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47 ろばのろっ骨

 少年時代――まだトレヴァが7歳で、10年さきの未来に、こんなふうに流浪の身になっているとは想像もしてなかった頃のことだった。


 トレヴァの父親が銀行業をいとなむ会社の関係者に、不正資金疑惑がもちあがった。


 トレヴァはいまでもそれについての詳細は知らない。

 まだ子どもだったということもあるし、家のだれにもそれを詳説してくれた人はいなかった。


 ただ毎日、家族が不穏な表情で暮らしていたという記憶だけがいまでも脳裏に焼きついている。

 ハースト家史上最大の危機だった。

 屋敷にも金融局監査委員やら外部調査機関員やらという知らない大人たちが行き交ったりして、息苦しかったのをおぼえている。

 トレヴァはその人たちと目が合いそうになるたびに、あわててそらしていた。


 競合会社が、ハースト家(トレヴァの父親)に私怨をいだき、なんらかのかたちで事件をでっちあげ、陥れようとしたのではないかというのが、のちにトレヴァが想像した全容だった。

 

 伯爵都の金融事情は他国のそれより比較的安定しているところがあったため、同業者も多かったのである。敵も少なからずいたにちがいない。


 その事件の発生により、ある日突然、トレヴァは外出を禁じられることになった。

 ことの真相が究明され、疑念が晴れるまでのあいだ、学校へももちろん、遊びにでることも、散歩をすることさえ自粛することになったのだ。


 トレヴァは不満をもっていたが、父親の命令は絶対だった。

 なによりそうすることでトレヴァの身の安全の確保もはかられていたのだろうということは、いまとなってはよくわかる。

 それでも、そのときのトレヴァには不可解な不平でしかなかった。


 学校へ行かなくなると、だれとも接することがなくなった。

 暗い表情の家のなかの人たちは、トレヴァの心を満たしてくれることはなく、退屈な生活がはじまった。

 同級生たちが訪ねてくることもなかった。

 おそらくハースト家にまつわる裏金の悪い噂がそうさせていたということもあっただろう。


 トレヴァは自宅の屋敷の二階のかたすみにある自分の部屋からでなくなった。

 ベッドに寝転がり、窓のそとを眺めながら過ごした。


 晴れた日も曇りの日も夕立が降った日もあったし、風が強い夜もあった。

 ときどき青空を鳥が横切ったりもしたが、そのときのことは漠然としかおぼえていなかった。


 感覚が鈍化していた。

 茫漠とした不安がトレヴァをむしばみはじめていた。


 ずっとこのまま孤独なのかもしれない――トレヴァはやがてそう考えるようになった。


 人生の意味や、存在の軽さといったものについて、初めて思い、ためらうようになった。

 みずからを取り巻くあらゆるものが希薄になってくるような気がした。

 手脚を動かすのが、腰をあげるのが億劫になり、ベッドから離れるのが面倒になった。


 トレヴァの顔から表情が消えていった。

 それは日が暮れていく西の空をみているような無力感だった。とても淋しくなった。


 一週間が経過したときだった――まるでミイラのようにベッドに横たわっていたトレヴァの耳に、キンッとかん高い音が聞こえた。


 トレヴァは無表情のまま音がしたほうに目だけ向けた。

 

 窓がみえた。

 陽光が射していたので、窓の向こうはよくみえなかった。

 トレヴァが目を細めると、もう一度窓が鳴った。キンッ。


 窓ガラスにひびが入った。

 トレヴァは緩慢な動きでベッドから起きあがった。

 だいぶ身体がなまっていて、全身に血がめぐるまで時間がかかった。


 そうして、窓ぎわまで歩いていくと、不規則な長さで放射状にのびたひびの中央に、土のようなものがついていた。


 トレヴァはひびを少しだけ指さきでなぞってから、両開きの窓を開け放った。


 一気に外気がとびこんでくると同時に、トレヴァの目前に、ぬっと顔が現れた。


「うわっ!?」とてもひさしぶりに、トレヴァは声を発した。

 それと同時に二、三歩あとずさってしまった。


「うわっ!? じゃねえよ! 驚いたのはこっちだって!!」窓枠にしがみつくようにして顔をのぞかせたのは、バドだった。


 バドは笑い顔だったが、こめかみに青筋をうかべ、汗をかいていた。

 肩で息をしている。

 どうやら二階にあるトレヴァの部屋まで筋力だけでよじのぼってきたらしい。


「石投げて合図してんだから、わかってたんだったらさっさと開けろよな!」


「あ、いや――」トレヴァは言葉につまる。

 

 バドと懇意になった同級生への告白騒動から半年が経過した頃のことだった。


「おまえ、一週間まえから学校さぼってるんだってな!!」窓枠から腕をだし、そこにあごをのせるようにしながらバドがほくそ笑む。


「は?」


「おれもたまたま一週間まえから風邪ひいて休んでたんだよ。それで一昨日復帰したんだけど、おまえがいなかったからさ! まわりのやつに聞いたら、おまえはおれより長く休んでるっていうからさ!?」


「休んでいるっていうか――」トレヴァは言いよどむ。


「べつに休んでいる理由なんかどうでもいいんだよ。そんなこと興味ねえし」バドが口をへの字にした。


 どうやらバドはバドなりに、トレヴァの家の醜聞を知っているらしい。


 トレヴァが返事に窮していると、「なに気色悪い顔してるんだよ、わざわざおれのほうから出向いてやったのに」とバドが鼻を鳴らす。


 トレヴァはそのとき、突きはなすような、追いすがるような、その両方の感情をないまぜにしたような瞳をしていたのだ。

 

 トレヴァはしばらく、にたにた笑っているバドをみていた。


「……ふ」やがて、笑みをもらす。「おまえに気色悪いとかいわれたくないよ。鏡みたことあるか、おまえだってぶたのけつみたいな顔してるんだぜ?」


 トレヴァがにやりとすると、バドはきょとんと虚をつかれた顔をする。

 蓄積した憂鬱にさいなまれたような表情のトレヴァが言い返してくるとは思わなかったのだ。


 しかし、バドはすぐに爆笑した。


「言うじゃねえか、おれがぶたなら、おまえは馬のけつだぜ!」


「は? 馬のけつなら光栄だね。あんなに美しいものは世の中にないから」トレヴァは得意げに目を光らせる。


 バドはムッとする。「じゃあ、ろばのけつ」


「ワンパターンだな」トレヴァは辛辣にかえす。


「じゃあ、ろばのろっ骨だ!」


 バドがなにかとてもおもしろいことを思いついたかのように叫んだので、トレヴァはつい噴きだしてしまった。


「なんだよ、そりゃ!」


 二人はしばらく笑いころげた。


 ひとしきり笑ったバドが咳払いする。


「とにかく、いいかね、ろばのろっ骨くん、偉大なおれさまがとても愉快な遊びを思いついたから、わざわざ誘いにきてやったんだ。さっさと、そとにきなさい――」


 そう言い放つと、バドは窓枠からさっと顔をひっこめた。


 まさか二階から跳び降りたのかと思い、トレヴァがあわてて下をのぞくと、バドはわりと器用に壁のブロックの継ぎ目やら雨樋やらをつたいながら降りていた。まるで子ザルのようだった。


「おい、気をつけろよ、ぶたのけつ!」トレヴァは窓枠からのりだして笑う。


 バドは慎重に降りながら「うるせーな、さっさとこいよ、ろばのうんこ!」と叫んだ。


 トレヴァはそのあと無断で外出し、その日は夕暮れすぎまで遊んで過ごした。


 帰宅したのち、家族に夜中まで説教をされたが、トレヴァは涼しい顔でやり過ごした。

 それまで自室のベッドでかかえていた長い夜の痛みに比べれば、叱られることなどなんの痛痒も感じなかったのだ。


 それからハースト家の疑惑が解消されるまで、バドはトレヴァを誘いにきた。

 そして、疑念が晴れたあとも、やはり当然のように顔をみせたのだった。

 なにひとつ同情などないにたにた笑いをうかべて――。


 トレヴァは、巨大まむしを放り投げるという無茶をしたせいで呼吸をはずませているバドをみながら、そのときのことを思いだした。


 二階までよじのぼってきて、窓枠にかじりついているバドの汗だくの顔……。


 だからだった。


 トレヴァが家族や恋人の想いをふりきってバドの無謀な旅にでる道連れになったことも、バドが〈鹿の角団〉に取り入ろうと無茶をしても見捨てる気にならなかったことも――。


 トレヴァは目を閉じる。


 あのとき迎えにきてくれたのだから、今度はトレヴァがバドのもとにやってこなくてはならなかったのだ――。

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― 新着の感想 ―
[一言] おーー。そういう事なのですね。なんでいいとこのぼっちゃんのトレヴァ君がそこまで付き合うのと不思議に思っていました。推しが、、推しが、、居なくなってしまったのはちょっと残念です。
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