『深夜のベルボーイ』書評
ジム・トンプスン『深夜のベルボーイ』に打ちのめされた。『安物雑貨店のドストエフスキー』と呼ばれる二十世紀アメリカの作家のトンプスンだが、これは恐らく『罪と罰』を強く意識した作品である事は間違いないのじゃないか。ラスコーリニコフがソーニャに促されて通りで跪くのと正に好対照のラストが描かれる。閉じ籠った部屋の中で、通りを行く人々から裁かれる。しかもその裁かれ方が、殆ど人智を超越した段階の運ばれ方をする。そう感ぜざるを得ない様な筋運びになっている。初めは、現実に行った悪事が裁かれない。しかしその反動の様に、最期には自分が知らなかった事までもが断罪の卓に上げられる。
だがその「知らなかった事」こそは本当に胸を揺さぶり、且つ物語が導かれる方向に戦慄する。主人公ダスティは父を心底憎悪していて、「通りの人々」を通してかつての自分が父にした仕打ちが、最後にまた「通りの人々」を通して今の打ちのめされた自分に返ってくる。その重心に在るのが、自分の憎悪を天地逆にした、「父からの愛情」なのだ。
主人公ダスティの視点(これが結構ぶれて、他人の内側にも潜航してしまうのが面白い。通例教えられる小説の作法から言えば「あり得ないミス」という事になるだろうが、しかしそのルールが動かしがたい法として振る舞う明確な根拠などあるのだろうか?)でもって物語を追う読者には、何が本当で何が嘘かが主観的に分かる。だから父の弁護人コスマイヤーが、或いはその人物を通してその意思を感じ取る事が出来る「通りの人々」が、ダスティが実際には犯していない咎でまで断罪している事を知ってはいる。しかしそれは或る種、実際に犯した罪の「精神的な解釈」とさえ言える程巧妙なものであるのが凄い。読者でさえ「これは本当にダスティが無意識に犯した罪なのではないか…?」と自分を疑ってしまいそうな緻密な構造を持っている。一方でダスティの偽らざる苦悩の方も、読む事に因って同化して、つまり同情して体験してきたのにも関わらずだ。
この『深夜のベルボーイ』の、最後二章の怒濤の畳み掛け…自分なんかは軟弱だから、母に似た恋人の真実の愛の判明と、父に渡していた小遣いの使い道の判明とから、確かに内心が半ば腐ってる下衆ではあるダスティが、弱り目も祟って改心する…なんて道も在ってもいいのでは、という風にも一方で思ってしまう。
しかしそれはドストエフスキーが『罪と罰』で既にやった事だった。トンプスンは違う。何故なら、そこはアメリカ南部の町だから。或いは、戦い戦いでなくなり、赦しが赦しでなくなった、二十世紀を経験しているから。
ダスティに改心の余地は与えられない。超越的な断罪者として覆い被さる「通りの人々」が、それを許さない。或る時はザルな癖に、また或る時には地獄の閻魔になる大衆というもの。
この『深夜のベルボーイ』終章で、弁護士コスマイヤーという人物を通し主人公に対して超常的なまでの審判を行う、ドストエフスキーのそれと共通する、「通りの人々」。とてつもなく凄い描写だし、こんな凄い物が一文でも書けたら、とは思うのだが、しかし別の方からこれを見る。「大衆」と呼ばれる、我々の周囲を取り巻き、それでいて且つ我々の内部にいつも犇いている、己が口から出る言葉の端々からさえも染み出してくる怪物を。そうそれは真実を内面の奥まで見透す閻魔などでは決してありえない、不定形な怪物じゃないか、と。例えばネットニュースのコメント欄を眺めていれば感じずにいられない。
だからこそこの後、『ポップ1280』の様なものにも到達したのだろうとも思う。そこでは、或る意味で町中が皆殺しにされる。「通りの人々」を何食わぬ顔で殺して回り、且つ「それが俺の役割だったのだ」と悟りさえする、イカレた保安官が。それは我々という、我々自身にも手に負えない怪物を終末に飲み込みに来たアバドンであり、深淵を覗き込んだ時に同じ顔で覗き返すという深淵。虚無。全てであり且つ何も無いという、只々在るだけの空洞。
それは『深夜のベルボーイ』の神話にも似た結末を書いて後の(あるいは『罪と罰』を通しての)、必然的帰結だったのかもしれない…等と、邪推極まりない事を考えている。
小説というのは、「どんな話でも書ける」という。そういう人もいるかも知れない。だが「書けない話」というのがある、と時々思う。例えば今思い付くのは、「同級生をいじめ抜いた末に窓から飛び降りさせて、それから自分は夢の為にアメリカに留学しまして、今は人類を救う研究をしてます」…なんて話。こんなのは、とても俺には書けない。それは現実だろう、どこまでも。だがそれだけに、書くに堪えない。そして見るに堪えない。そんなものがあるとすれば、それは無を書いてるんですらなく、取れて体から離れた目玉が虚空に浮かんでるだけ。その時には見るべきものが一番見えなくなってしまう。体も頭も、心臓も自分から離れて行ってしまう。目だけになった人間はやりきれない。そして、如何にありふれている事か。
ジム・トンプスンや、彼の中にも生きている大作家ドストエフスキーは、「通りの人々」をよく見ていた。そこにある現実と言う名のものの殆どが、「書けない話」まみれだという事を、本当に意識していた。だからこそ「書けない話」にくり抜かれた、一筋の「書ける話」に到達できたのだと思う。心から尊敬する。