02.プロローグその2 ヒカルの世界は……
北畠光は、15歳の高校一年生。
物心がついたときには父親はおらず、母一人子一人で生きてきた。
小さい頃、彼は母に父のことを聞いた覚えがある。
だがいつもは明るい母が、珍しく悲しく寂しそうな顔をしたので、それ以来聞いたことはない。
母の名は北畠沙也加39歳。
シングルマザーながら、製造機器メーカーの研究所に勤務している。業界の一部では、かなり知られたエンジニアらしく、大学の臨時講師も受けていた。
自分の稼ぎだけでヒカルを育ててくれた母。子供の彼から見ても十分に立派な親だった。
とは言え、ヒカルは自身で気づいていたが反抗期で、そんな立派な母を尊敬しながらも、ちょっとした彼女の言動が癇に障る年頃だった。
自分の稼ぎだけと言ったが、貧乏な思いをしたことなどは一度もない。
それなりに稼げる女(沙也加談)である母親。そして母の仕事柄なのか、機械系の怪しい物体が家のいたるところに存在する環境の中で育った。ヒカルが8歳のとき、東京都台東区谷中にあった古い民家を購入し、二人でリノベーションを行った。
二人で住むには広すぎる家だったが、大きなサーバーがある部屋や、旋盤やフライスなどを置いてある加工室など。ヒカルはオモチャ代わりに、危ない金属加工をさせられたものだった。
あと、大っぴらにはしていないが、母の兄でヒカルにとっては伯父にあたる人、北畠将人は国会議員である。そして、その将人伯父と沙也加の父であり、ヒカルが生まれる前年に亡くなった祖父も政治家で、総務大臣にまでなった人だった。
この将人伯父は、常に眉間にシワを寄せた不機嫌そうな顔つきで、周囲はやりづらそうにしているが、妹である沙也加にはなぜか弱い。
日頃から沙也加に、なにかと文句を言われているのか、会うとさらに嫌そうな表情を見せる。でもこれは、機嫌が良いときの感情の裏返しなのだと、ヒカルが理解したのはつい最近のことだ。
母である沙也加には叔父がいる。13年前に事故で亡くなった沙也加の母親。ヒカルの祖母だが、その祖母の弟にあたる常守徹だ。沙也加が徹叔父さんと呼んでいたので、ヒカルも同じく徹叔父さんと呼んでしまっている。
この徹叔父さんは、将人伯父の事務所に席をおいていた。何をしているのかヒカルは知らないが、元警官で、しかも公安だったらしく、聞いても何も教えてはくれない。
ただヒカルの世話を焼くのは好きなようで、機械に囲まれていた彼に「何かあったときのために」と、6歳のときから剣道を教えてくれるようになった。
徹叔父さんは、67歳でも髪はフサフサで白髪頭。銀縁のメガネをかけている。「ぷっくり」と太っている体型は、某漫画での「バスケの先生」を思わせる。
だがふだんの見た目とは異なり、剣道の腕はかなりのもので、たまにヒカルは警察の剣道場に連れていかれると、現役の警察官を相手に圧倒している姿を見せつけられる。
正直剣道がそれほど好きではなかったが、徹叔父さんのおかげで、中学の剣道部では全国に行けるほどの腕前になれた。
でもそれでヒカルの剣道は終わり。中学卒業とともにやめて、続けてはいない。やめた理由は特になく、単純に「やる意味」を見い出せなかったからだ。
徹叔父は、べつに何も言わなかったが、あるときヒカルにボソッと呟いた。
――あの人は、私の本気の打ち込みを素手で受けた人でしたよ――。
「あの人」が誰なのかヒカルには分からなかったが、聞きもしなかった。
家から通える距離にある高校へ進学すると、手持ち無沙汰になった彼は、近所のカフェでバイトをはじめた。
谷中にある『岡倉天心記念公園』の近く。古い建物を改装したオシャレなカフェだった。
台東区谷中には観光地として有名な『谷中銀座』がある。外国人のツアー客も多くいて、目に入る8割は観光客と言ってよいほどだ。
今日のカフェも観光客が多く、朝から繁盛している。たまに仕事に煮詰まった母も一人で来るが、ウンウンと唸っており、他の客に迷惑だ。
母は実年齢よりもかなり若く見られるのか「母」だとオーナーの奥さんに言ったら、ビックリしていた。奥さん曰く。20代でも十分通用するらしい……。
ヒカルがカフェでバイトをしていると、奥の席に座る短髪の女の子が手を元気よく上げて叫ぶ。
「ヒカル――! 紅茶とスコーンちょうだい♪ 生クリーム大盛りで!」
「はい……」
ヒカルは女の子の注文に、そっけなく答える。その態度を見て彼女は頬を膨らましながらさらに言う。
「あっ――! お客さんにそんな態度は良くないと思いますぅ~!」
「それは申し訳ございません……」(ヒカルはイラッとジト目)
「わかればよろしい♪」(女の子は満面の笑み)
女の子は、ヒカルと同じ高校のクラスメートで「秦美波」。
目がクリっと大きく、チョコチョコとよく動き回る短髪少女。運動大好きで、ヒカルが思うに、見るからに陸上推薦で入学してきたような奴だった。ちなみに、ビジュアルが良いので学校では人気がある。
ヒカルがバイトしていることを彼女に教えたら、ちょくちょく邪魔しに来るようになったが……。
「こいつ陸上の練習はちゃんとしているのか?」と、ヒカルは思う。
「クラブ活動はどうした?」
ヒカルは、思ったことを口に出して聞いてみた。
ミナミは「ん? 休みだよ」と答えた。
「お前……先週も同じこと言ってなかったか……」
ヒカルの言い返しに、ミナミは「はん?」っていう顔つきをする。
「あぁ……先週は体調が悪かったからの休みで――。今日は普通に休みだよ」
「そうなのか?」
ヒカルはジト目でそう口に出すと、ミナミが反論する。
「あ――っ! 疑ってるな――。実社会と同じでちゃんと大会で結果を出してればガッコもそんなにブーブー言わないって。それにさぁ、体調悪いのに部活でなんかあったらガッコ的に体面が悪いでしょ?」
彼女の返答にヒカルは「確かに……」と感じる。
わりと説得力のある答えだったのだ。
「それに……あたしらもう来月で2年だよ。この時期に部活やってる人なんているわけないじゃん」
ミナミの言うとおりで、今日は3月24日。すでに春休みに入っていたのだ。
「ヒカルさぁ…….2年になったら、なんかクラブ活動やってよ」
そう言うミナミは、目線をカフェの外へ向けた。時間はすでに夕方近く。お客が帰ったあとのカップを片付けていたら、ミナミが彼にそう言い、続けて告げる。
「剣道とは言わないけどさ……。ヒカルずっとモヤッてるでしょう? なんかやったほうがいいじゃん」
彼はミナミのほうを向いた。彼女は何かを感じ取ってる眼差しで、彼はミナミから目をそらして口を開く。
「考えとくよ。とりあえず、やりたい事がないときは、金貯めろってどっかのシンガーが言ってたからバイトしてるだけだよ」
「どっかのシンガーって?」
ミナミが聞き返す。
「母さんが教えてくれたんだけど名前は忘れた……。なんでも、やりたい事が見つかったときには金が必要だかららしい」
「沙也加さんか……。ほんとヒカルのお母さんは綺麗だよね~。最初会ったときはお姉さんかと思ったよ。それにカッコイイよね~。手に職持って稼いで、あたしはああなりたい!」
沙也加とミナミの二人はこのカフェで偶然会い、紹介したことがあった。それ以来沙也加とは仲良くなり、息子であるヒカルとは関係なしに、勝手に家に呼んだりしている。
ヒカルは面倒くさそうに言う。
「母さん曰く、仕事にのめりこみ自信を持ち過ぎると、男選びに苦労すると言っていたぞ」
「あ――! あたしもそれ沙也加さんに言われた――」
「さぁ、お客さん。もう夕方ですのでお帰りください」
「ぶー!」
ミナミは、頬を膨らましながら怒るフリをした。
「ただいま……」
ヒカルが、母親と住む家へ帰ってきた。
けれどリビングへ行くが、沙也加の姿は見当たらない。
リビングを出て、家の地下へ行く。地下には、母の趣味であるロボット機械の研究をする工房があるからだ。実際に母は自分で作った小型のロボットを置いており、その部屋を「機人部屋」機械の人の部屋と呼んでいた。
ブーブー♪
機人部屋の入口に備え付けてあるドアホンを鳴らす。ノックしても機械音がうるさくて、中の人間は気づかないからだ。
カチャ! ガラガラッ。
ロックを解除する音のあと、スライド式のドアが開かれる。ロックをしているのは、中で何を行っているかがわからないからだ。鍵を付ける前、ヒカルは危なくロボットの回転アームに頭を砕かれそうになったことがある。
「お帰りヒカル 夕飯食べようか」
彼は「あぁ……」と返事をしながら、部屋の奥を見る。そこには8軸のロボットアームが勢いよくブンブンと動いていた。動きはとても軽やかで、かなり人間の動きに近いように見えた。
リビングへ戻り、母と一緒に夕食であるカツカレーを食べながら会話をする。
「前回見たときよりも、アームの動きが良くなっている感じがしたけど……制御系を変えたの?」
ヒカルは母に、思ったことを聞いてみた。
息子の問いかけに、母親である沙也加は煮え切らない感じで答える。
「うん。それもあるけど、知り合いの大学の研究室でもらってきた新素材を試してみたの」
「新素材?」
「本当はダイバーズウオッチ用で開発されて、深海でも耐えられる軽量な素材なんだけどね……」
沙也加の歯切れが悪い。
「耐久性がよくない?」
ヒカルはまた、思ったことを素直に口にする。
「そう……。よくわかるじゃない。高温に弱いのよ。水の中なら問題ないけど、駆動部は熱が出るから長時間の使用には耐えられないのよね……。ふわぁぁぁ……」
沙也加が大きくあくびをした。
「無理しないほうがいいよ。一旦寝て、頭を冷やしたほうがいい」
ヒカルの言葉に、彼女は微笑みながら答える。
「うん……そうする。いったん頭を寝かせる」
「俺が片付けるよ」
ヒカルがそう言い食器を片付けはじめると、母はテーブルに肘をつき、両手を自分の頬に当て話し出す。
「今日はずいぶんご機嫌じゃない。なんかいいことでもあった?」
「別に……」
彼女の息子は、そっけなく答えた。
確かにヒカルは、高校に入学してすぐに反抗期になった。それでも子どものイラつく態度を見ても、母である沙也加は変わらずに接してくれる。
ヒカルは「本当に母親には恵まれている」と、心の奥底から感じていた。
翌日の朝。
ヒカルは、沙也加がまだ起きてこないうちに外へ出た。
軽く家の前で柔軟を済ませたあと、勢いよく走りだす。身体がなまっていたのを感じていたからだ。剣道をやめたあと、激しい運動はしていない。なので定期的に身体を動かすようにしている。
家を出てから坂を上り『谷中霊園』の中を真っ直ぐ走り抜ける。
さらに進んで大きな道に出ると、左へ曲がって『上野公園』へ向かう。
『東京芸大』を過ぎ上野公園の敷地内へ入るころには、だいぶ身体が温まってきた。
『上野動物園』の正門前を通り過ぎると、目の前を金髪の外国人が歩いているのが見えた。
ヒカルよりも若く見えたので中学生くらいだろうか。モデルとしても通用するくらいに整った顔立ちと、綺麗な金髪に一瞬目を奪われる。
なにか特別な空気感を漂わせている女の子で、それにずいぶんと変わったデザインの洋服を着ていた。
ヒカルは「あれってポンチョ? いや、ファンタジー映画でよく見る「ローブ」が一番しっくりくるだろうか……」と、感じる。そう思いながら金髪の彼女の横を通り過ぎ、出口に向かって走り続けた。
上野公園の中にある『五條天神社』の前を通り『弁天門』から公園の外へ出る。そのまま『不忍池』の外周をぐるりと回り『根津駅』方面へ向かう。
ヒカルは、走るスピードをあげた。途中『根津神社』に入り、数多く並ぶ鳥居の下をくぐり抜けながら坂を上る。
(息が上がる……。本当にずいぶんと身体がなまっていたみたいだ……)
根津神社は、沙也加が好きな神社だったので、小さい頃からなにかと連れてこられた。だからなにか想うことあると、ヒカルもここに来るようにしていた。
根津神社を出たあと住宅街に入り、谷中霊園へ向かって走る。
霊園の中に入りスピードを落とす。家までのクールダウンだ。
「あぁぁっ――!」
ゆっくり走っていると、突然道すがらにある右横の路地から呻くような声が聞こえてきた。
ヒカルはその声に立ち止まり、来た道を戻る。
路地の奥のベンチに、女の子が座っていた。
その姿を見て、すぐに先ほどの上野公園で見かけた金髪外人だと気づく。
「うわぁぁ――!」
彼女は、自分の左腕を見ながら悲鳴を上げた。
ヒカルは彼女に近づく。よく見ると彼女の左手、小指部分が燃えるように赤くなっている。
彼女は自分の右手で、その指に触れた。
バシッッッ!!!
彼女の右腕が大きく弾かれたのが、ヒカルに見えた。
「ハァぐッ…………」
彼女はさらに呻く。
「考えてる暇はない!」と、ヒカルは行動する。
「なにをモタモタしてるんだ!」
彼はそう叫びながら彼女に近づき、彼女の左腕を強引に掴んだ。
「よこせ!」
ヒカルは彼女の左手小指、さらに赤くなっている指輪を確かめると、それを半ば強引に指から引き抜いた。そしてすぐに感じる。
「うあぁ! なんだよこれ! 凄く熱い……」
熱いと言っても単なる熱さではない。中心から湧き上がるような熱。形容するなら電子レンジの中に手を突っ込んだような痛みだった(もちろんそんな経験はない!)。
「早く投げ捨てて!」
眼の前の彼女が、ヒカルに言い放つ。
彼は右手を振って、指輪を強引にはらい落とそうとした。でも……。
「なんだこれ? ダメだ! 握った手の平から離れない!」
その指輪は、ヒカルが自分の指でつまんだ状態。熱に似た「もの」が、さらに溢れ出る……。
その様子を見て、彼女がさらに叫ぶ。
「貴方の小指にはめてください!」
(俺の指にはめる? 何を言ってるんだ……)
でも、右手の熱さはどんどん膨れ上がるし、手から離れない。
(ええい! どうとにでも!)
そしてヒカルは、我慢できずにその指輪を自分の小指にはめた……。