次郎からもらった栄養剤の粉末を混ぜていた。

 険悪な雰囲気と知ってか知らずか、小梅も今まで通り、トメはもちろん新吉にも甘えてきた。新吉は追っ払うような真似はせず、撫でてやってはいた。言葉こそかけないが、トメには、新吉も小梅に対して全く愛情がないわけではないと、心が少し安らいだ。

 餌はもっぱら家の中でやっていた。新吉が言ったように、近所の人から見られると、やはりまずい思いを抱かれるのではと、トメもそれだけには同意していたからだ。

 ある昼前の時間、昼餉の準備をしていると、何かが唸っている声が聞こえた。その声はずっと前からときどきトメが耳にする声だった。野良猫たちのケンカの唸り声だ。長崎は猫が多い。大浦地区は市内でも特に多い地域だった。

 また猫のケンカね、と唸りを聞き流していた。ねぎを切っていたが、その手が止まった。急にとてつもない不安がよぎった。家の周りを見渡してみた。

「小梅ちゃーん」

 姿が見えない小梅は今、何をしているのか。トメは庭先に走り出た。

 唸り声が悲鳴のような叫びに変わった。トメのすぐ近くである。急いで表の路地に出ると、小梅が犬に追われて逃げていく姿が見えた。

「コラ!」

 精一杯の声をはりあげながら、足元の石を投げつけ、犬を追っ払った。トメの一喝に小梅を追おうとしていた犬は驚いたのか、あらぬほうへ逃げていった。

「小梅ちゃーん」

 トメは、小梅の逃げていったほうへ駆けだした。石段を少し上がり、もう一度声をはりあげて呼んだ。

 奥まった石垣の根元に気配を感じた。そっと近づいてささやくように、

「小梅ちゃん」

 と呼びかけた。

 数秒待っていると、石垣の根元の草陰から小梅がわずかに顔をのぞかせた。トメはすぐに小梅を抱きしめた。

「よかった。ごめんね、放ったらかしにして」

 泣きながら謝った。しばらく抱きしめた後、傷を負っていないか、体中を見回した。血も出ていないようで、何のケガもなさそうだった。

 完全に安心したトメは、再び小梅を抱きしめ、「ごめんね、ごめんね」を繰り返すばかりだった。

 家に戻ると、新吉が不機嫌そうに卓袱台に座っていた。

「昼飯はまだか」

 と怒りを含んだ声を掛けてきたが、小梅を抱きしめたままのトメがいつもと違う様子であるのを感じ取ったようだ。途端に新吉の顔から不機嫌さは消えたが、何も聞こうとはしなかった。

「すぐに用意します」

 今の出来事を新吉に話しても意味はない、と普段通りを装い卓上に汁物などを並べていった。

 その後も、気まずい雰囲気ながら日々を何事もなく過ごしていた。いつものように小梅に餌をやろうとした。駿次郎からもらった栄養剤はもうなくなっていた。

「はい、ご飯よー」

 と小鉢を差し出すが、小梅はいつものように駆けよっては来なかった。

 トメは不審に思った。栄養剤がなくなったから元気がなくなったのだろうか。またもらいに行きたいが、まだもらった分の代金は一銭も払ってはいなかった。この状態でさらにせびるのは、いくらねこしゅんさんが心優しかったとしても、とてもできることではない。ねこしゅんさんも人の子、怒らないとも限らない。

 そのうえ、新吉の目もある。猫医者には二度と行くなと、くぎを刺されている。再度行ったことが知られたら、トメ自身も小梅もどうなるか分かったものではない。新吉はあの最後のケンカのとき、捨て台詞で「離縁」まで口にしている。単なる脅しなのか、本気で言ったのか。

トメの心配をよそに、小梅はほんの少し口をつけただけで、卓袱台の下にもぐり座り込んだ。丸まって座るしぐさだけ見れば、何の異変も感じ取れなかった。

小梅の食欲は日に日に衰えてきた。しまいには何も口にしなくなった。トメは駿次郎のところへ行かねばならぬ思いに駆られた。

「新さん。小梅のことだけど」

 ある日の夕食時、おずおずと新吉に小梅の状態を話した。小梅も新吉も始終家の中にいるため、新吉も小梅の不調は知っていた。それを承知でトメが相談しようとしたのは、猫医者に行く許しを得たい願望からだった。

 夕餉を口にしながら、新吉はトメを刺すような目つきで見た。トメは思わず身がすくんだ。次の言葉が出せなくなった。顔を伏せて、上目遣いで新吉をもう一度見ると、彼の視線は小梅に向かっていた。

「小梅がどうかしたとか?」

 しらばっくれた、温かみの全く感じられない声だった。

 しばらく黙り込んだ後、おののきながらトメは言った。

「最近元気がなかと。ご飯も全然食べんごとなったとよ」

「寿命じゃろ」

 にべもない新吉の答えだった。

「治らんじゃろか」

 トメは決して寿命などとは考えなかった。治るものと強く確信していた。治してまた元気になってもらいたい思いがこの発言をさせた。

 この一言で新吉はトメの真意を感じ取った。

「猫医者に行きたかとか言うんじゃなかやろな」

 じろりとにらまれた。

「猫ごとき獣を医者に診せるバカがおるわけなかろうが」

 次第に口調が強くなってきた。このままではケンカになるだけだ。そう思うと、トメはこれ以上もう何も答えられなかった。

 その夜、いつもは卓袱台の下で座布団を敷いて寝る小梅を、トメは自分と同じ布団に寝かせた。何度も何度もさすってやった。小梅は目を閉じたまま、身じろぎもしなかった。普段なら鳴らす喉の音も聞こえなかった。

 いつのまにか寝てしまい、はっと気づいた。時計が何時を指しているのか、すぐ目の前で苦しくあえぐ息づかいに目覚めたのだ。小梅だった。呼吸するにも苦しいのが痛いほど分かった。

「小梅ちゃん。小梅ちゃん。しっかり!」

 横で新吉が寝ているのも構わず、必死に大声で励ました。

「何したとか」

 目を覚ました新吉が寝ぼけ気味に訊いた。

「小梅が苦しそうにしよるんよ」

 新吉は何も言わなかった。さすがに「放っておけ」というのは良心が咎めたか。

「早うねこしゅんさんに診せんばいかん」

「猫医者には……」

「なんと言われても行きます! 離縁したければしてください。小梅を死なせたりできん」

 初めて夫に逆らったトメであった。

 トメの思わぬ反抗に新吉はひるんだが、

「ダメや! どこにそがんお金があるとや!」

 トメは意地だけで戦った。

「新さんだって、小梅にどれほど癒されてきたか分かるやろ? あたしたちの子供やろ? 子供ば見捨てる親がどこにおるね!」

 トメは小梅を掛け布団にくるんで、家を飛び出していった。胸もとの小梅にずっと声を掛けながら。

 東の空が明るくなりかけていたが、トメの視野には入っていなかった。


 七


 その頃、駿次郎はもう起床して、県庁に行く支度をしていた。午前五時過ぎであった。

前の晩に帰宅してから、母のハツに事の次第を話すと、とても喜び、

「そのまま県庁に入れれば良かとに」

 と、まだ息子に対する官途への未練を残していた。

「あのとき来なさった平塚さんいう軍人さんやろ。駿次郎の同期って聞いたけん、もしかしたらお役人さんへ取り立ててもらえるかもしれんよ。お願いば、してみんね」

 平塚は松ヶ枝橋で松之助と語り合っていた駿次郎に会う前に、この診療所でハツに会っている。平塚自身が松ヶ枝橋で話したとおりだ。

 母の懇願に駿次郎は戸惑った。すがればなれるというものでもないと思ったが、役人に復帰すれば親孝行というものだろうし、ハツも駿次郎に対する態度を変えるだろう。

 駿次郎は帝国大学卒業後、農商務省へ一度は任用された。しかし官僚の世界に嫌気がさし、二度となるものかと決心して下京した。官僚の市民に対する傲慢な態度。まるで自分たちだけが国家を動かしているかのような過剰な自尊心。

 ハツの苦労と自分の生き方を天秤にかけ、何年も悩んできた。辞めたときに初めて辞表を書いたわけではない。辞表を胸に上役のすぐ前に何度立ったことか。スーツの内ポケットの辞表に触れるたび、母の顔が浮かび引き下がった。

 あのときの決心は今でも少しも揺らいでいない。今すぐにそれを母に話す必要はないと思った。狂犬病騒ぎで一仕事した後でもいい。そのときにじっくりと、できることなら納得してもらうまで自分の思いを伝えよう。

「よう、ねこしゅん。今日は早いね。県庁にはどうしても行くとか?」

 玄関先に松之助があらわれた。すでに商売道具の人力車を引いていた。その顔には何となく不安がにじんでいるように見えた。

「ああ。六時に来いって言われたけど、まだもうちょっとおってもよかろう」

 努めて朗らかに答えた。

「ねこしゅん。あんまり頑張りすぎるなよ。役人のすることは役人に任せておけば良かさ。要らん口出しして、怒らしたらたまらんからな」

「分かっとる」

 駿次郎が見る限り、こうやり取りしてもなんとなく、松之助の顔から不安な様子は消えないようだった。自分が傲慢な平塚の下で、人づかい荒くこき使われるのが気の毒に思えるのか。母のハツではないが、役人に舞い戻ってしまうとしたら、どう思うのか。

 松ヶ枝橋の上で語り合ったとき、「猫医者になるのは構わん」と松之助は自分の生き方を認めてくれた。案外、自分が猫医者のままでいてほしい、と思っているかもしれない。

 松之助は立ち去ろうとしなかった。何か言いたいことがありそうだった。

「朝飯は食ったのか?」

 駿次郎は問うた。

「まあな」

「もっと食いたければ、ここで食っていけば良か」

 そう言って母を見た。ハツも、

「松之助さん、駿次郎の言う通り遠慮せんで良かけん、食うていっても良かとよ」

 と勧めた。

 少し悩んで松之助は言った。

「じゃあおにぎりば貰えますか。あるんやったら、一個良かですか?」

「すぐ握ってあげますけん。そがんとこおらんで中に入らんね」

 ハツは診察室と自宅の和室の間の上がりがまちに座るよう促した。車を置いて、遠慮がちに松之助は言われるままにした。

「なんか心配事でもあるとか?」

 松之助が座ると、ハツに聞こえないように駿次郎は訊いた。

 彼は言い出しにくかったのか、口ごもった後、思い切ってボソッとつぶやいた。

「猫医者ば辞めるとじゃなかとか?」

 駿次郎の図星だった。松之助の不安に駿次郎は大笑いした。

「ハッハッハッ……。そがんこと心配せんでよか」

 と言って、ハツの耳の届かないよう声をひそめて、

「母さんは役人に戻る機会にならんかと期待しとる。正直言うと俺も孝行はしたい。親孝行は子の義務みたいなものやけんね。でも役所ば辞めるときもう決めたとよ。一生猫医者で食っていこうって。猫医者で親孝行できると信じとるんよ。役人には絶対戻らんと決めたことに変わりはなか」

「そうか。ねこしゅんの生き方は自分で決めんばいかんことや。俺が口出しできるものでもなし、親孝行も大事って俺もしつこく言うたばってん、自分の人生は自分を一番にせんといかんけんね。実は俺もねこしゅんは猫医者が役人より似合っとると思うとるよ」

 松之助は少し安どしたのか、軽く微笑んだ。

「はい、松之助さん。熱かけん気を付けてね」

 ハツが戻ってきたので、これ以上話せなくなった。おにぎりとともに茶も一杯差し出した。

「いただきます」

 松之助はがぶりついた。わずかに心配の種が消えたことで、元気が出たのか豪快な食いっぷりだった。

「もう行かんといけんとじゃなかと?」

 松之助が食べ終わると、ハツが駿次郎に登庁を呼び掛けた。駿次郎は気分が重かったが、仕方ないと忘れ物がないか、身支度は整っているか見直した。

「行くんか? 俺も駅まで行くけん、近くまで乗せてってやるばい」

 松之助も立ち上がって、ごちそうになった礼としてハツに頭を下げた。

「駿次郎、平塚さんへ必死に頼み込まんばよ。役所に戻れる一生で最後の機会かもしれんけん」

 ハツの再度の懇願に、駿次郎は小さく頷き、松之助と目を合わせた。

 そのときだった。

「ねこしゅんさん!」

 早川トメが猫を抱いて駆けこんできた。途中で下駄が脱げて裸足になっていた。

「ねこしゅんさん、助けてください。小梅が苦しんでるんです」

 駿次郎はとっさの出来事に戸惑った。同時に母ハツの顔色をうかがった。母も何が起きたのか理解できないような顔つきだった。しかし、その表情はすぐに駿次郎へ向かって、どうするんだと問うものになった。

駿次郎は逡巡した。もう行かねば六時に県庁には間に合わない。目の前には生死をさまよう猫がいる。

また母の顔を見た。心の中で謝った。駿次郎はいったん手に持った荷物を床におろし、小梅を抱きかかえた。外傷がないのを確認すると、診察台へ寝かせた。小梅はすでにぐったりしていた。

「駿次郎、早よ行かんと!」

 猫の世話をしてる場合ではないと、ハツは必死だった。

「母さん。悪かけど、命の危険のある猫さんが来た。俺は見捨てるなんて真似はできん」

 駿次郎はハツにもう一度、憐れみと申し訳なさを込めたまなざしを向けた。ハツは驚いた顔のまま、それを受け止めた。

 駿次郎は小梅の診察を始めた。

「いつ頃からこのようになったのですか」

 問診に、乱れた息が静まってきたトメはここ数日の様子を事細かに話した。そして、

「この前、犬に追いかけられて、逃げ回ったんです。ケガはなかったように見えたんですが」

 と、原因かもしれないと思い当たることも付け加えた。

 問診をしているさなか、母のハツは奥へ逃げるように引っ込んだ。その奥から鼻をすする音が聞こえてきた。駿次郎には忍び泣いている母の姿が、目に見えるようであった。胸に来るものをしいて抑えて、診察を続けた。

 松之助も自分の仕事のことなど忘れて、駿次郎を見つめていた。ハツの忍び泣きも分かっていた。

「心臓が衰弱しているようです」

 駿次郎が診断を下した。

「犬に追われたことも原因と考えられます。心臓に異常な量の血液が入り込んだために、膨張してしまった可能性があります。一気に入り込んだ血液をすぐに排出できなかったからでしょう」

「助かるんですか」

 トメは胸の前で合掌して、見守っていた。

「全力を尽くします」

 駿次郎は今はそれだけしか言えなかった。

「心臓衝動剤を注射します」

 薬品棚から一瓶取り出し、注射器の用意をし始めた。瓶から液体を取り出しながら、トメに説明をした。

「これは樟脳(しょうのう)油という薬品です。クスノキの幹や根っこなどから作ります。カンフル注射というのを聞いたことはありませんか。強心剤の一種ですが、それと同じような成分です」

 注射の準備が整うと、

「まっちゃん。手伝ってくれ」

 と親友のほうを向いた。

「体を支えてくれ。……そう、じゃあじっとそのまま」

 駿次郎は、診察台に腹を上にして寝せた小梅の胸あたりに注射針を差し込んだ。

 注射を終えても小梅に変化は見られなかった。

「これで大丈夫だと思います。しばらく様子を見ましょう。今は安静が必要です。数日間は栄養豊富な食事を与え、安静に過ごさせる必要があります。この前よりももっと滋養豊富な栄養剤を与えましょう。明日の朝まで、小梅ちゃんはここで預かります」

「よかった。ありがとうございます」

 トメは小梅を撫でながらまた涙した。

 夜は完全に明けきっていた。診察をしているうちに六時をとっくに過ぎていた。

 表の通りを路面電車が走った。その動力音に勝るとも劣らない馬のひづめの音が轟いてきた。

「大磯! 何している!」

 馬を降りるなり、平塚が怒鳴りこんできた。

「見て分からないか。猫の診察と治療をしていた」

 駿次郎は動じなかった。平塚は怒りで顔を真っ赤にして、地団駄を踏むように言った。

「俺は知事に、けさ帝大卒の獣医が来るからご安心を、と申し上げたばかりなんだぞ。反故にされて、俺のメンツは丸つぶれだ」

「約束を破ったことは謝る。ただし目の前に瀕死の猫が来たのだ。猫医者としてそれを見捨てるなどできないだろう。これは人間の医者と同じことだ」

「猫一匹とお国のためのどちらが大事か分からんか!」

「どちらも大事だ。だが俺の本業は猫医者だ。猫を助けないでそれが名乗れるわけがない。どちらも命にかかわること。命に優劣などない」

 堂々とした駿次郎の態度に、平塚は多少圧倒されたが、引くわけにもいかなかった。

「せっかく仕官の道を開いてやろうと思っていたのを」

 それが本当かどうかにわかには信じかねた。駿次郎は自分のメンツを立てるための狂言であるのではと疑った。「仕官」と聞いて母のハツも飛び出してきた。

「今からでもお願いしなさい。駿次郎」

 それから平塚のほうにも、

「平塚さま、どうか駿次郎を役人に取り立ててくださいませんか」

「やめて、母さん!」

 駿次郎がハツの懇願をさえぎった。平塚も端からその気がなかったように言い放った。

「もはや役人になど取り立てようなど思わんわ! 天子様の官吏どころか、獣医の風上にも置けん! 恥を知れ!」

 駿次郎は当然のことと思いつつも、完全に官途が閉ざされたことにわずかであれ、ショックを受けずにはいられなかった。

ハツも呆然と突っ立っていた。

――と、ハツは突然表に走り出し、『猫医者 大磯駿次郎』の看板を地面に叩きつけた。木製の看板は割れはしなかったものの、通りの土ぼこりをかぶったそれは、駿次郎に初めて本当の深い親心を思い知らせるに十分だった。

「一生猫でも診ていろ。お前に頼んだのが間違いだった」

 平塚はハツなど見向きもせずに表に出、馬に乗って走り去った。

 早川トメはその間、事情はよく理解していなかったが、大体の察しはついていた。自分が猫を持ち込んだばかりに、ねこしゅんさんをひどい目に合わせた。何か詫びねばならないような気はするけれど、発すべき言葉が全く見当たらなかった。

「あんた、誰ね?」

 松之助が場違いな声を外に向かって発した。みんなが一斉に声の先を見ると、トメの夫である早川新吉が隠れるように佇んでいた。

「新さん」

 トメが夫へ駆け寄った。

「どうしてここが分かったの。何でここに来たと?」

 新吉は戸口の外に立ったまま、

「お前が前、言いよったやっか。松ヶ枝橋の猫医者って」

 と、いくじのない子供のように言った。駿次郎には新吉がなんとなく面目なさそうにしているように見えた。

「旦那さんですか」

 駿次郎はトメに訊いた。トメが肯定すると、駿次郎は新吉に中へ入るよう勧めた。始めは渋っていたが、執拗に促すとまるで罪を犯した人のように、恥ずかしそうに入ってきた。

 新吉は黙ったまま小梅の傍らに来た。そして撫でるでもなく、じっと見つめていた。

「もう大丈夫ですよ」

 駿次郎が笑顔で言っても、表情に変化はなかった。

「新さん。ホントは小梅が心配でここに来たとやろ? 撫でてやらんね」

 トメが新吉の手を取り、小梅の体に乗せた。小梅は目を閉じたままだったが、新吉はゆっくりとさすり始めた。

「ねこしゅんさん。新さんは猫医者など行くなと、猛反対したとです。それでもあたしは小梅の命を守るため、それだけを胸にここに来たとです」

 そして新吉を見た。

「新さん、あんな猛反対しても普段から小梅に愛情を持っとったとは、あたし分かっとったよ。今ここにいるのが何よりの証拠たい。反対したとは、お金がかかるけんじゃなかと? 心では医者に診せてでも小梅を助けたかったとやろ?」

 しばらくじっとしていたが、本心を表に出して、新吉は小さく頷いた。そしてしゃがんで、小梅を撫でてやった。目から涙がこぼれていた。

「トメ、小梅もすまんかったのう。俺もケガして医者に診てもらって治りよる。それなのに、小梅を放って自分だけが治るなんて、俺は冷たか人間ばい」

「何ば言いよるとね。こうして来てくれただけでも小梅は喜んどるよ。お代はあたしも働くけん、一緒に貯めてねこしゅんさんに払えば良かとじゃなかと? それで良かでしょか? ねこしゅんさん」

 夫婦の会話を、駿次郎も松之助もハツもじっと聞いていた。松之助は情にもろいのか、夫婦の猫を思う気持ちにもらい泣きしていた。

 急に代金を聞かれて駿次郎は戸惑った。本当は診察に注射などの治療費、それにひと晩の入院費など合わせて三円はとりたいところであった。だが、一升(約一・五キログラム)分の米が三十七、八銭ほどの時世を考えると、トメ夫妻に支払いを求めるのは酷に思えた。はっきりした収入は知らないが、いくら夫婦が共に働いて、生活を切り詰めたとしても、払える額はわずかなものであろう。

「診療代はお気持ちだけで十分です」

 周り一同、駿次郎を驚きの目で見た。特にハツの驚きようは異常だった。

「なんば言いよるとね、あんた。びた一文取らんでどがんして生活するとか!」

「母さん。本当に底なしの親不孝者で申し訳ございません」

 駿次郎はハツに向かってこれ以上下がらないほど頭を下げた。

「困っている人を助けるためなら何だってしたいのがボクなんです。そのためには自分がどれほど『親不孝者』と蔑まれようと構わない。もちろん自分の飯くらい自分でまかないます。身勝手ですけど、許してください」

 もう一度頭を下げた。ハツは返事もせずに、失望したのか静かに奥へと消えた。泣く声は聞こえてこなかった。

「ねこしゅんは優しすぎるとさ。じゃあもう俺は行くからな」

 松之助が仕事に行った。

 新吉トメ夫妻も明日の来訪を約して、感謝に感謝の言葉を重ねながら帰っていった。

 翌朝は気持ちのいい春の日差しがさしていた。意識を取り戻した小梅と、処方された栄養剤を胸に新吉とトメが外に出た。

「本当にありがとうございます。恩に着ます。必ずお代は支払いますけん」

と、何度も礼を述べる二人を見えなくなるまで見送った。

「あれ?」

振り返って屋内に入ろうとすると、駿次郎の目に入ったのは、きちんと軒にかけられている『猫医者 大磯駿次郎』の看板だった。昨日ハツに叩き落されて以来、元に戻す気にもなれず、そのままにしてしまった。

「誰か戻してくれたとやろか?」

看板をよく見るときれいに拭きあげてあった。通りすがりの人が戻したとしても、ここまではしないだろう。

適当な人が思い当たらず、松之助あたりだろうかと推測しながら戻ると、

「ミルクキャラメルば、もろうたけん、置いとくけんね」

 と、ハツが診察台の上に投げるように置いた。

 近頃登場した、まだ一度も口にしたことのない珍しいお菓子だった。

「こがん珍しかもの、親不孝者にやりとうなかばってん」

 笑顔の片鱗も見せないハツであったが、診察台の上には三箱ものミルクキャラメルがあった。

―了―


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