聖女追放フラグ
聖女追放のフラグが立った。
ドロイア王国の伯爵令嬢クリスティアーナ・ボッシュは獄中でそれを感じた。
髪も服もぼろぼろになり、枯れ枝のように瘦せ衰えた彼女は、冷たく汚れた床に跪き、静かに神に祈りながらその時を待った。
***
クリスティアーナ・ボッシュが幼い頃、母が病気で亡くなった。父である伯爵は、侯爵家の未亡人と再婚した。彼女には、クリスティアーナよりも年上の連れ子がいた。
美しく優しいアウレリアだ。
クリスティアーナは、義母と義姉を目の敵にした。昼も夜も彼女らの悪口を言いふらし、卑劣な嫌がらせをした。
ボッシュ家の義理の姉妹が年頃になったある日の事、敬虔なアウレリアは領地の森の中に《癒しの泉》を見つけた。病や怪我に苦しむたくさんの村人たちが、その泉の水に触れるだけで快癒した。泉はたちまちその地方一帯の評判になった。
だが狡猾なクリスティアーナはその手柄を横取りし、聖教会から列聖された。なんという間違いだろう。小賢しい悪女のクリスティアーナが、聖女になったのだ。だが、家族や正直な使用人たちが真実を聖教会に申告すると、列聖は取り消された。その腹いせに、クリスティアーナは泉に細工して、水を枯れさせてしまった。
クリスティアーナは修道院へ送られる事になった。彼女が修道院へ送られる日には、村人たちは馬車へ石を投げ、口汚く罵りながら見送った。
修道院へ入ってからも、クリスティアーナは問題を起こした。
あろうことか、彼女はドロイア王国そのものに呪いをかけ、国内に疫病を蔓延させたのだ。
クリスティアーナは、今度は国中から憎まれ、蛇蝎のように嫌われ、ついに投獄された。貴族でなかったら、とっくに死刑になっていただろう。
***
獄吏が来て、まだ祈りの途中のクリスティアーナを獄中から乱暴に引っ立て、王の御前裁判へ連れて行った。
絢爛豪華な王の間には、既に裁判関係者が居並んでいた。
ドロイア国王、王妃、大司教、クリスティアーナの父、義母、義姉、そして義姉の婚約者である公爵の嫡男グスタフ。
全員が穢いものを見るように、獄吏に蹴飛ばされ緋色の絨毯の上に倒れた、みすぼらしく悪臭を放つ少女を見た。
クリスティアーナは、よろよろと力なく上半身を起こし、誰とも視線を合わせずにうつむいた。
「クリスティアーナ・ボッシュ。貴様は虚言を重ね、罪なき人々を傷付け、神を冒涜し、この偉大な王国に疫病を広めた。ゆえに魔女とみなし、国外追放の罪に処す。何か申し開きはあるか?」
嫌悪のこもった目を向けながら、グスタフがクリスティアーナに告げた。
グスタフは宰相である公爵の跡取り息子であり、王立裁判所の裁判官でもあった。将来的に父の爵位だけでなく宰相位も継ぐのは既定路線とされている。
グスタフの隣で、アウレリアが悲しげに義妹のクリスティアーナを見下ろしていた。だがいくら優しいアウレリアでも、この厳粛な御前裁判の場で、義妹の減刑を願い出る事など出来なかった。
クリスティアーナはしゃがれた声で言った。
「……もう、フラグは立ちましたわ……」
大司教が青筋を立てて叫んだ。
「不敬な! 神の名のもとにフラグなどという妄言を吐き散らす魔女よ、地獄の業火に焼かれるがいい!!」
アウレリアは義妹のクリスティアーナを見て、痛々しげに目を細めた。
「クリスティアーナ……こんな事になって残念だわ。どうか……心を強く持ってね」
クリスティアーナは初めて顔を上げ、ざらざらした不快な声で、義姉に答えた。
「これが、神の御心ですから」
「おい、貴様が神の名を口にするな! ああ、アウレリア、君は優し過ぎるな。こんなクズに温かい言葉など不要だ。それに追放先は、あの罰当たりの国だ。この魔女にはちょうどいいではないか」
グスタフが酷薄な笑みを浮かべ、玉座の国王を振り仰いで裁可を求めた。
「陛下、どうかこの者に判決を!」
皆が押し黙り、国王の一言を待った。
国王は肥満した体をピクリとも動かさず、ぼろ雑巾のような少女をちらりと一瞥しただけで、面倒くさそうに言った。
「その者を、アンセル王国との国境へ追放せよ」
衛兵に引きずられ、連れて行かれるクリスティアーナを見て、グスタフが吐き捨てた。
「二度とその汚い足をドロイアの国に踏み入れるな!」
父は終始陰鬱な顔をして、貝のように押し黙っていた。
義母と義姉も慎ましく口を閉ざし、悲しげに抱き合いながら、クリスティアーナの後ろ姿を見守っていた。
*******
三年後。
同じ王宮の最上級の迎賓室で、国王、王女、宰相、大司教の四人が、国賓を迎えていた。
上座に置かれた豪奢な椅子に座っているのは二人。
見目麗しく眼光鋭いアンセルの王太子、リオネル。
その隣に、追放されたはずのクリスティアーナ。
クリスティアーナは見違えるように美しくなっていた。
光に透けてきらめく白金色の髪、咲いたばかりのすみれのような紫の瞳。天上のミルクのようなすべらかな肌に、美しいカッティングの絹のローブが輝くようだ。
ドロイアとアンセルは同じ神、同じ聖教会を信仰している。
その聖教会の最高位の聖職者女性、つまり、聖女のみが纏えるローブを、クリスティアーナは堂々と身に着けていた。
気詰まりな沈黙を破ったのは、ドロイアの宰相だった。
「えー……アンセル王国王太子殿下、ならびにクリスティアーナさま、この度はわが国にご足労いただき、まことにありがたく存じます。その上、わが国の国難にご助力いただき……」
「まだ協力するとは言ってないが?」
長い足を組み、椅子の背にもたれたリオネルが、よく通る声で牽制した。
宰相は居心地悪そうに手足をもぞもぞと動かした。ドロイア側の者で、椅子に座っているのは国王と王女マルグリットだけ。宰相と大司教は、その場に直立している。
両国の臣下達は部屋の隅にそれぞれ黙って控え、会合の成り行きを見守っている。
三年前よりもさらに肥えたドロイア王が、大儀そうに口を開いた。
「アンセルの王子よ、よく来た。早速だがそこの女に、フラグとやらの内容を尋ねてみよ」
空気が凍りついた。
仮にも隣国の王太子であり、国賓であり、国の運命を左右するであろう頼み事をする相手に取るべき態度ではない。
王の隣に座る、ぽっちゃりとした体型の二十歳の王女は、父を恥じるように顔を伏せた。
ドロイア側がアンセルの王太子と追放したクリスティアーナを国賓として公式に招いたのは、アンセルが三年前、神の啓示を受けるという聖女を得て、それによりいくつもの国難を乗り越え、ますます富み栄えていたからだ。そしてその聖女こそが、ドロイアが追放したクリスティアーナだった。
ドロイアから見たアンセルは、軽薄な罰当たりの国だった。神の教えを都合のいいように解釈して、古い伝統をないがしろにし、新しいものにホイホイ飛びつく。実にけしからん国だ。クリスティアーナの言うフラグなどという怪しげな啓示の内容も、彼らはすぐに信じて聖女として祭り上げてしまった。あまつさえ、アンセルの王太子リオネルは、その聖女と婚約までしたらしい。
だが、それが両国の命運を分けた。クリスティアーナを聖女として受け入れたアンセルは国難を幾度もかわして大きく発展し、彼女を追放したドロイアは度重なる疫病や飢饉や暴動に対応できず、国は傾いている。
だからこそ頭の固いドロイアも、ようやくクリスティアーナの言葉に耳を傾ける気になったのだ。
折も折、「クリスティアーナがドロイア王国に関する重要なフラグが立ったと言っている」という情報が、聖教会ルートを通してドロイア王国上層部の耳に入った。
そして彼女の言葉を聞くために、宰相は苦労してあちこちに根回しをし、国賓という破格の待遇で、こうしてようやくアンセル王太子とクリスティアーナを迎えたのである。
その貴重な機会を、王その人がぶち壊しかけている。
宰相は苦々しげに王を睨んだ。この王は食べる事しか眼中にない。政や民の幸せなど、二の次三の次だ。一切口を開かぬよう釘を刺しておくべきだったのだ。
案の定、王の無礼な物言いに、リオネルの端正な面立には怒気が立ち昇っていた。クリスティアーナは終始無表情で何も言わない。王女マルグリットはそんな国賓の二人を、ただおろおろと見ているだけだ。
宰相は、手を揉み合わせながらクリスティアーナに媚びへつらった。
「聖女殿、いや、あなたの義姉アウレリアはわが息子の妻でしたな。わが娘、と呼んでもいいかな? クリスティアーナ」
「クリスティアーナは生家とは絶縁している。貴殿とは何の関係もない」
リオネルが吐き捨て、立ち上がった。
「貴国が荒廃するとわが国にも影響が及ぶと思い、私の婚約者のたっての願いもあってわざわざ足を運んだのだが、どうやら間違いだったようだ。帰るぞ、クリスタ」
「お待ちください」
初めてクリスティアーナが口を開いた。
凛とした声だった。三年前とはまるで違い、自信と風格を備えている。
「リオネルさま、ドロイアの人々のためにも、どうか最後まで話をお聞きください」
切れ者だが傲岸不遜で有名なアンセルの王太子は、婚約者には非常に弱いという事もアンセル国内では有名だった。リオネルは不本意そうに再びどさっと腰を下ろした。
「……仕方がないな。では、続けるがいい」
「ありがとうございます」
クリスティアーナは淡々と言った。
「それでは国王陛下および大司教猊下、今から、わたくしが神より受け賜りしフラグをお教えする条件をお伝えします」
「じょ、条件だと? そんなものは聞いていないぞ!」
宰相が血相を変えた。ドロイアの国庫はずいぶん前に尽き、今は質の悪い貨幣を乱発して苦境をしのいでいる状況だ。だがクリスティアーナは平然と言った。
「ご安心下さい。こちらが求めるものは金銭や領地ではありません」
「で、では、何を……」
「条件は二つ。一つ目は、あなたがたドロイア聖教会がわたくしに与えた魔女の汚名を撤回し、聖女に列聖し直す事」
大司教は愕然とした。
「馬鹿なっ、そんな事が出来る訳がないだろう!!」
「大司教、今は王国の一大事です! ここはなにとぞ……!」
いきり立った大司教の体にしがみつくようにして、宰相が頼み込んだ。
列聖を取り消すならまだしも、一度魔女と呼んだものを撤回し、さらに再び聖女にするなど、何よりも体面を重視するドロイア聖教会にとっては前代未聞の赤っ恥である。
だが背に腹はかえられなかった。今回の国難は一刻を争うものとなっている。数年前から断続的に襲ってくる疫病に加え、農民の反乱が各地で頻発し、金銭感覚の無い国王の浪費により国は破産寸前だ。
聖教会の元にも、困窮した信者たちが毎日列をなしてやってきているのだ。このままではいつ大規模な暴動が起きて、聖教会と大司教の貯えた金が奪われてもおかしくない。
「ぐ……ぐぎぎぎ…………わ、わかった……」
真っ赤になってぶるぶる震えながら、大司教はどうにか了承した。宰相は胸をなでおろした。国王はどこまでも無関心に、今日の昼食は何かな、とでもいう風な顔をしている。クリスティアーナが続けた。
「二つ目の条件です。これまでにドロイア王国においてわたくしが起こした奇跡を再調査し、奇跡と認定した上で、わたくし達と全ドロイア国民に開示する事」
「貴様、何を図々し……」
「はい、喜んで!!」
怒りを再燃させかけた大司教の言葉を、宰相が急いで遮った。どのみちクリスティアーナを聖女と再認定するのであれば、奇跡の認定とて同じ事である。
クリスティアーナがうなずき、かすかに唇の端を上げた。
「ありがとうございます。それでは、条件が整い次第、フラグの内容をあなたがたにお教えいたしましょう」
***
三年前、ドロイアを追放されたクリスティアーナは、水も食糧もなく今にも倒れそうな状態で国境の森林地帯をどうにか抜けると、すぐにアンセルの村人達に発見され、村の聖教会で介抱された。
徐々に元気を取り戻していった彼女は聖教会の下働きをするようになり、そのうちに、アンセルにも爆発的に疫病が蔓延するというフラグが立ったのを感じた。
クリスティアーナは迷った末、世話になっている聖教会の司教にそれを伝えた。驚いた事に、司教はすぐさま仔細を郡の司教に報告し、郡の司教はそれをまた王都の大司教に送った。
アンセル聖教会は大々的にクリスティアーナの提言したフラグ回避策――こまめに手を洗う事――を採用し、結果、疫病の流行は極めて小さいものにとどまった。
クリスティアーナに興味を持った王都の大司教は、彼女を王都に呼び寄せ、話を聞いた。その聞き取りの最中、クリスティアーナはまた新しいフラグが立ったのを感じた。
王太子暗殺フラグ。
すぐにクリスティアーナはそれを大司教に話した。
間もなく王太子本人に呼び出されて、彼にも同じ事を話した。冷血だという噂の王太子リオネルの射るような視線に、クリスティアーナは物怖じもせず淡々と暗殺フラグについて語った。
リオネルは彼女と何時間も話し合い、検討を重ねた末に、助言をすべて受け入れた。暗殺は無事回避され、首謀者も捕まった。
王太子はこの一件でクリスティアーナを気に入り、王宮の一角に住まいを与えて折に触れて彼女を訪ね、助言を求めるようになった。
その内に二人は深く愛し合うようになり、クリスティアーナは王太子リオネルの求婚を受け入れて、婚約者となった。
クリスティアーナにとって幸運だったのは、王太子が知的好奇心と柔軟な想像力の持ち主であり、それは総じてアンセルの国民性でもあった、という事だろう。
***
「以前訪れた時には、ドロイアはなんと美しい国だと思ったのだが…」
今、リオネルはドロイア王宮内で最も格式の高い客室の窓から王都を見下ろし、呟いた。
ドロイアの王都は荒廃していた。朽ち果てたまま再建もされない建物も多かった。アンセルから通じる大街道沿いを馬車の一団で通っている間にも、ごろつきや浮浪者を多く見た。
クリスティアーナが隣に立って、同じように窓の外を見た。リオネルがその肩を抱いて言った。
「あの方の言っていた事は本当だったな。この惨状では心を痛めるのも無理はない」
クリスティアーナも、物憂げにうなずいた。
「そうですね。もしも今回の事がうまくいけば、きっと……」
「きっとうまくいくさ。なにしろ聖女さま直々のご訪問で、機会を与えてやってるんだ。これを無駄にするような王家なら、そのまま滅びるがいい」
「まあ、リオネルさま、そんな事は……」
「冗談だ。俺だって、愛する君の生国を救いたいと思っている」
リオネルはクリスティアーナを両腕にすっぽりと包み、頭に口づけした。
その口づけはゆっくりと額に、頬に、下りてくる。
密着している体全体にリオネルの熱を感じ、クリスティアーナは頬を染めた。
聖女の資格は、純潔の乙女である事。結婚し純潔を失えば、神の御心を受け取ることも出来なくなる。
「リオネルさま、そろそろ次のご予定が……」
そう言ってさりげなく体を離しかけ、不意に、クリスティアーナは紫の瞳をはっと見開いた。
リオネルが気付いて顔をのぞき込む。
「どうした、クリスタ?」
「…………いえ……なんでもありません……」
リオネルを見上げ、クリスティアーナは弱々しくほほ笑んだ。
***
一週間後。
迎賓室を、リオネルとクリスティアーナが訪れた。
先に入って待っていたのは、前回と同じく、ドロイア国王、王女、宰相、大司教。
さらに、今回はなぜかグスタフとアウレリア夫妻も来ていて、宰相の隣に並んで立っていた。彼らはクリスティアーナが部屋に入ってくると、その変貌ぶりに驚き、気まずそうに目を逸らした。
リオネルとクリスティアーナが席に着き、臣下達が壁際に控えると、宰相が愛想よく言った。
「大変お待たせいたしました、アンセル王国王太子殿下、並びに聖女クリスティアーナさま。ドロイア聖教会によるあなたさまの列聖と奇跡の認定が終わりましたので、ここにそれをお伝えする次第でございます。それでは、お約束通り、フラグの内容を……」
「奇跡はどのように認定されたのですか?」
話を先へ進めようとする宰相を遮って、クリスティアーナが尋ねた。グスタフ夫妻の顔色が変わり、宰相はしどろもどろになった。
「あ、あの、それはですね……まず、《癒しの泉》ですが、あれは確かにあなたさまの発見に間違いないと認められました」
「いや、父上、それでは不十分だ」
青ざめた顔のグスタフが、一歩前に進み出て言った。
「どうか言わせてください、皆さん。《癒しの泉》を発見したのは紛れもなくクリスティアーナであり、ここにいる義姉のアウレリアはそれを妬んで自分の手柄にしようと、使用人達に命じて嘘の証言をさせたのです。さらに、伯爵夫婦が聖なる泉を柵で囲い、泉に来た村人から金を取ろうとした途端に泉の水は枯れ果てましたが、アウレリアはその事もクリスティアーナのしわざにしました。両親はその事を知っていたが、見て見ぬふりをしていた。アウレリアとその両親は、家族ぐるみでクリスティアーナを貶め、虐待し続けていたのです!」
「う、嘘よ! グスタフ、あなた、とんでもない嘘つきだわ!」
真っ赤になって否定する妻に、グスタフは嫌悪のこもった視線を向けた。
「既に複数の関係者の証言を得ている。いまさらシラを切ることは出来ないぞ、アウレリア。お前のような悪女とは離縁する!」
「なんですって……それなら、私も言わせてもらうわ。クリスティアーナが修道院で疫病の蔓延を予言した時、王宮から話を聞き取りに派遣された官吏は、それを一笑に付して取り合わなかった。その官吏というのは、あなただったそうね、グスタフ。しかも、あなたはクリスティアーナを口説こうとしてはねつけられたものだから逆恨みをして、国王陛下に進言したそうじゃない? クリスティアーナは国を乱す魔女です、って。そのせいで彼女は国外追放になったのよ!」
「な……う、嘘をつくな! デタラメだ!!」
「嘘なものですか、あの時、修道院の院長や修道女達が私に直訴しに来たんですもの! まったく恥ずかしいったらなかったわ! 今日だって、あなたが私を出し抜こうとしてるんじゃないかと心配で、こうして一緒に来てみてよかった。あなたのような人とは別れます!」
「それはこっちの台詞だ!」
醜い夫婦喧嘩を繰り広げる二人に、大司祭は軽蔑のこもった眼差しを向け、告げた。
「それが真実ならば、両名共に聖女クリスティアーナへ害をなした罪で、聖教会を破門する」
グスタフとアウレリアはぴたりと喧嘩を止め、呆然と大司教を見た。保守的なドロイアにおいて、聖教会からの破門は社会的な死を意味する。保守的なゆえに、正式に聖女と認定された途端クリスティアーナの側についた大司教は、無慈悲に言った。
「正式な通告は追って沙汰する。衛兵よ、この罰当たりどもを神聖なる国王と聖女の前から連れ出せ!」
衛兵に取り押さえられた夫婦は、口々にクリスティアーナに憐みを乞うた。
「クリスティアーナ……お、俺が悪かった! 助けてくれ!」
「お願い、クリスティアーナ! 破門なんてやめさせて! 聖女さま!!」
クリスティアーナは二人を見つめ、澄んだ声でこう答えた。
「これが、神の御心ですから」
グスタフとアウレリアは、絶望の表情で連行されていった。
あれよという間に息子夫婦を失った宰相は、疲れ切った顔で話を進めた。
「……えー……聖女クリスティアーナさまのドロイアにおける疫病の予言についての奇跡も、小規模ながら修道院とその周辺の村人たちを救ったという点において奇跡と認定されました……いえ、もちろん国としてしっかり対応していれば、もっと多くの民の命が救われたという事は重々承知しております、はい……私からは以上です」
「分かりました」
クリスティアーナは隣のリオネルと目を見交わし、うなずき合った。
「……二つの条件を満たしていただき、感謝いたします。それでは、これより神がわたくしを通じドロイア王国にくだされたフラグを、皆さまにお伝えいたします」
ごくり、とその場にいる人々の息を吞む音が聞こえた。国王だけはどうでもよさそうに耳をほじっている。
クリスティアーナが告げた。
「このままでは、ドロイアの王家は数ヶ月で滅びるでしょう。それを回避したければ、今すぐ国王陛下がマルグリット王女に譲位なさる必要があります」
王女本人も含め、ドロイア側の全員が目を丸くした。
「なんだと!」
突然、国王が顔を怒気もあらわに立ち上がった。
「おのれ、貴様! 聖女を騙りわが国を動乱に陥れようと……」
リオネルがクリスティーナをかばいながら腰を浮かし剣の柄を握るのと、部屋のあちこちで臣下達が剣を抜きかけるのと、大司教と宰相ががばっと国王に抱きつくのが同時だった。
「陛下、さすがでございます! 国民のためにおん自ら身を引いていただけるとは! 神も天上でさぞお喜びになっている事でしょう。陛下の魂の平安は、約束されたも同然ですな!」
「陛下、私からも心よりお礼を申し上げます! 隠居後の離宮には国の最高のシェフを集め、毎日素晴らしい食事を作らせましょう! ですから、王位はなにとぞ、王女殿下にお譲りください、ね?」
「ん……そ、そうか……? うむ……それなら、頼んだぞ、マルグリット」
「は、はい……陛下……」
まだ呆然としている王女の隣で、国王が再び、どすんと巨体を椅子に落とした。
かくして、ドロイア王国の新しい君主はマルグリット女王と決まった。
***
「マルグリット女王は、俺達の結婚式に参列してくれるそうだ」
ある平和な昼下がり、アンセル王都にある王宮の中庭で椅子に座り、手紙を読みながら紅茶を飲んでいたリオネルが言った。手紙は、結婚式の招待状へのドロイアからの公式の返信だった。噴水のしぶきが作る虹を眺めていたクリスティアーナが振り向いた。
「女王の政務でお忙しいはずなのに、嬉しいですわ」
「クリスタの好きなドロイアの菓子をたくさん持ってくる、と書いてあるぞ。ずいぶん仲良くなったものだな」
「ええ。マルグリットさまは素晴らしい方ですわ。お友達になれて嬉しいです」
ドロイアのマルグリット王女が、たった数名の従者と共に非公式にアンセルへやって来たのは、クリスティアーナ達のドロイア訪問から二ヶ月ほど前の事だった。
マルグリットは大人しそうな外見とは裏腹に、知性と行動力、そして愛国心に溢れた王女だった。
アンセルにいくつもの奇跡をもたらしたと評判の聖女クリスティアーナに面会を申し込み、聖女が王太子に伴われて現れるやいなや、体面などかなぐり捨てて頼み込んだのだ。
どうか聖女さまのお力で、傾きかけたドロイアを救ってほしい、と。
折も折、クリスティアーナはドロイアに関するフラグが立った事を感じていた。
そして、どこかからそれを聞きつけたドロイアの宰相から、ぜひわが国に来てお話をお聞かせ願いたい、と打診されていた時だった。
リオネルは、君を追放したドロイアになど行く必要は無い、と一蹴していたのだが、そこへ来てのマルグリット王女のお忍びの来訪と懇願だった。王女の国を思う真摯な気持ちに動かされ、故郷を助けたいというクリスティアーナの願いもあって、リオネルはドロイア訪問を了承したのだった。
だが、マルグリット王女自身も、フラグの内容までは聞かされていなかった。まさか、自分が戴冠する事になるなどとは、思ってもいなかっただろう。
帰国して間もなく、王太子とクリスティアーナはふたたびドロイア王国から招待された。
今度は、マルグリット女王の戴冠式に列席するために。
戴冠式では、マルグリットは二人を丁寧にもてなし、心からの感謝を伝えた。彼女だけでなく、ドロイアの宰相や大司教や他の高官達からも感謝の嵐だったのには、二人とも苦笑した。前国王は、よほど人気がなかったのだろう。
「彼女と友達になる事も、フラグで分かっていたのか?」
明るい日差しの注ぐ中庭で、面白そうにリオネルにそう尋ねられると、クリスティアーナの顔に少しの緊張が浮かんだ。
「……いえ……そこまでは……」
「そうか」
微妙な間があった。
「……クリスタ。前から聞きたかったんだが……俺と結婚する事も、君は予め知っていたのか?」
クリスティアーナが、ぎくりと体を強張らせた。
噴水の音がやたらと響く長い沈黙の後で、彼女は言った。
「……リオネルさま、わたくしは十四歳で《癒しの泉》を見つけた際に、初めてフラグというものを感じました。その時に、おぼろげながらも前世の記憶のようなものも思い出し、それが『予感』や『前兆』を意味する言葉である事も思い出しました」
「ほう。君には前世の記憶があるのか」
リオネルは興味深そうに聞いている。この事をクリスティアーナが誰かに話すのは初めてだった。
「……いえ、前世については、あやふやな断片のような記憶しかありません。ですが、フラグが立ったと感じる時には、はっきりとした未来が視えます。そのフラグを回収した場合の未来と、回避した場合の未来、そしてその分岐点となる行動です。たとえば、先日のドロイア訪問の際には、ドロイア王家の滅亡フラグが立っていました。そしてドロイアの人々は分岐点でマルグリット王女を選び、滅亡を回避しました」
「なるほど。俺もこの目でそれを視てみたいものだ」
リオネルがあいづちを打ったが、顔は「さっきの質問に答えろ」と言っている。クリスティアーナは観念したように言った。
「……わたくしは…………はい、アンセルの王宮でリオネルさまと出会い、しばらく経った頃……わたくしには、リオネルさまと結婚するというフラグが視えていました……」
真っ赤になりながらクリスティアーナが言うと、リオネルは目を細めて悪戯っぽく笑った。
「君がそのフラグを回収してくれてよかった」
クリスティアーナは、心底ほっとしたような表情を浮かべた。正直に話せば、どう思われるか心配だったのだろう。そんな彼女にリオネルは近づき、ぎゅっと抱きしめた。
「……気味が悪くはないですか? 未来が見える人間など……」
クリスティアーナは不安そうに尋ねた。
「俺は君のすべてを愛している。聖女である事も含めて」リオネルは力強く言った。「……逆に、君はいいのか? 今更だが、俺と結婚すれば聖女の能力は失われるのだろう?」
「構いません。あなたが側にいてくださるなら、わたくしはどんな未来だって怖くありません」
珍しく、クリスティアーナは感情をあらわにした。
「クリスタ……」
「リオネルさま、わたくしは幼い頃からずっと家族に冷たく扱われ、心を殺して生きてまいりました。ドロイアを追放された時も、自分が生きようが死のうが、どうでもよかったのです。でも、あなたと出会い、あなたと結婚する未来が視えた時……初めて、あなたの側にいたいと強く願いました。今まで生きてきてよかったと、初めて心から思いました」
クリスティアーナは、両手でリオネルの頬に触れて言った。
「愛しています、リオネルさま。この世界の何よりも」
普段は心の内を見せないクリスティアーナが告げた愛の言葉と真剣な眼差しに、リオネルは珍しく動揺し赤面した。
だがそれを見てふふっと笑みをこぼしたクリスティアーナに、リオネルは仕返しのように、激しいキスをした。
あのとき。
ドロイア王宮の客室でリオネルに口づけされた時、クリスティアーナは新たなフラグが立ったのを感じた。
聖女の帰還フラグ。
聡明なマルグリット女王の即位は、その功労者である聖女クリスティアーナのドロイアでの人気を爆発的に高めた。
現在、ドロイア国民の間には聖女の帰還を求める声が日に日に大きくなり、聖教会ルートを通じて、クリスティアーナはドロイアの大司教から帰国の打診も受けていた。
回収するべきか、回避するべきか?
クリスティアーナはそれを独断で回避した。ドロイアの大司教には丁重に、だがきっぱりと断りの返事を送った。これまで政治的に重要なフラグが立った時にはそうしていたように、リオネルやアンセル首脳陣に報告することさえしなかった。
クリスティアーナにとっては、未来が見える能力など、福音ではなく呪縛だった。今でこそドロイアの国民は掌を返したようにクリスティアーナをもてはやしているが、かつてあの国では、そんな能力があっても誰にも喜ばれなかったどころか、魔女と呼ばれて追放の憂き目に遭ったではないか。
それに、リオネルと結婚する未来が視えた時にはもちろん嬉しかったが、もしも何も知らずに彼から結婚を申し込まれていたら、自分はもっと死ぬほど喜んだだろう。
聖女の地位になど少しも未練はなかった。ドロイアで列聖や奇跡の認定という条件を出したのは、「聖女」の言葉で外堀を埋める事により、マルグリット女王の即位を確実なものにするという目的のためだけだ。
断じて、聖女帰還フラグを回収し、リオネルと離れ単身ドロイアに戻り生涯聖女として活躍するため、なんかではない。
落ち着いた性格と聖女という地位ゆえあまり口には出さないが、リオネルの黒髪と黒い瞳が、クリスティアーナはとても好きだった。常に険しい目付きが、自分を見ると、途端にふわりと優しくなるところもたまらない。低い声も素敵だし、政務に忙しいために時折見せる不精髭も色気があって好ましい。傲岸不遜で冷血と評される事のある性格も、裏を返せば自信と指導力に溢れ合理的判断の出来る、王の器にふさわしい人間という事だ。それに実際のところは、リオネルは思いやりと機知に溢れ、話の分かる性格だった。
正直に言えば、はっきり言って最初はクリスティアーナの方が一目ぼれだった。リオネルと何度も会う内に、恋心はますます募っていった。初めてリオネルから愛を告げられた夜は眠れなかった。冷静沈着な聖女を装ってはいるが、一日でも彼に会えなければ寂しくて死にそうだった。あまりにも好き過ぎて困ってしまう。聖女でなくたって、そんな事絶対に口には出さないが。
帰還フラグ回避の先には、リオネルとの結婚式が視えていた。だが、その先の未来までは視えない。これが神の御心に沿うかどうかは分からないが、もう既に結構役に立ったのだから、結婚を機に聖女を引退して、幸せになったっていいじゃないか。
キスの後、クリスティアーナはリオネルの胸に頬を埋め、希った。
初めて心から愛したこの人と、ずっと一緒にいられますように、と。
リオネルはそれに応えるように、クリスティアーナを見つめ、真剣な表情で言った。
「クリスタ、これからは未来の心配など一切不要だ。俺は必ず君を幸せにする。アンセル王家の名にかけて、今ここで誓おう」
クリスティアーナの紫の瞳に、じわりと熱いものが浮かんだ。
「……ありがとうございます、リオネルさま。わたくしは……とても、幸せ者です……」
「俺もだ、クリスタ。俺を選んでくれた事を、決して後悔はさせない」
リオネルは、クリスティアーナの涙を指で優しく拭った。
今までのすべての不幸も悲しみも、涙と一緒に拭い取られてしまったかのようだった。
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アンセル王国を挙げての華やかな結婚式が終わった翌朝。
クリスティアーナの聖女としての能力は、きれいさっぱり消えていた。
だが、少々寝不足気味の彼女の表情はとても晴れやかで、夫からの溢れるような愛に満たされたものだった――とは、侍女達の言である。
その後、アンセルの王太子夫妻は次々に子宝を授かり、その子ども達は、のちに隣国ドロイアとも婚姻関係を結んだ。
クリスティアーナ以降、フラグを視る事の出来る聖女はついに現れなかったが、彼女の子どもたちが懸け橋となって両国は温かな親交を続け、末永い平和を享受したという。