51 カモメの帰るところ
茜色の空に駆けのぼっていけそうなくらいの勢いで、バドは砂浜を走っていた。
そして、その数メートルうしろを、おなじく息を切らしながらトレヴァが追いかけていた。
二人は〈鹿の角団〉の地下アジトを脱出してから、一度もたちどまることなく港から浜辺へでて、海に沿って砂を蹴りつづけていた。
〈はずれの港町〉の領内の、もうだいぶはずれのほうまできていた。
もうしばらく時間が経って陽が暮れれば、港町のあかりが遠景としてきれいにみえるかもしれない。
「なぁ、おい! そろそろ休もうぜ――!?」トレヴァが荒れた息の合間に叫ぶ。
しかし、バドはまるで無視するかのように走っている。
なにかから追われているかのように。なにかをふりきろうとしているかのように。
「なぁ! おい!! 聞いてるのか!?」トレヴァは眉間にしわをよせる。「なぁ!?」
だんだん腹がたってきて、トレヴァはこめかみに血管を浮かせたまま、さらに加速してバドに追いつき、うしろからバドの右足の裏を蹴った。
バドは思わぬ衝撃に、声にならない声を発しながら、もんどりうってはげしく転倒した。
しかし、一面が砂浜だったため、しばらくごろごろころがって砂まみれになっただけで済んだ。
もとからバドは身体だけは丈夫だったのだ。
口にも砂が入ったようで、バドはぺっぺっと吐きだしたのち、あぐらをかいた。
そのまえにトレヴァが立つ。
「なにするんだよ……ひでえな」バドが抗議する。つかれた顔をしていた。
「そうしなきゃおまえ、死ぬまで走りつづけただろ、ばか」トレヴァは胸にたまった息を吐きだす。おなじく、疲労が顔ににじんでいた。
バドはぼんやりとトレヴァをみた。
トレヴァの全身と瞳が、夕陽の色にそまっている。
長い影がのびていた。
黄金色の世界――それはバドが気に入っている朝でも昼でも夜でもないはざまの時間帯だった。
「なに、寝ぼけたような顔してんだよ」トレヴァが微笑する。「ずっと、寝ぼけてるみたいにむちゃくちゃしてたけどな、ここ最近のおまえは――」
そう言われて、バドはこの二日間を回想する。
そして、〈はずれの港町〉で過ごした半年間をなんとなく追想した。
デュアンたちには罪悪感をおぼえたけれど、なにもかもが夢のようにすら感じられた。
あまりにも遠い夢で、なんだかつかれを感じた。
それでも、目前で憎らしい笑みをうかべているトレヴァは現実だった。
また夢路はふりだしにもどってしまった。
しかし、はじまりのときとおなじように、トレヴァがそばにいてくれる。
バドはゆっくりとたちあがり、着ている灰色のコートに付着した砂を払い落とす。
夕焼けのおかげで、いつもよりはきれいにみえたけれど、コートはずいぶんよごれていた。
そのコートは当初、雪のようにまっしろな代物だった。
伯爵都で学校を卒業した頃、偶然通りかかった洋服屋のウィンドウに飾られていて、バドはそのコートにひと目惚れしたのだ。
とてもクールにみえたし、それを着ている自分もまた歴代の英雄たちのようにかっこよくみえたりするのではないか。
バドはウィンドウにかぶりつき、目をぎらぎらさせながら、そんな自分を想像した。
しかし、そのコートの値段は、バドには遠く及ばないものだった。
それでもバドは毎日コートを眺めながら必死に働き、無駄遣いをやめて費用を貯めた。
苦しい日々ののち、足りないぶんは父親に借金をして、ようやく購入した。
バドはめずらしく努力したのである。
それでも、ようやく手に入れたコートにそでを通したあと、鏡に映った自分をみて、バドは落胆することになった。
似合っていなかった。
サイズの問題ではなく、根本的に色やデザインがバドにふさわしくなかった。
そのコートを着ているバドをみて、みんなが噴きだしそうになり、バドはそのたびにけんかをした。
それでもバドは、自分にそれが馴染んでいないことはわかっていた――。
バドは苦笑する。
自分が気に入ったものはいつでも、自分には似合わないのだ。
バドはその表情のままトレヴァと対峙する。
トレヴァになにかを話したかったが、言葉がなかなか浮かんでこない。
すると、橙色の空をふと――黒いちいさな影が横切った。
視線を向けると、どうやらカモメのようだった。
「ああ、そうだ……」バドはつぶやく。「機会があったら訊こうと思ってたんだった」
バドに合わせて、空を仰いでいたトレヴァが視線をもどす。「……なんだよ?」
「港もそうだけど、海辺にさ、昼間ってカモメがいっぱいいるじゃないか……」
バドは鼻をすする。
宝石のかけらを拾った早朝に、海辺を散歩していて抱いた疑問だった。
「ああ……」
「それが夜になると、どこかにいなくなっちゃうじゃないか。あれって、どこにいっちゃうんだろうな?」
バドが口をつぐむと、トレヴァはきょとんとする。
あまりにも思いがけない問いだったので驚いたのである。
波の音がした。
二人が黙ったので、つかの間、波の打ち寄せる音が聞こえたのだ。
「あのな……」
トレヴァは腰に手を据えて、ようやく口を開く。
「カモメだって、夜は寝るんだよ。ずっと空を飛んでるわけにもいかないだろ。そんなこともわからんか? 崖とか草むらとかさ、外敵におびやかされないところを巣にして寝るんだよ。人間だっておなじだろう? みんな夜には、安全なところで眠りたいんだ――」
バドは目を大きくする。
よく考えれば、あたりまえのことだった。
「そうか……そうだよな――」
そんな簡単なことが、あのとき、どうしてわからなかったのだろう――。
いや……バドは思いかえす。
そして、身のほどを知った気がした。あのときだけじゃない。
自分はどの瞬間でも、どうやら浅はかで、考えなしだったのだ。
「そうだよ、わかったか、ぶたのけつ」トレヴァがにやにやした。
バドはびっくりしてトレヴァをみる。
しかし、すぐに言いかえす。
「ふん、ちょっと知ってるからって偉そうにするなよな、ろばのうんこ」
そうして二人は腹から声をだして笑った。
ずいぶんひさしぶりに、心から笑い合った。
まるで友情という名の同盟を結んだ少年時代のように笑いころげた。
そう、トレヴァとバドはいつでも世界のはじっこにいた。しかし、そこで確かに笑い合っていたのだ。
ひとしきり笑ったところで、ふとバドは視線をかたむける。
目前にひろがる海のすべてが夕陽に満たされて、沖合がキラキラかがやいていた。
まぶしいほどの無数の光が、バドの瞳にとびこんでくる。
バドはその美しさに息をのむ。それは決して入っていくことのできない光の世界だった。
それでも、その無限の光のつぶてが、バドにこう言った気がした。
少年時代を忘れるな。
子どもの頃の夢を、希望の夜を思いだせ。
幼い日に信じた熱き魂を信じろ――。
――バドは全身にちからが入るのを感じた。心に強い気持ちがこみあげてきた。
それがどんな感情に起因するものかはバドにもわからなかった。
バドは思わず大声をあげる。
言葉にならない声を海に向かって吐きだした。
トレヴァは相棒の突然の暴挙に目を見張る。
しかしバドのそれは、まるで快哉を叫んでいるようにもみえた。
やがて、もうすぐやってくる夜に向けて、二人の少年は歩きだした。
行先はわからないが、行く理由はまだ失くしていない。
二人はもう一度、あてのない旅にでる。
不安な夜の向こうへと、ただひたすらに……。
夢路は遠く、果てしない。
かれらの不器用な足どりに安らぎはなく、行く先々でつまずき、後悔し、時には絶望にその脚をとめるにちがいない。
それでもバドはトレヴァの、トレヴァはバドの難しい人生を知っている。
だからどれほどの逆境にあっても、二人は離れることなく、旅路を共にしていくのだろう。




